エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

伝説であり、事実も含む時

2013-12-16 04:42:16 | エリクソンの発達臨床心理

 

 エリクソンの眼からみれば、ルターの発作は、自分を確かにする道を邪魔することの「しるし」でした。

 

 

 

 

 

 ルターが一生涯苦しんだ、あまり議論されることもない、一連の極端な精神状態、つまり、涙を流し、汗をかき、失神することになる精神状態から判断すれば、この聖歌隊での発作は、よくあったことなのでしょう。その発作は、特別だと報告された形で、すなわち、マルティンが修道僧をしていた数年間に特別な条件下で起きていました。そのいくつかは伝説になっているとしたら、それは伝説なのです。伝説を作り上げることは、歴史を学問的に描き換えるものですが、それはちょうど、元々の事実が学者の業績の中に用いられているのと同様です。私どもは、半ば伝説となり、半ば歴史であることを受け容れざるを得ません。そこでは、報告されている事実が、他のよく裏のとれた事実と矛盾せず、一連に真実が一貫し、心理学的理論と一致する意味を作り出す、ということだけが規定されます。

 

 

 

 

 

 ルターが聖歌隊の中で発作を起こした、というエピソードは半ば伝説となり、半ば歴史なのでしょう。事実だけを選り分けるのは、もはや困難なことでしよう。ですから、事実相互に一貫性があり、心理学的に考えて妥当な意味があると見做されれは、それでOK、ということになるのです。

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集会で話しをする品格

2013-12-16 03:15:36 | フーコーのパレーシア

 

 

 パレーシアは、立場の弱い人が、立場の強い人に対して、批判することだといいます。個を大事にする欧米の人でさえ、そのようであるのなら、ましてや、個人などというものは、建前はともかく、本音では「無用の長物」でしかない日本で、パレーシアを使おうとすれば、いつでも命懸けなのかもしれません。

 

 

 

 

 しかしながら、これは何も、誰もがパレーシアを使える、ということを意味するものではありません。エウリピデスのテキストに給仕がパレーシアを使うくだりがありますが、たいていの場合、「パレーシア」を使うには、「パレーシアステス」は自分自身の出自、自分自身の身分を知っている、ということがなくてはなりません、すなわち、「パレーシアステス」として本当のことを話し言葉にするためには、まず、男性市民でなくてはならないのが普通なのです。実際問題、誰か「パレーシア」を取り上げられた人は、男でも女でも、都市の政治的生活には参加することができず、「パレーシアの勝負」もやれないほどに、奴隷も同然の状況にあります。「民主的なパレーシア」においては、そこでは、人は集会、すなわち、エクレシアに向かって話をするのですが、話を集会でするには、1人の市民でなくてはなりません。実際、市民の中の最高の市民、すなわち、自分には話をする特権がある、と人様から認めてもらえるほどの、人格的、倫理的、社会的品格がなくては、集会では話ができません。

 

 

 

 

 

 

 古代ギリシャの集会で話をするには、今では想像もつかないほどの品格が必要でした。それは、いやというほどの茶番劇、暴力的な多数決、義論よりも、議論をした形が大事な日本の集会(議会)を、嫌というほど、見せられていると、逆に品格がある人は、あんな愚かなところには行きたくない、と思うのが当然な場所とは、真逆です。

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