ダニフル先生にしてみたら、飲み食いの祈りをするようなルターは、「下劣」に見えたようですね。
その他、ルターが40台半ばに書いた憎悪に満ちた一冊の小冊子の中で、ルターは、説教でときにはやった、心許して、気安いやり方になります。ルターがハッキリさせたかったのは、こころには宗教以前の状態が確かにある、ということです。ルターは次のように記しています。「雌豚が一匹、溝か堆肥の中に寝そべっている姿は、まるで最高級のフェザーベットに横になる姿です。そのブタは安心して休み、そっといびきをかき、気持ちよく寝ていて、王様も領主様も、死も地獄も、悪魔も神の怒りも恐れず、何の心配もなく暮らし、クローバー(Kleien オランダ語で「答えを出す前に考えておくべきこと」の意)の在り処さえ、考えもしない。そして、たとえ、トルコの王様が、権勢と怒りをもってやって来ても、そのブタはあまりにも誇り高くて、シングルのウィスキー1つ、名誉にかけて、動かしません。たとえ、最終的に肉屋が近づいてきても、一切れの木か、1つの石で、つままれているとしか考えないでしょう。そのブタは、天国で我々不幸な人間に善悪の違いを教えた、あの木から一度だって実を食べたことがありません。」どんなに良い翻訳をしても、この文章の穏やかな説得力を正しく伝えきれないでしょう。しかしながら、あの聖職者はこの文書にある議論を省略しています。すなわち、ルターが読者に伝えたかったことは、待ち望んでいるユダヤの救い主は、人の暮らしを1人のブタが生活全般を高いレベルにした、その暮らしよりも十倍も良きものにはできない、ということです。キリストの再臨がなれば、それ以上でしょうけれども。しかし、誰も避けて通れないのは、ルターの豊かな人格には、私がルターの自分を確かにする道(アイデンティティ)の要素と呼ぶことになるものを、ダニフル先生も見抜いている、ブタ一匹を求める弱点が大きくあるのです。
ルターの人格の豊かさにある弱点が話題です。雌豚のたとえですから、ユーモラスに聞こえやすいところなのですがね。ダニフル先生もエリクソンも、そこが品のない弱点になると見たのは、なぜなのか?もっと知りたいところですね。