エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「偉大」を描き出すために、3つの選択肢

2013-12-13 03:32:29 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ルターを下手に批判すると、それは具体的なイメージを与えることになりますから、ありのままを認めることに繋がってしまうのは、何とも皮肉です。

 

 

 

 

 

 でも、「ひとりの偉大な」人のことを「ありのまま」に見なすことが、どうやったらできるのでしょうか?この「偉大な」という形容詞が含んでいる意味は、ルターに関する何かが、大き過ぎるし、恐れ多すぎるし、眩しすぎるので、描き切れない、ということです。それでも、人物全体を描き出す人には、選択肢が3つしかありません。思いきり遡って、その偉大な人物の輪郭が完全なのだけれども、ハッキリしない、とすることがまずできます。あるいは、少しずつ近づいて、偉大な人物の、2~3の側面に集中し、1つの側面をあたかも全体の様に、全体をあたかも一部分であるかのように見ていくことも可能です。このような作業ができない場合でも、いつでも、議論ができます。つまり、その人を偉大だと見做すのは、その人のことをそのように割り当てるという意味ですし、もしかしたら同じことをしたかもしれない、別の人を排除するという意味です。ことほど左様に、1人の人の歴史的イメージは、どの伝説が他の伝説に一時勝っているのか、ということ次第です。しかし、偉人の人生を見るあらゆる見方は、その歴史的出来事の雰囲気を掴むのに必要なのかもしれません。

 

 

 

 

 

 偉人の人生を描くのに3つの選択肢があることが分かりました。しかし、この3つの選択肢は、どれも相補的なようです。

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損はしたくない、がしかし、損をしても・・・というバカ

2013-12-13 03:02:26 | フーコーのパレーシア

 

 パレーシアは、自分が損をしても、本当のことを話し言葉にする勇気とシノニム(だいたい同じ意味の言葉、類義語)です。今日のところは、フーコーによるその続きです。

 

 

 

 

 

 お気付きの様に、「パレーシアステス」は、損するかもしれない危険を冒す人のことです。もちろんその危険は、命の危険である訳では必ずしもありません。たとえば、1人の友人が何か良くないことをするのを見て、その人に「君は良くないね」と話し言葉にすることで、その相手の人が怒らせるかもしれない危険を実際に犯す時、その人は「パレーシアステス」として生きていることになります。こんな場合、あなたは、命の危険を冒している訳ではありませんが、自分の言葉で相手の人を傷つけるかもしれませんし、あなたの友達との関係が、自分の言葉のために結果としてシックリいかなくなるかもしれませんね。もし、政治的議論の際に、演説をする人が、自分の意見が多数派の意見と対立するために、あるいは、政治的スキャンダルを巻き起こすかもしれないために、自分の人気をなくすかもしれない危険を冒したりしたら、その人は「パレーシア」を用いたことになります。その時、「パレーシア」は損するかもしれない危険を目の当たりにした時の勇気と結びついています。つまり、損するかもしれない危険がいろいろあっても、その危険にもかかわらず、本当のことを話し言葉にする勇気が、「パレーシア」には必要です。そして、その極端な形において、本当のことを話し言葉にすることが、生きるか死ぬか、という「勝負」の中で展開するのです。

 

 

 

 

 

 フーコーもエリクソン同様、極めて明晰な頭脳をお持ちです。議論が合理的で気持ちいいくらいの展開をしてくれますね。

 今の日本では、いかに、パレーシアとパレーシアステスが必要か、お分かりだと思います。「特定秘密保護法」などという、おぞましくも、マヌケな法律ができてしまう、まったくキチガイじみた時代においては、私どもはバカになって、本当のことを話し言葉にすることが必要です。キチガイとバカの勝負の時代が始まっています。

注) 差別用語の意味合いで用いた言葉はありません。

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