エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「宗教的動物」を測る物差し

2013-12-09 04:33:37 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ルターのイライラが、ルターが病、内因性の病気のためだと言います。

 

 

 

 

 

 私は、心と体と魂のバランスの類については分かりませんが、こういった人々は、バランスが取れて当たり前と思っているのです。しかし、もし、そのバランスが存在していれば、ルターほど、敏感で、情熱的で、野心的な人はおりません。ルターは、多くの人はルターほどではありませんが、未熟な状態で献身することを避けるのに、良い内的な理由があったのかもしれません。若者の中には、成功しているのに苦しんでいる場合があります。当人にとっては、個人的に言って、偽りであって、後になれば、自分の真実な役割とかわることになることを避けられる間は、逃げ回ってさえいるのかもしれません。普通という、この大学教授のイメージと精神科医のイメージは、将来、専門で改革者になる人に対して用いるには、全くふさわしくない物差しです。しかし、それでは、精神科医は(聖職者と共に)、この点で神の手を否定するばかりではなくて、ルターの性格や体型を長々とあげつらって、「宗教的動物」の存在も無視します。「宗教的動物」は、しるしや奇跡によっては必ずしも描ける訳でもなく、証明される訳ではなくて、ルターの生き方に対する心の中の論理や、ルターの役に立つ賜物という論理や、社会に対するルターの影響力という論理によって、描かれ、証明されるのです。この論理を学び、定式化するのは、私にとっては、手近で仕事をすることになります。もしも、ルターのような一人の人物の全存在を考えたいと思えば、の話ですが。

 

 

 

 

 

 ルターのような「宗教的動物」は、「普通」という物差しでは分からない。ルターの生き方をどう見るのか、ルターの賜物、ルターの社会に対する影響力で、あきらにすべきものだとするのが、エリクソンの考えです。

 

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話し言葉にして初めてなる真実

2013-12-09 03:08:35 | フーコーのパレーシア

 

 

「良い方」のパレーシアは、自分が知り得た真実を話すこと自体が真実である、ということ、つまり、真実が「二重構造の詰め合わせセット」になっているのですね。いわば、真実が二重になっている、ということです。

 

 

 

 

 

 ギリシャ語のパレーシアを、現代の(デカルトの)エビデンス 証拠という概念と比べたら面白いことになるでしょう。なぜならば、デカルト以降、信念と真実が一致することは、一定の(頭の中でやっている)証拠に基づく経験によって得られるからです。しかし、ギリシャ人にとっては、信念と真実が一致することは、1つの(あたまのなかでやっている)経験においてではなくて、言葉にする活動において、すなわち、パレーシアにおいて、成り立つのです。パレーシアは、ギリシャ人の意味では、私どものように現代的な認識論の枠組みでは、成り立ちえないように思われます。

 

 

 

 

 

 信念と真実が一致するとは、パレーシアでは、単なる頭の中での作業ではなくて、実際に、話し言葉にする作業を通して、成り立ちえることが分かります。これは、こころが、<イメージ ‐ 話し言葉 ‐ 出来事・体験>の結びつきからできていることと、表裏一体です。

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