ルターが新しい時代の始まりをもらたしたのは、「腑に落ちない」こと、すなわち、聖書が “言ってること” と、カトリック教会がじっさいに ”やってること” が違うじゃないか! ということを、捨て置かず、その一致を実現しようとする「少しの勇気」があったから。
Young Man Luther 『青年ルター』p.228の第3パラグラフから。
民衆の反応が広がったことは、ルターにとっても、カトリック教会にとっても、反乱したい人たちが沢山いて、いわれなき課税問題一つで多くの人に火が付くぞ、と警告することになりました。この後数か月、ルターは、自分が主張したことを取り消したと思われた時も何度かありましたし、ローマ教皇は、免罪符売りが、あるとしたり、あると言ったり、ないとは言わなかったりした、神のとりなしをもたらするローマ教皇の力は、誇大広告でしたと、公に「認める」と歩み寄りを示したことも何度かありました。しかしながら、ルターもローマ教皇も、まるでケダモノのように振る舞いした。つまり、自分の怒鳴り声が跳ね返ってくるのを聴いては尻込みし、相手が尻込みすれば勇気100倍、引っ込みがつかないほど、すぐにでも関わって、一度血が流れれは、後戻りをする余地は少しもありません。
妥協の余地のある時に、明確にその意思を示すには、「負けたつもり」になる覚悟と、その責任を負う覚悟がなければなりません。その2つの覚悟がなければ、戦いが始まりそうになった時点で、すでに惨めな終局を迎える道が決まってしまいます。
アベシンちゃんと悪魔の仲間たちのやってることは、オゾマシイまでの黙示録的破壊の結末なのに、「そんなことはございません」と、世にもオゾマシイ、ウソ800を並べたのが、今回の戦争法案でした。
私どもは、目を覚ませて、これを廃止する政治を作り出して生きましょう!