病気とみられがちな発作におかげで、ルターが自分の人生を百八十度方向転換することになったというの、繰り返しますが、実に不思議です。文字通り、生きている不思議そのものでしょうね。
ルターが宗教的な天啓という、際立って異なる舞台(段階)を経験したという事実によって、他の宗教家達の回心に相当する、1つの心理学的根拠を確立することができたのかもしれません。そこでは、伝統は、一般的な信仰に訴え掛けるような、1つの全体的な出来事を伝えるように求めるようになります。私の考えでは、ルターを将来のある人物になることは、もはやできません。この将来は、私どもにとっては、心的現在なのですが、ただし、ルターが生粋の「宗教的動物」として、自分自身を確かにするようになることを示す、いくつかの段階を報告する際に、徹底的にルター自身が1つにまとまることだけが、ルターを将来のある人物にすることができます。私がこの点を強調して申し上げるのは、そうすることによって、ルターのケースがましになるからだけではありません(それは役立つと私は認めます)。それだけではなくて、そうすることによって、ルターが経験したこと全体が、1つの歴史的出来事となって、単にルター派にとってだけ大事なことではなくなります。つまり、人間の気付きと責務において、決定的に重要な出来事に、ルターが経験したことがなるわけです。この段階を、心理学的座標軸の中でハッキリ位置づけることこそ、この本の責務なのです。
ルターの発作に始まる経験が、単にルター派やキリスト者にとってだけ重要なことではなくなる段階、過程について、エリクソンは考察していますね。ここで大事なのは、エリクソンによれば、”まとまりのあるものとして見る” ことです。言葉を直接引用すれば、トータル totalであることです。バラバラにしておかない、のです。
ルターの経験を、”まとまりのあるものとして見る” ことによって、ルターの経験は、歴史的に普遍的な、すなわち、私どもが自分の(身近な人の)経験を考える際に、とても役立つ出来事になったのです。