エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

物覚えの良いルターが、発作は忘れている不思議

2013-12-18 03:57:24 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 ルターは、シュタウピッツ先生というメンターに出逢うことによって、「病人」→「偉人」のトランジションが準備されたのでした。

 

 

 

 

しかし、シュタウピッツは、ルターがおっかない思いをしているのはキリストにせいだと言うことを捨ておきませんでした。シュタウピッツは言いました。「君におっかない思いをさせているのはキリストであるはずがありません。なぜなら、キリストは悲しむものを元気にしてくれるからです」。これは、ルターにとって、神学的に意外な事実だけではなくて、治療的にも意外な事実ですし、ルターはそのことも覚えていました。ところが、聖歌隊での発作に関しては、ルターは健忘症にかかっていたのかもしれません。

 

 

 

 

 

 細かなことでもいろんなことを覚えているルターが、聖歌隊での発作に関しては忘れている不思議。それは心理的にヒステリーを連想されますよね。ことによると健忘かもしれません。

 

 

 

 

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本当のことを話し言葉にするのは、自由+当たり前

2013-12-18 03:14:58 | フーコーのパレーシア

 

 パレーシアステスとパレーシアは貧乏の友人です。

 

 

 

 

5.パレーシアと義務

 

 パレーシアの最後の性質は、これです。すなわち、「パレーシア」においては、本当のことを話し言葉にすることは、義務と見なされる、ということです。たとえば、本当のことを受け止めることができない人たちに、本当のことを話し言葉にする話し手で、しかも、追放されるかもしれないし、何らかの形で罰せられるかもしれない人は、黙っていることもできます。その人は、誰かから(本当のことを)話すように強要されているのではありません。しかし、その人は、本当のことを話し言葉にすることが義務だ、と感じるのです。逆に、本当のことを話すように強要される場合(たとえば、拷問によって強制されて)、その時には、その人の話はパレーシアの話ではありません。裁判官から、罪の自白を強要されている犯罪者は、「パレーシア」を使っているのではありません。道徳的責任感から、自発的に誰か他の人に罪を自白するならば、その時には、その人はパレーシアの生き方を実行して、自分の過ちに気付かない1人の友人を批判しますし、あるいは、王様に君主としての自覚を促すことは、その都市国家にとって1つの義務である限りでは、そうなのです。「パレーシア」はこのように、自由にも義務にも関係します。

 

 

 

 

 

 パレーシアは、自発的に本当のことを話し言葉にする点で自由ですし、同時にそうすることは義務でもあるのです。パレーシアは、この二律背反が共存するところが、単なる知識とは異なり、実践哲学ですし、臨床心理学にも通じていることを示しています。

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