エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

真の改革の条件

2015-09-03 07:37:06 | アイデンティティの根源

 

 

 ふがいない自分も大事にできる人でありたいものですね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.223の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ルターの初期の講義がいかに大事かは、ルターの自我が回復した記録であるから、というばかりではなくて、新神学の記録でもあるから、なんですね。ルターの新神学は、ルターが一夜にして有名になる、ずっと前から、免罪符論争のパンフを作った人の手になる神学だと、思われてたんですね。カトリック神学者にとっては、ルター神学の改革は、ルターが否定した秩序の、みじめで、俗悪な木っ端でしかない、と思われてましたし、かたやプロテスタント神学者にとっては、ルター神学は、力強く、根源的に新しい、と思われてました。

 

 

 

 

 

 真の改革は、全員が歓迎するようなものではないんですね。否定する人が結構いても、それにめげない強さがなくては、真の改革になりません。ヒュポメノーと言われる、損する立場、弱い立場、困った状況、うまくいかない状況にも、踏み止まる姿勢が必要不可欠だ、ということも、真の改革の条件みたいですね。

 

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個人とご近所は 「お互い様」 or 「ダメダァ」

2015-09-03 05:55:14 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 大人は、「言ってること」と「やってること」を一致させてこそ、本物の「大人」なのです。したがって、「言ってること」と「やってること」が一致できない場合は、身なりがいくら大人でも、幼稚な人物となる、という訳ですね。

  The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p72の新しい章の第1パラグラフ、下から7行目途中から。

 

 

 

 

 

ご近所の人たちも、このように、価値ある存在であると認められたいと願う個人から、お互い様、価値ある存在と認められていると感じるんですね。しかしながら、同時に、価値ある存在であると認めてほしいとは考えない個人から、根深く、執念深く、拒絶されているとも、社会は感じる訳です。後者のような場合は、たとえば、ヤクザのような仲間を、不運なことに求めてしまいたい気持ちを、社会の方が察することができず、うまく仲間に入れることもできない、多くの人たちを、社会は、考えなしなことに、「死」へと追いやってしまうものです。

 

 

 

 

 

 社会的な寛容さ、「価値ある存在であると認め合う」ことが、いかに大事か分かりますでしょ。

 寝屋川中一生殺人事件の容疑者は、この後者の人だと考えて、間違いないですね。40年以上の間、「価値ある存在であると認められる」体験が、ほとんどなしに過ごしてきたんでしょうね。ですから、「死」へと、この容疑者は、追いやられている訳ですね。

 これに関しては、稿を改めるつもりです。それにしても、お互い様に、≪価値ある存在であると認め合う」こと、それが、ノルウェーの修復的司法の要となり、クリスティー教授(上掲の写真)の教えの眼目でしたことを、思い出していただきたいと思います。

 

下は、刑務所長と囚人が昼食を共にしているところ

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幼稚園を卒業しよう!

2015-09-03 02:54:33 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 

 
対立を遊ぶ遊び
遊び 結びつける力 アインシュタインの場合2013-09-02 04:36:56 | エリクソンの発達臨床心理 ...
 

 丸山眞男教授のことは、先日、当ブログでも、シリーズで学んだところです。「自覚なき独裁 無責任な私たち」から「「つぎつぎになりゆくいきほひ」と 私どもの無責任」まで、この7月中旬から下旬にかけて、6回シリーズでお届けしましたね。覚えておいででしょうか?

 それは、主として、岩波書店が出した、初版の『丸山眞男集』を基にして、主に、日本の政治、組織の無責任体制を考えました。この『丸山眞男集』は、国立の増田書店に注文して買ったのを思い出しますね。増田書店のおやじさんから買いました。増田のおやじさんの、確か次男坊が、国立のリトルリーグ「サンダース」に入っていて、彼が三小、私が一小だったけど、同学年で、仲が良かったので、何度か遊んだことがありましたっけ。

 『丸山眞男集』は全集ですが、それに収めきれなかった著作があるようですね。『丸山眞男集別集』(岩波書店)、『丸山眞男講義録』(東大出版会)、『丸山眞男話文集』(みすず書房)等があります。

 今晩は、『丸山眞男講義録 政治学1960』から、個人と組織の関わりについて考えます。

 個人は英語では、individual 組織はorganizationですね。それについて、丸山眞男教授が触れている箇所がありますので、それを引用しておきましょう。

「日本では、組織とはorganizeされた受動的なものと捉えられ、それを自分で組織していくもの、アクティヴなものとしてとらえられていない。これは我々の政治経験の未熟さから来ている」(前掲書,p.23)

全くお見事でしょ。日本人のよくある行動パターンを的確にとらえていますよね。本物の学問は、清々しいですね。

 ですから、法律や条例などのルールも、その「法の精神」や「立法趣旨」とは無関係に、文字通りに適用しようとするお役所仕事や、制度を「制度をつくる精神」を考えずに、運用するというお役所仕事が蔓延る訳ですね。組織や団体も、既製品としてとらえて、「民主化」「民主主義的発展」を考えない訳ですね。でも、それだと、丸山眞男教授によれば、「政治経験の未熟さ」がもたらす幼稚な行動だ、ということですね。

 でも、その手の幼稚な人に限って、「俺様(私)がこんなに我慢しているのに、あんなに(「アクティヴに」=「わがまま勝手に」)行動するなんて、許せない」と不満をこぼす場合が、非常に多い。その不満を、アクティヴに活動している人のせいにして、否定的情動が染みついた体験を他者に「投影」している訳ですね。組織を既製品として受動的に受け止めているから、その既製品に自分の身体を無理に合わせて、我慢しているから、不満と怒りが募るし、その否定的感情がベッタリの体験を、他人に「投影」しやすくなるわけですね。

 私どもも、そのような「投影」をみすみす起こすような、幼稚園な政治行動を一日も早く卒業したいものですね。

 

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