エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

楽しいファンファーレ

2015-09-26 08:08:22 | エリクソンの発達臨床心理

 ルターは、自分の役割を意識して、務めを果たすようになりました。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.229の第2パラグラフ、下から6行目途中から。

 

 

 

 

 

ルターは、小冊子三部作を、(話し言葉の)ドイツ語で出版しました。そのタイトルは、ファンファーレみたいでしょ。『ドイツ民族のキリスト者の貴族に(向けて書きました)』、『カトリック教会はバビロンに捕われていることに関して』、『キリスト者の自由について』です。

 

 

 

 

 このファンファーレは、楽しそうですね。カトリック教会は、バビロンに囚われの身だから、そこからキリスト者は自由になりましょう、貴族の皆さん、協力してね、とタイトルをつなげると、そんな感じになりますもんね。歴史も、概ねその線で進んだことは、後世に暮らす私どもは、よく理解できるところですね。

 

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「こうしたい」という意志が誕生する時

2015-09-26 04:58:40 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 人とのやり取りの中で、自分の気持ちを自由に出せないでいると、ビョーキになるのは、当たり前ですね。でも、この当たり前が「ガマン」という言葉を唱えている内に、忘れやすくなるのも、また、よくあることでしょう。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』p77の第5パラグラフから。

 

 

 

 

 

 遊びの時期の前にある舞台は、「肛門」の舞台ですが、ここでは、強迫神経症のいろんな障害に、赤ちゃんの頃の「こだわり・わだかまり」が見つかる葛藤の時期ですね。人間関係を心理的に見る視点から申し上げれば、遊びの時期の前の舞台の葛藤は、autonomy オートノミー、「やり取りの中で、自分の感じを1つの法則として、頼りにして良い感じ」対 shame & doubt シェイム アンド ダウト 「やり取りの中で、自分の感じを出すのは恥ずかしいし、自分の感じが法則として当てにならないのは、自分がいけないのか、人がいけないのか分からない感じ」の危機だと、私どもは見なしています。この葛藤を解決すると、意志の赤ちゃんが生まれます。

 

 

 

 

 

 こういう意味の意志は、とても大事ですね。教育とは、この意志をヴィジョンに結びつけることですからね。

 ですから、関わる大人もこの意志をハッキリ示すことが大事になりますよね。なぜなら、「意志は大事です」「自己決定は大事です」と言いながら、その大人の意志が薄弱で、いつも誰かさんの顔色を窺っているようでは、子どもは「意志を示すことはダメなことで、自分が意思を示せないのは、自分がいけないのか、大人のせいなのか、分からない感じ」を深めてしまいますからね。

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感性の鋭さ

2015-09-26 02:15:34 | エリクソンの発達臨床心理

 

 
バーンズ・アンド・ノーブル書店アラモアナ支店にて
 バーンズ・アンド・ノーブル書店。全米に支店がある、紀伊国屋書店のような本屋さん。ミネアポリスでも、ロサンゼルスでも、シカゴでも、お世話になりました。このアラモアナ支店も、毎回...
 

 

 昨日のブログ(「信者にならない方が良い」という司祭)に、「本田哲郎さんが教えて下さるように、ヘビのように感性鋭く、ハトのように単刀直入にハッキリ言葉にしながら、生きたいものですね。」と記しました。これは、ご存知の方も多いと思いますが、新約聖書の「マタイによる福音書」第10章16節「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」のところを、本田哲郎さんの翻訳を頼りに、私が適宜訳し直したところです。

 今日と明日、この聖句を手掛かりに、いつも心理臨床の中で考えていることを、皆さんにお伝えできればありがたいと思いました。今日はその前半戦です。

 この聖句の前半は、新共同訳では、「ヘビのように賢く」とあると引用しましたね。本田哲郎さんは、「賢く」と訳されているものとギリシア語 φρονιμοι フロニモイは「賢い」という意味がないと言います。ヘビは全身が触覚みたいなものだから、「感性鋭い」という意味だというんですね。本田哲郎さんがこのように言う背景は、もちろんギリシア語の意味からなんですが、釜ヶ崎の人との関わりもあるみたい。本田哲郎さんは、貧しくされている人の「感性鋭い」感じを何度も体験していることも、関係している、と言います。

 私もここを読みまして、「なるほどなぁ」と感じます。子どもは大人のウソをすぐに見破る、といつでも感じているからです。対照的に、今まで通りが大事な、鈍感な大人ほど、すぐにばれるとも知らないで、割と平気に、ウソとゴマカシをやるんですね。特に障害のある子どもは、特に「鋭いなぁ」と感じることが何度もありますから、この「ヘビのように感性が鋭い」ということは、非常にリアリティがあることを感じます。

 また、「解放の神学」の1つの報告として、むかし、エルンスト・カルデナルの「正義と愛の御国を (ソレンチナーメの農民による福音書)」を読んだ時の不思議な感じも思い出します。貧しい古老が話すことが、司祭のカルデナルに勝るとも劣らない智恵に満ちていたからです。その古老はもちろん、神学を学んだことは未だかつてなかったことでしょう。しかし、貧しい暮らしの中で実感したことと聖書に御言葉が結び付く時、計り知れない知恵が生まれることを、カルデナルがイキイキと報告していて、新鮮な驚きを感じましたね。この古老にも、「ヘビのような感性の鋭さ」を感じます。

 私どもも、自分の生活の中から、言葉を紡ぎ出し、また、人の生活の中から紡ぎ出された言葉と言葉にならない言葉に、静かに耳を傾けて、新しいヴィジョンを作り出して生きたいものです。

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