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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

パレーシア

2013-12-02 04:50:01 | フーコーのパレーシア

 

 今日から、パレーシアについて、一緒に考えていただきたいと思います。それは、「特定秘密保護法案」のような実にマヌケな法案が国会で審議され、茶番劇を見せられるにつけ、このままではいけない、と私なり危機感を持つに至ったからです。そこで、パレーシアについて考えることで、民主主義のあるべき姿と、真実について、考えを深めることができたら、と考えたのです。

 まず初めに、フーコーがバークレーで、英語で行った講演「ハッキリ言葉にすることと真理  パレーシアという課題を意識すること」を翻訳したいと思います。

 

 

 

 

 

「パレーシア」という言葉の意味

 パレーシア[παρρησία]は、ギリシャ語の文献では、エウリピデス(紀元前484頃~紀元前407)に出てくるのが最初のようですし、紀元前5世紀末まで古代ギリシャの文学の世界で、ずっと使われてきたと思われます。ところが、4世紀末か5世紀の間、初期キリスト教の教父の文書からも見つけることができました。たとえば、ジーン・クリソストモ(紀元345~407)の文献には、何十回も登場します。

 この言葉には3つの形があります。名詞形の「parrhsia」、動詞形「parrheisazomai」[παρρησιάζομαι]、そして、「parrhesiastes」[παρρησιαστής]という言葉です。この最後の形は、それほどなくて、古典の文書の中に見つけることはできません。むしろ、それは、ギリシャローマ時代、プルタークとルシアンの文献にだけ見つかります。あるルシアンの対話の中には、「死は人生に不意打ちでやってくる、さもなければ、その漁師は、「Parrhesiades 」[Παρρησιαδής](大胆に語る人)だ」。その人たちの1人にも、その名があります。

 「parrhsia」は、英語には「言論の自由」と翻訳されるのが普通です(フランス語では「francparler」、ドイツ語では「Freimüthigkeit」と翻訳されるのが普通です)。「parrheisazomai」や「parrheisazesthai」は、「parrhsia」を使うことですし、「parrhesiastes」は、「parrhsia」を使う人です。すなわち、真実を語る人です。

 今日のセミナーの最初で、私は「parrhsia」という言葉の意味の概観と、ギリシャ・ローマの文化を通してその意味が進歩したことについて概観しておこうと思います。

 

 

 

 

 フーコーが、パレーシアについての講義を始めるにあたって、話に道すじを付けたところです。きちんと古典を学んで、フーコーが、パレーシアの使用例にきちんと当たって、一つ一つを検討していることが分かります。

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「悪い見方」の根っこ

2013-12-02 03:21:43 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ダニフル先生は、ルターに対する見方が非常に厳しいですね。なぜなんでしょうか?

 前回段落の途中で翻訳を切ったのでね今日の冒頭は段落の途中からの再開です。したがって、一字下げは致しません。

 

 

 

 

 

ただし、ダニフル先生は次の事実を無視しています。すなわち、ルターがこの言葉を奥さん宛ての、(いつもの)ユーモラスな手紙に記したのは、奥さんが、ルターの食欲が落ち込んでいることを心配していた時だった、という事実にダニフル先生は眼を瞑っているのです。それに、ダニフル先生が生真面目にそれとなく示していることは、この下品さがルターの救いのひな形なのだ、ということです。ダニフル先生がこの意見を基礎づけた引用を、ここで翻訳するのを控えて等いられません。ダニフル先生の見方は、シェール先生の(ルターに対する)逞しいイメージとは対照的ですし、根っから違っているのに、おんなじように学者肌の提案をルターの人格の、実際の中心に対してなされた、1つの実例になります。

 

 

 

 

ダニフル先生が、ルターのユーモアを、下品と取り違えている可能性について、エリクソンはここで触れていますね。ネガティヴな評価は、えてして、このような誤解と偏見を前提にしていることが多いのですね。

 

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