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≪信頼≫を打つ壊しにするもの
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大人の成熟って、いいですね。でも「物事を見抜く洞察力」が最初に来るのが更にいい。まるで、丸山眞男教授のような「物事を見抜く洞察力」を、身に着けたいもの...
『青年ルター』の翻訳で、「キリストの十字架を、ひとりびとりの心の葛藤の中に再発見するものでした」との件が出てきましたね。エリクソンもそのことについて、ここでは深く立ち入ることもしていません。よく考えると、ここは、分かったようで分からない箇所じゃぁないかしらね。キリストの十字架と、私どもが抱えている葛藤が、何故=で結びつくんでしょうか?
実は、私自身この回答を持っている訳じゃぁ、必ずしもありません。ただ私なりに考えが、というよりも、感触がありますから、その感触を今晩皆様にご披露して、皆さんと一緒に考えていけたらと考えました。まず初めに申し上げるのですが、今晩も「信頼」の話です。
ふつう、世の中の「常識」で言ったら、力があると言えば、物理的な暴力、お金の力、政治的な権力、大きな組織の力と言ったものが「強い」とされませんか? ですから、世の中の競争と言ったら、物理的な力が「どっちが上か」を争う、ケンカから戦争まで競争、一円でも高い年収が保障される仕事に就くための競争、組織の中で昇進するための競争や、政治闘争などですね。いずれにしても、少しでも、人よりも、強力な暴力、たくさんなお金の力、高い地位の力を手に入れるための、「どっちが上か」勝ちを争う諍い、競争ですね。
でも、「キリストの十字架」って言ったら、どうでしょう? 「十字架」って、カトリック教会のお御堂の正面や、プロテスタント教会の屋根の上にあるのは見たことがあるでしょうけれども、実際に死刑の道具の十字架を見た人って、ほとんどいないでしょ? かく言う私も、刑具としての十字架を見たことはありません。十字架刑は、釘で手首や足首を十字架に打ち付けるものですから、出血死だと思ってませんか? あるいは、なぜ死ぬのかも考えたことない人が一番多いのじゃないかしらね。実際は、縦に吊るされているので、呼吸するたびに身体を持ちあげなければならない、けれども、それが次第に難しくなって、終いには、窒息するそうですよ。でも絞首刑のように、一気に首を絞めるのではなく、じりじりと呼吸ができなくなるわけですから、それだけ残忍な刑罰だと言えそうですね。このように考えると、「キリストの十字架」とは、最も弱いことだと考えられます。
私どもが心に抱え込んでいる葛藤も、十字架ほどではないにしても、「弱ったこと」であることに間違いありませんね。もしかしたら、その葛藤は、その人にとっては、最大の弱点と言えるかもしれませんよね。しかも、「弱ったことでは勝負にならない」でしょ。ですから、「弱ったこと」は「負け」でもある訳ですね。勝ちと強さが生きがいの人ですと、隠すでしょうね。「弱みにつけ込まれたくない」からですね。
でも、心理臨床をしてますとね、弱さに徹していることが、子どものとやり取りに繋がることが多いんですね。前にも書きましたが、子どもは、こちらが弱さを隠さず自由にしていると、それがすぐに分かります。そして、安心して近づいてきます。大人は「勝つこと」=「上に立つ」ことに囚われている場合が多いし、そういう大人に限って、子どもを非難したり、おこったりして、コントロールしますでしょ。子どもは、その手の大人にサンザンな思いをしているんですね。ですから、「弱さ」を示す大人には、そんな心配をせずに安心して関われるわけです。赤ちゃんでも、そういう大人には関心を示し、歩み寄ろうとしますからね。実際には歩けませんから、気持ちを向けて、関わろうとするんですけどね。そんな調子ですから、「弱さ」はやり取りや絆に結びつくわけです。「絆」って、東日本大震災後ににわかに注目されてますけれども、何もせずに出来るもんじゃないんですね。「絆」を結びつけるのは、「弱さに開かれた心」です。
このように、具体的に考えますとね、心の中の「弱ったなぁ」と思う葛藤を、隠し立てせずに受け止めていくときに、やり取りが生まれ、「絆」が生まれ、愛着も生まれるくる、と言えそうですね。「強さ」は、人が人と争い合い、諍いが生じることに結びついているのに対して、「弱さ」は、人が人と結びつき、やり取りと「絆」を生み出すことと結びついていますよね。「キリストの十字架」が、全ての人を全ての人と結びつけるように、「弱さ」が人と人を結びつけるので、「キリストの十字架」=「人の弱さ」というよりも、「キリストの十字架」>「人の弱さ」ということでしょうね。
人が自分の「弱さ」に開かれていき時に必要なのが、まさに「信頼」ですね。それは、この世で最も残忍で、最もみじめで弱い「キリストの十字架」に開かれるのに必要なのが、「信頼」であるのと、似ています。
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