エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「ルター=うつ病」という見方

2013-12-06 03:55:48 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ルターの筆が滑っているのか? エリクソンは何というのでしょうか?

 

 

 

 

 

 次に、デンマーク人の精神科医が、ルターの「環境」、性格、精神病について完璧な説明を、2巻の印象的な本の中で、説明しているのに、私はたまたま出くわしました。彼の研究は、ルターの時代と言う大局から、ルターの家庭だとか街だとかいった細かい部分まで、わたりますし、ルターの生物学的なつくりや、ルターの生涯にわたる、体と情緒の症状について、徹底した議論も含まれます。しかし、この精神科医は、自分が選んだ範囲を理解するのに十分な1つの理論も持ち合わせていません。彼は、精神分析を、あまりに教条主義的だと拒んだのも、プリザーブド・スミスから、自分自身あまり理論にのめり込まずとも使える枝葉を借りてきて、なされたものです。この人は、自分の研究法を率直に述べます。すなわち、ハッキリと精神病と分かった重篤な事例(診断:躁うつ病。クレペリン流に申し上げれば。)の相談に乗り、現状を記録し続けて(ルターは40代には急性期の精神病でしたね)、20代を含めた過去の病歴を再検証するのが、1人の精神科医の研究法だ、と言うのです。この精神科医が教えてくれているのは、ルターの余禄における、多大な洞察です。しかしながら、精神科医として役割のほかに、彼は自分の中心的な物の見方に、ぞっとするほど固執しています。それは、ルターのある試練や行動が、「重篤なうつ病の典型的な症状であることは間違いない」し、「あらゆる精神科の教科書にでてくるものである」ということです。ルターは年を重ねると、教科書に載っている状態に近づいたのは疑問の余地もなかったのでした。ただし、私は、ルターがあの悪魔に出合ったのは、真の幻覚であったし、ルターの精神的な苦痛に関する劇的な新事実が、1人の患者がしゃべっていることと同じレベルなのだ、ということに関しては、疑っています。

 

 

 

 

 

 「ルター=うつ病」という説も、まことしやかに語られていることが分かります。エリクソンは、これにはちょっと懐疑的なようですね。

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人として育つのは、話し手と話の中身が深くかかわる時だけ

2013-12-06 03:48:35 | フーコーのパレーシア

 

 パレーシアな話では、話し手の主体性、当人が話題をどのように実際に考えて、そして、実際にどのように生きているのか? が問われているようです。つまり、大事なのは、話し手の現実の人生哲学です。そういう意味では、客観性、すなわち、話し手の主体性、主観を捨象する(問わない)、いわゆる近代的なあり方とは対照的です。

 

 

 

 

 

 私が「言語活動 スピーチ・アクション」という言葉を用いて、ジョン・サールの「言語行為 スピーチ・アクト」(あるいは、オースティンの「話をすること パーフォーマティヴ・アタランス」)と言う言葉を使わなかったのは、パレーシアな話と実際にパレーシアな話をすることを、話し手本人と話の中身の間に通常ある関わり合いとは、はっきり区別するためなのです。なぜなら、話しの中で明らかになるように、話し手と話す中身の関わり合いは、パレーシアにおいては、特定の社会状況、話し手と聴き手の社会的立場の違いと関係しているからです、つまりは、パレーシアステスが言うことは、話し手本人にとって損になることですし、そのようにしてリスクなどを引き受けることになるという事実が、話し手と話の中身の関わりにはある、ということです。

 

 

 

 

 

 近代においては、客観性を重んじますから、観察するものと観察される対象は、関係を断つのが理想です。それが、いつのまにか、話をする という極めて日常的な行動とも結びついて、「話し手と話の中身の関係を断つのが理想的」ということになっている場合が非常に増えていますよね。

 しかし、自分の道をたしかにする、というアイデンティティの課題、あるいは、どのように生きていったらいいのか、そして、死んでいったらいいのか、というスピリチュアルな課題には、あるいは、子どもと真実に関わるためには、話し手と話の中身の関わりが、最も大事になるのです。

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