エリクソンの関心は、あくまでも若い修道僧の頃のマルティンなのです。そのことを明確にします。
読者諸兄は思い出すはずですが、聖歌隊でルターが発作を起こした物語に私が引き付けられるのは、もともとは、「私じゃない」という言葉によって、この発作が、自分を確かにする道を邪魔する、非常に厳しい危機(非常に厳しいアイデンティティの危機)の要素になっていたことを示すのではないのかな、と何となく感じたからなのです。その危機は、この若い修道僧が、「私(は、何かに取りつかれているんじゃない、病気じゃない、罪深い訳じゃない)じゃない」ことに抵抗せずにはいられないと感じるものでした。しかも、それは、ルターの現状と将来の予定を突き破るためでした。この後に私が申し上げたいのは、私が何となく感じていることと、その感じを手掛かりに理解しようとしていることです。
発作となれば、「悪い病気」や「キツネ憑き」でも連想しがちです。しかし、ルターが、「私(は、「悪い病気」)じゃない」と言っていることから、その発作を、ルターが自分を確かにすることを邪魔している課題を示している、とエリクソンは感じたわけですね。
臨床場面でやっている治療の枠組みを参考に、歴史と歴史上の人物であるルターを、エリクソンが見ていることがハッキリ分かりますね。