エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

新しい人、新しい社会、登場。

2015-09-12 10:52:35 | アイデンティティの根源

 

 

 

 ハッキリと「NO」と言える人間、パレーシアステスが、新時代を切り開きます。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.226始めから。

 

 

 

 

 

1525    農奴に反対する(訳注:農奴制反対ではない)文書。結婚。

1526    息子のハンス誕生。

1527    病気とうつ病。「強力な神の要塞」(讃美歌「神はわがやぐら」作詞)

1549    永眠、63才。

 免罪符のことは、時限爆弾の引き金を引きました。その時限爆弾は、ルターの心の中で、チクタク鳴ってたんですね。カトリック教会は、何百年も掛けて、魂を金に換えるシステムを作り上げてしまいました。天に宝を積むというイメージをお金に変えて、皆さんが使う金庫にしたんですね。

 

 

 

 

 

 かくして、中世ヨーロッパでも、「地獄の沙汰も金次第」に成り下がったわけですね。ルターはそれを見て見ぬフリはできなかった。キリストが教えていることと、眼の前に展開している「地獄の沙汰も金次第」のあり様には、天地の差があったからです。キリストの教えが、ヴィジョンであり、宗教的・政治的価値でしたから、ここにグーテンベルグの印刷技術が示す、大衆が活躍する社会を描くヴィジョンも統合して、新しい人間、新しい社会が登場することになりました。ねっ。

 

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自分を確かにさせてくれるもの

2015-09-12 09:39:30 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 全人格性と言ったら、難しそうですね、これは単に、頭の話じゃないということです。今の日本で、知ることと言ったら、単なる情報であることがあまりにも多すぎ。そんなものでは全くないんですね。敢えて言えば、いのち言葉、知ることが、生きることに繋がるようなことですね。そんなことは、日常生活に皆無でしょ。礼拝とは、超越を前にすること、ヴィジョンを共有した者同士が、生き方を示すヴィジョンに繋がる言葉をやり取りすることなんですね。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p74の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 まとめますとね、自分を確かにさせる道は、まとまりが進化していく形になります。まとまりとは、生まれ持った資質、特別なリビドーのニーズ、恵まれた立場、自分に馴染んているという大事な感じ、効き目のある防衛機制、上手く出来た理想像、一貫性のある、いろんな役割を、次第にひとまとめにしたものです。しかし、こういったことがすべて生まれてくるのは、ひとりびとりのポテンシャル、科学技術的に見た見通し、宗教的ないしは政治的価値が、お互いに歩み寄って、初めてできることなんですね。

 

 

 

 

 

 ここからとっても大事なことが分かります。自分を確かにさせてくれるものって何か、ということですね。

 自分を確かにさせてくれるものって、自分が生まれ持ったポテンシャルと、科学技術がこれからの社会をどうしていくのかというヴィジョンと、宗教的・政治的価値(人間皆兄弟、世界平和、人間は平等だ、自由だ、などなど)をそれぞれ生かしつつね一つにしていくことです。

 

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約束の2種

2015-09-12 02:12:35 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
生きている意味 ― 女子高生買春と20代の自殺 ―
心の時空を秩序づける力 : 市民宗教~体制順応主義2013-09-11 03:00:02 | エリクソンの発達臨床心理 ...
 

 

 来週末、神戸の日本心理臨床学会に行きます。その読み上げ原稿やら、パワーポイントの資料が佳境を迎えています。今回の発表は、≪約束≫に関するものですので、今晩は、またまた、≪約束≫を取り上げます。「あんたも好きねぇ」と言われそうですが、実際約束が好きなんですね。

 約束には、2種類があるそうですね。ちょっと難しそうな響きがあるんですが、1つは片務的約束(片務契約)、もう1つが双務的約束(双務契約)です。片務的約束とは、簡単に言えば、一方が他方に、見返りを求めずに何かをプレゼントする約束です。たとえば、トウモロコシを畑で作っている人に、「たくさん取れたから、おすそ分け」などと言われて、トウモロコシをただでいただく場合が、片務的約束です。他方、双務的約束は、簡単に言えば、お互いにプレゼントを交換する約束です。たとえば、何かを買ったら、その代金を支払うのは、双務的約束です。あるいは、仕事をしてもらったら、その仕事の対価、賃金を支払うのも、双務的約束です。

 子どもの発達でも、約束が大事でしょ。特に、赤ちゃんの時のお母さんの献身。これは、夜昼関係ありませんでしょ。真夜中でも、ぐずれば、オッパイを上げたり、オシメを取り換えたり、あやしてみたりしますでしょ。これは、典型的な片務的約束です。でも、今の日本、愛着障害だらけです。どこの学校に行っても、愛着障害の子どもがゴマンといて、教員の手を手こずらせています。なかには、愛着障害を相手にすることが大変で、心身に不調を訴える教員さえ、あっちの学校でも、こっちの学校でも生じてくるような在り様ですよ。ですから、そのいう子どもは、赤ちゃんのころに、母親の献身、片務的約束が全然足りなかった。学校生活は、ルールや時間割、年間予定、いろんな教科、お片付けなど、いろんな双務的約束の塊でしょ。でもね、愛着障害の子は、この双務的約束が1つもやりません。できないんですね。大人が見ている場合はやるケースもないではない。でもね、見てなきゃ、たちまち、やんない。おかしいでしょ。妙でしょ。

 でもね、これが本当なんですね。どうして本当か? 人間が双務的約束が出来るようになるためには、徹底的に片務的約束をしてもらわなければ、ならないからです。母親の献身でなければ、どなたかの献身が、母親の献身の代わりをしなくちゃぁなりません。献身と言う片務的約束をしてもらって、子どもは(大人もですが)はじめて、自分でも約束(双務的約束)をすることができるんですね。

 子どもを眼の前にして、「約束を守りなさい」「ルールを守りなさい」「今は算数の時間なんだから…」などと言っているあなた。その眼のまえの子どもが、1度でも、徹底的に片務的約束、献身をしてもらっているかどうか、どうか、確かめてあげてくださいね。

 どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

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