エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

人が当てになるかどうかは、これで決まり 改訂版

2015-09-02 08:03:08 | エリクソンの発達臨床心理

 

 奴隷根性の会社人間にはなりたくないもんですね。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p72の新しい章から。

 

 

 

 

 

 思春期と学童期

 

 さらに遡りましょう。若者がcomitment コミットメント 「『言ってること』と『やってること』が一致する」かは、その若者が自分を確かにさせようとして、どれだけ苦闘してきたか、で左右されます。人生は積み重ねだとする、ライフサイクルの視点で申し上げれば、仕事においても、自分と人を大事にする上でも、将来有望な人生のパートナーたちと出会い、その人たちが当てになると分かるまで、男も女もどうなるか、誰にも分かりません。しかし、自分を確かにさせる根源的なパターンの基盤になるのは、(1)子どもの頃に自分を確かにさせるものから、肯定するものと否定するものを選ぶことであり、(2)その時代の人間関係の関わり方です。その時代の人間関係の関わり方は、一番うまくすれば、若者が、ありのままで、あるべき人物であると同時に、ありのままで、信頼に足る人物であると認められる関わり方にもなるんですね。

 

 

 

 

 

 確かに、若者に限らず、成人期以降の人物で、その人の「言ってること」と「やってること」が一致するかどうかは、自分をどれだけ確かにさせてきたか、に左右されるわけですね。時代や組織に迎合し、付和雷同してきた人ですとね、「言ってること」と「やってること」はバラバラになりやすい。お役所仕事の典型です。逆に、その人ならではの生き方を選択し、自分を確かにさせてきた人ですとね、「言ってること」と「やってること」が一致させることに自ずからなりますよね。

 それは、野村實先生のような人物を想像すれば、容易に理解できます。しかし、野村實先生を実際に知っている人は、残念ながら、少ないかもしれませんね。有名人で言えば、大竹しのぶさん。女優ですから、他者を演じることが仕事です。するとウソを演じると誤解されますね。しかし、大竹しのぶさんは、あるインタヴューで、日常生活でも「なるべくウソはつきたくない」と言っています。つまり、「言ってること」と「やってること」が一致するように意識して、生きているという訳です。そういう生き方をしていることが、迫真の演技をするためには、不可欠のようですよ。

 

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ユーモアセンスがきらりと光る

2015-09-02 07:44:44 | アイデンティティの根源

 

 ふがいないマルティンが、宗教改革者ルターに、劇的に発達しました。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.223の10行目途中から。

 

 

 

 

 

興味深い似たような例は、フリス宛のフロイトの手紙が、ナチ時代のドイツの古本屋で、後年見つかったことですね。その手紙には、フロイトの思想の根っこに、学問的にも、個人的にも関わる中身が、含まれてたんですね。フロイトは、その手紙を破棄しようと願っていましたし、そうするつもりでした。ただし、フロイトはその手紙を保存することに、しぶしぶ同意したんですね。

 

 

 

 

 ふがいない自分を証明するものを残すのは、嫌なもんですね。それが人情というものかもしれません。でも、渡辺和子さんがそうしているように、ふがいない自分を大事にすることは、計り知れない賢慮があります。

 私どもも、ふがいない自分を笑い飛ばすくらいの、ユーモアセンスが欲しいですね。

 

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オーデンセの感動

2015-09-02 07:23:45 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
野村實先生から叱られた思い出  率直さと信頼
じぃっーと見る+広ーく見る=平安と落ち着き2013-09-01 02:00:07 | エリクソンの発達臨床心理 アインシュタイン...
 


 今晩は「主権」を考えます。でも、なるべく日常生活と結び付けて、ご一緒に考えたいと思います。

 主権在民は、基本的人権の尊重と平和主義と共に、日本国憲法の3つの特色です。小学生でも、習うところでしょう(6年生で習うそうです)。

 じゃぁ、「主権」って何のこと?

 それについては、日本国憲法の前文に詳しいそうですね。

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」(日本国憲法前文1項)

 これを読むと、日本国憲法を制定したのは、私ども日本国民だということが分かります。そして、大事な主権は、

1)日本国民の代表者を選ぶこと

2)われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果を確保すること

3)わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保すること

4)政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすること

5)国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来することから、国政を代表者がそのように運営しているかをチェックし、それが叶わない場合(アベシンちゃんと悪魔の仲間たちのような、信託に応えない身勝手がある場合)は、抗議を、デモ、街頭演説、ビラ、手紙、メール、電話その他の手段で、表意、伝達すること

6)福利は国民がこれを享受すること

であることが、おおよそ分かります。

特に、「6)福利は国民がこれを享受すること」が不十分である場合も、5)の信託に国政が応えていないことになりますから、同様な抗議の声を挙げるとともに、福利が実現するためのあらゆる手段を講じることが大事になりますね。

 たとえば、今日の子どもから高齢者までの貧困の根源的な原因は、国政の労働政策の貧困、中でも、非正規雇用という労働形態が、低賃金をもらたし、基本的人権を侵害し、福利を国民が享受する、根源的な障害になっていることです。いまや、その労働形態が、全労働者の4割になる状態です。国政が、国民の厳粛な信託をどれだけ裏切っているかが、この事実1つからでも、ハッキリ分かると、私は考えます。

 もう1つ、「主権」は、もともとフランス語で souveraineté スヴィオレンティ、「最高権」、「最高の地位」という意味があるそうです。デンマークのオーデンセ市を訪れて、当地の福祉制度や行政制度についてお話を伺ったことがあります。担当の20台と思しき青年、オーデンセ市の職員は、当時私も20代でしたが、オーデンセ市民を「一番上」に、行政担当別に4〜5人いる市長を一番下にした概念図を示してくれました。この時の感動を忘れることはできませんね。「主権」とは「一番上」なのですから、概念図もオーデンセ市民が「一番上」になっています。「言ってること」と「やってること」が一致してますでしょ。

 それに引き換え、日本では、市民を「一番下」に位置付ける概念図があるばかりではなくて、その市民を相手にしている「現場」を「一番下」のように言うことが、残念ながら普通になってますでしょ。それが「お役所仕事」の、最も根源的な、考え違いの源になってますよね。そんな考えだから、形ばかりの、アリバイ作り(「〇〇という福利をやってない訳ではない」というような)の「お役所仕事」が出来るんだと私は考えます。そういう発言や行動を見るたびに、私はオーデンセ市で体験した、あの感動を思い出す訳ですね。そして、その当人も一市民(シチズン 別に時計メーカーのことではありませんよ。主権者たる市民 の意味です)であることを忘れて、「一番上」の「市民」を「一番下」のように言い、また、行動する、その人の「大間違い」を考える訳です。

 私どもは、主権をこのように考えて、主権者として、日々を、「最高の」日々を過ごしたいものですね。

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