エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

パレーシアの勧め

2013-12-03 04:29:03 | フーコーのパレーシア

 

 パレーシアとはどんな意味なのか、まだ申し上げていませんでした。フーコーが今日のところできちんとそれに触れてくれています。

 

 

 

 

 

1.パレーシアと率直さ

 まず初めに、「パレーシア」の一般的な意味は何なのでしょうか? 語源的に申し上げれば、「パレーシアゼスタイ parrhesiazesthai」とは、すべてを語ることです。つまり、「パン pan[παυ](全て)」と「レマ rhema[δημα](語ったこと、つまり、話し言葉)」からできているのです。 パレーシアを用いる者、すなわち、パレーシアステス parrhesiastes は、心の中にあることを腹蔵なく語る人のことです。つまり、その人は、何事も包み隠さずに、自分の心にあることや気持ちを、対話を通して他者に完全に打ち明けるのです。パレーシアにおいて、話し手は自分の心にあることを完全に、しかも、正確に説明しているように思われますが、それは、聴き手が 話し手の考えていることを正確に理解するためなのです。ですから、「パレーシア」という言葉は、話し手と実際に話し手が口にしていることの、1つの関係について述べることです。なぜならば、パレーシアにおいては、話し手は、自分が話していることが自分自身の意見です、ということをハッキリと明確に表明することだからです。しかも、その話し手は、自分が考えていることを覆い隠すような類のレトリックを避けることで、意見を明確に述べます。その代わりに、パレーシアステス、すなわち、パレーシアの人は、探しうるものの中で一番直球の言葉と表現形式を使います。レトリックに頼れば、話し手は聴き手の気持ちにベールをかぶせるのに役立つテクニックを手に入れるけれども(レトリックを使う人は、自分が口にしていることについて、自分の意見は実際どうなのかは問いません)、パレーシアにおいては、パレーシアステスが、他の人たちの気持ちに影響するのは、他の人々にできるだけ率直に、実際に自分が信じていることを示すことによるのです。

 

 

 

 

 

 ここを読んでいただけたら、なぜ私が、「特定秘密保護法案」に抗して、パレーシアのことをブログに書いているのか、ご理解いただけるだろう、と思います。権力が最も嫌がるのは、言葉ですから、その言葉をハッキリと明確に表明する人、パレーシアステスを、権力は最も苦手とするからです。

 このブログを読んでいただいて、皆さんが立派なパレーシアステスになって下すったら、こんなに嬉しいことはありません。

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《神の視点》による相対化 対話への道

2013-12-03 03:36:18 | エリクソンの発達臨床心理

 

 キリスト者の特色の一つは、《いまここ》をとても大事にするけれども、同時に、それを相対化する《神の視点》にあります。ですから、目の前の《いまここ》が、自分の眼から見たら、いかに悲観的、絶望的に見えても、《神の視点》を信頼して、悲観的・絶望的に見える《いまここ》に、喜んで踏みとどまることができる、ということになります。

 また同様に、《自分自身》をとても大事にするけれども、同時に、それを相対化する《神の視点》を信頼します。ですから、目の前の《自分自身》が、自分の眼から見たら、どんなにかみじめで、みすぼらしく見えても、慈しみ深い《神の視点》を信頼して、《自分自身》から眼を背けたり、逃げ出したりなど致しません。むしろ、そんな《自分自身》に踏みとどまり、あるいは、一歩退いて眺めることによって、《自分自身》を大らかに笑って見せます。これが、《自分自身》を大らかに、朗らかに笑う笑い、ユーモアです。

 その好例が、最近亡くなられたやなせたかしさんでしたし、彼の分身たる、アンパンマンだったでしょう。ですから、《自分自身》に固執することなく、自分の顔(面目)等を人に差し出して、食べてもらっていたのだろうと想像します。

 

 ユーモアは、《いまここ》を相対化すると同時に、《自分自身》を相対化する方法でもあります。ですから、常に他者との対話に開かれた状態に、私どもを戻してくれるのです。ユーモアがないところでは、「堅苦しさ」と「息苦しさ」が支配します。もう息もできないので、窒息死間違いなしでしょう。そういう物の典型が、権力のオゴリと権力の秘密保護法(「特定秘密保護法」もその1つ)です。それは「治安維持」に名を借りた、残忍な人権蹂躙であることは、歴史が証明しています。

 ルターが手紙の中で、自分の飲み食いについて、ユーモアをもって語ったのは、ルターが《いまここ》と《自分自身》とを相対化していた証拠と、私はみなします。ですから、ルターのユーモアは、下品などでは全くなく、むしろ、極めて真実な、クリスチャニティーの表れというべきでしょう。

本日は、翻訳はお休みいたします。

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