ルターのイライラが、ルターが病、内因性の病気のためだと言います。
私は、心と体と魂のバランスの類については分かりませんが、こういった人々は、バランスが取れて当たり前と思っているのです。しかし、もし、そのバランスが存在していれば、ルターほど、敏感で、情熱的で、野心的な人はおりません。ルターは、多くの人はルターほどではありませんが、未熟な状態で献身することを避けるのに、良い内的な理由があったのかもしれません。若者の中には、成功しているのに苦しんでいる場合があります。当人にとっては、個人的に言って、偽りであって、後になれば、自分の真実な役割とかわることになることを避けられる間は、逃げ回ってさえいるのかもしれません。普通という、この大学教授のイメージと精神科医のイメージは、将来、専門で改革者になる人に対して用いるには、全くふさわしくない物差しです。しかし、それでは、精神科医は(聖職者と共に)、この点で神の手を否定するばかりではなくて、ルターの性格や体型を長々とあげつらって、「宗教的動物」の存在も無視します。「宗教的動物」は、しるしや奇跡によっては必ずしも描ける訳でもなく、証明される訳ではなくて、ルターの生き方に対する心の中の論理や、ルターの役に立つ賜物という論理や、社会に対するルターの影響力という論理によって、描かれ、証明されるのです。この論理を学び、定式化するのは、私にとっては、手近で仕事をすることになります。もしも、ルターのような一人の人物の全存在を考えたいと思えば、の話ですが。
ルターのような「宗教的動物」は、「普通」という物差しでは分からない。ルターの生き方をどう見るのか、ルターの賜物、ルターの社会に対する影響力で、あきらにすべきものだとするのが、エリクソンの考えです。