「知ること」=「倫理的」と見なす世界が古代ギリシャにあったことを教えられました。しかし、これは2,000年前にヨーロッパであっただけの世界ではないのです。押しなべて、ヒューマンサービスの領域においては、相手のことを「知ること」=「倫理的」になりますね。
パレーシアステスが正直であることに一種の「証明」があるとすけば、それはパレーシアステスの勇気です。1人の話し手が身に危険が迫ること(多くの人が信じていることとは異なり)を話すとすれば、その事実こそが、その人がパレーシアステスであることに証明になります。誰が本当のことを話す人なのかをどのようにしてわかるのか? という疑問を私どもが取り上げるとなれば、私どもが取り上げる疑問は2つです。第一に、ある特定の個人が本当のことを話す人かどうかは、どうやればわかるのかという疑問です。第2に、件のパレーシアステスが、自分が信じていることが、実際に本当のことだと、どうやれば確信が持てるのかという疑問です。第一の疑問、すなわち、誰かがパレーシアステスと認めることは、ギリシャ・ローマ社会では極めて重要なことでしたし、後ほど確認するように、プルタークやガレン達が明瞭に取り上げ議論しました。第2の疑い深い疑問は、しかしながら、ギリシャ人には違和感があると私は信じている現代的な問いです。
本当のことを話すのは誰だ? という疑問に対して、正直者の見分け方と真実に対する確信が持ち方という2つの疑問に分析されます。