偉人を描き出すのは難しい業なのですね。3つの選択肢とて、それは丸ごとには描ききれない偉人を描く代替手段だというのが、正確なところでしょう。
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私が知っているところには限りがあり、この研究で私が自由に出来る余地も限りがあるために、1人の新しいルターの姿を描き出すことができなかったり、古いルター像を刷新できなかったりすることが出てきます。私が出来ることと言えば、いくつかの、いっそう新しい心理学的考察することだけですし、またそれは、ルターの生涯のある時期に相応しい既存の資料に影響を与えるためなのです。第一章で指摘しました通り、私が若い修道僧に関心を持つのは、あくまで、1人の偉大な人物になる過程における1人の若者としてマルティンなのです。
エリクソンがここで関心を示しているのは、偉人になった後のルターではありません。偉大な人物と呼ばれる前の、エリクソンが毎日の様に会うクライアントとあまり違わないマルティンなのです。言わば「可愛いルター」がエリクソンの関心事です。
パレーシアに伴う自分の損は、必ずしも命懸けではありません。しかし、時には、命懸けでパレーシアを用いなければなりません。その具体例として、フーコーが取り上げたのが、プラトンでした。でも日本では、プラトンの先生であるソクラテス(の弁明)の方が有名かもしれません。
1人の王様、しかも、エバリ散らすような王様が、パレーシアを使うことができないのは、まさに、パレーシアステスが本当のことを話し言葉にするときには必ず、自分が損をする危険を冒さなくてはならないからです。なぜならば、エバリ散らすような人は、損をするマネは決してしないからです。
あなた方が自らの命を危険に晒す様な、パレーシアな勝負をする時には、あなた方は自分に対する1つの特別な関係になります。すなわち、本当のことが口にされない所で、命が守られていることに安穏とするのではなくて、命を賭して本当のことを話し言葉にするのです。もちろん、死の危険は、「外側 権力側」から来るのです。だからこそ、自分自身に対する1つの関係が必要です。つまり、パレーシアステスが選択するのは、本当のことを話し言葉にする自分であって、自分を偽って安穏として生きる自分ではないのです。
フーコーは明晰です。パレーシアは、徹頭徹尾、自分との関係、自分に対する1つの態度であることを明確にしてくれます。それは、「自分を売ったらあかん / 自分を売ったらあかん」と繰り返す、岡部伊都子さんが示していることと、全く同じです。自分にウソをつかない、だかろこそ、人様にウソをなるべくつかない関係を育めるのです。
パレーシアステスとは、自分を決して売ることがない、自分にウソをつかない生き方なのです。