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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「本当のことを話すのは誰だ」にまつわる2つの疑問

2013-12-10 03:46:15 | フーコーのパレーシア

 

 「知ること」=「倫理的」と見なす世界が古代ギリシャにあったことを教えられました。しかし、これは2,000年前にヨーロッパであっただけの世界ではないのです。押しなべて、ヒューマンサービスの領域においては、相手のことを「知ること」=「倫理的」になりますね。

 

 

 

 

 

 パレーシアステスが正直であることに一種の「証明」があるとすけば、それはパレーシアステスの勇気です。1人の話し手が身に危険が迫ること(多くの人が信じていることとは異なり)を話すとすれば、その事実こそが、その人がパレーシアステスであることに証明になります。誰が本当のことを話す人なのかをどのようにしてわかるのか? という疑問を私どもが取り上げるとなれば、私どもが取り上げる疑問は2つです。第一に、ある特定の個人が本当のことを話す人かどうかは、どうやればわかるのかという疑問です。第2に、件のパレーシアステスが、自分が信じていることが、実際に本当のことだと、どうやれば確信が持てるのかという疑問です。第一の疑問、すなわち、誰かがパレーシアステスと認めることは、ギリシャ・ローマ社会では極めて重要なことでしたし、後ほど確認するように、プルタークやガレン達が明瞭に取り上げ議論しました。第2の疑い深い疑問は、しかしながら、ギリシャ人には違和感があると私は信じている現代的な問いです。

 

 

 

 

 

 本当のことを話すのは誰だ? という疑問に対して、正直者の見分け方と真実に対する確信が持ち方という2つの疑問に分析されます。

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偏見の極み ルターは階級の利害から動く

2013-12-10 03:45:44 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ルターのような「宗教的動物」を測るには、それなりの尺度が必要なようですね。

 

 

 

 

 

 私は少数の、しかも、最も印象的で、最も事情に通じた試みをレヴューするのを、もう一つの引用、もう一つ示唆的なルターのイメージを伴う、ルターに対する偏見で締めくくろうと思います。このイメージは社会学からやってきます。社会学は、私ども著者が熱望する種類の査定に欠かせない中心的に学問分野です。『ドイツ宗教改革の社会的基礎』がなかったら、すまなかったでしょうし、できなかったでしょう。もっとも、著者のアール・パスカルは、社会科学者であり、歴史的唯物論者ですし、他の伝記作家において出合う平常心と同じ平常心によって、彼が私や私の分野なしに、いかにことに当たっているのかを言葉で表現します。彼は次のように言います。「(ルターの症状の)底にある根本原理は論理的なものではなく、心理学的なものでもありません。すべて矛盾する中で一貫しているのは、階級的利害の一貫性なのです」

 

 

 

 

 偏見があると、見方がここまで歪むのか、というレベルまで、歪んでしまうのかが分かります。その意味では、見る者の眼が非常に重要です。

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「知ること」=「倫理的」

2013-12-10 03:14:54 | フーコーのパレーシア

 

 信念と真実が一致するのは、信念を話し言葉にすることで始めて成り立つ、ということは、あまり顧みられることがないかもしれません。真実となれば、紙で示せる証拠 エビデンスが必要ですから、通常は、真実は証拠 エビデンスとの関係が意識されるのであって、信念との関係はあいまいのままになりがちです。

 

 

 

 

 

 私はハッキリと記しておくべきだと思うことは、パレーシアが真実を自ら携えていることを疑っているような文書は、古代ギリシャの文化においては、1つたりとて、見つからないことです。実際問題、デカルトの課題とパレーシアの態度には違いがあります。なぜなら、デカルトは議論の余地がないくらいに明確で際立った証拠 エビデンスを手に入れる前は、自分が信じていることが、実際に真実であるか確証がありません。ところが、パレーシアのギリシャ語の意味では、真実を獲得するという問題がないように思われます。というのも、このような真実を得ることは、一定の倫理的性質を得ることによって保証されるものだからです。誰でも、そのような倫理的性質があれば、そのことが、その人が真実を知りうる証拠でした。逆も真なりです。「パレーシアのゲーム」が前提とするのは、パレーシアステスには倫理的性質があるということですし、その倫理的性質は、第一に真実を知るために、第二に、そのような真実を他者に伝えるためにあるのです。

 

 

 

 

 

 時代が違うと、考え方が驚くほど違うのですね。今の日本では、エビデンス付きの真実を知ろうとするのは、学問的業績を積んで、大学教授になるという実利のため、と言うのが本音ではないですか。加藤周一が言うように、日本人は極めて「現実主義」ですからね。しかし、古代ギリシャでは、真実を知ろうとすること自体が極めて倫理的性質を帯びていたのですね。ですから、倫理か歴史で、ソクラテスの「汝自らを知れ」の件を習う時には、「知ること」と「倫理的であること」がシノニム(同じ意味の言葉)であることが分かるのです。

 ましてや、真実を人の伝えるとなれば、いっそう倫理的性質が問われるのです。なぜなら、自分が語ることに、ウソとゴマカシとマチガエが含まれてないか、吟味の繰り返しが求められるからです。

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