ルターを下手に批判すると、それは具体的なイメージを与えることになりますから、ありのままを認めることに繋がってしまうのは、何とも皮肉です。
でも、「ひとりの偉大な」人のことを「ありのまま」に見なすことが、どうやったらできるのでしょうか?この「偉大な」という形容詞が含んでいる意味は、ルターに関する何かが、大き過ぎるし、恐れ多すぎるし、眩しすぎるので、描き切れない、ということです。それでも、人物全体を描き出す人には、選択肢が3つしかありません。思いきり遡って、その偉大な人物の輪郭が完全なのだけれども、ハッキリしない、とすることがまずできます。あるいは、少しずつ近づいて、偉大な人物の、2~3の側面に集中し、1つの側面をあたかも全体の様に、全体をあたかも一部分であるかのように見ていくことも可能です。このような作業ができない場合でも、いつでも、議論ができます。つまり、その人を偉大だと見做すのは、その人のことをそのように割り当てるという意味ですし、もしかしたら同じことをしたかもしれない、別の人を排除するという意味です。ことほど左様に、1人の人の歴史的イメージは、どの伝説が他の伝説に一時勝っているのか、ということ次第です。しかし、偉人の人生を見るあらゆる見方は、その歴史的出来事の雰囲気を掴むのに必要なのかもしれません。
偉人の人生を描くのに3つの選択肢があることが分かりました。しかし、この3つの選択肢は、どれも相補的なようです。