エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

自由だからこそ、新しいもを作り出せる。

2015-09-27 04:09:08 | アイデンティティの根源

 

 ルターは、ドイツ語でタイムリーな小冊子を出版しました。ラテン語でミサをし、ラテン語で本を出すのが「常識」でしたが、ルターは、その「常識」には囚われませんでした。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.229の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ルターが歴史舞台に躍り出る前の三部作、詩編、ロマ書、ガラテヤ書の講義が、新たに縦の関係を切り開きました。すなわち、祈りの人の新神学です。それは、キリストの十字架をひとりびとりの心の葛藤の中に再発見するものでした。1520年の三部作は、祈りの人も生きていけるような、新しいこの世の市民革命を素描するものでした。私どもが触れるのは、ルターがキリスト者の平等を説いたことくらいです。すなわち、全てのキリスト者は司祭か牧師であり、洗礼が受けられるし、聖書の言葉に信頼することによって救われる、とルターは主張しました。それから、選びに与った、真にすべてを代表するのに必要なことは、信頼だけだ、と主張しました。

 

 

 

 

 

 ルターの主張は、中世ヨーロッパ、カトリック教会の習わしやメンツから、完全に自由であった、と言えそうですね。司祭と平信徒の区別もなく、救いの条件は信頼だけ、集会の代表も、神学に詳しいとか、学校に行ったとかには、無関係に、信頼が豊かなことだけだとルターは言った訳ですね。ルターは、自由を手にしていたから、改革ができました。

 今も同じです。

 

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「本当のこと」を言う勇気

2015-09-27 03:51:56 | エリクソンの発達臨床心理

 

 
子どもの頃のセンス・オブ・ワンダーほど大事なものはございません 
  愛着障害について、「威圧的な指導は禁忌」とされていることが、アメリカ精神医学会で、愛着障害の子どもを臨床している人たちの間で共有されていると言います。...
 

 

 一昨日のブログ(「信者にならない方が良い」という司祭)に、「本田哲郎さんが教えて下さるように、ヘビのように感性鋭く、ハトのように単刀直入にハッキリ言葉にしながら、生きたいものですね。」と記しました。ご存知かと思いますが、新約聖書の「マタイによる福音書」第10章16節「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」のところを、私なりに 翻訳し直したものです。

 この聖句を手掛かりに、いつも心理臨床の中で考えていることを、皆さんにお伝えできればありがたいと思いました。今日はその後半戦です。

 この聖句の後ろ半分は、「鳩のように素直になりなさい」と「素直」と出てきますが、本田哲郎さんの教えによれば、この「素直」と訳されているギリシア語 ακεραιοι アケライオイは、否定の接頭辞 α と「混じる」を意味する κεραιοι を合わせた言葉なので、「混じり気がない」ということで、本田哲郎さんによれば、「相手に合わせてしまう素直ということではなく、正しいと思ったことをそのまま口に出す、飾り気のない率直ということでしょう。」と言います。これはまさに、「パレーシア」παρρησιαでしょ。

 子どもは「大人の常識」に囚われませんから、ハッキリした物言いになる場合がよくありますでしょ。ある低学年の女の子は、同級生のいたずらな男の子が、だいぶ落ち着いてきた時に、私が「◎◎君と、(その女の子の)お父さんは、どっちがよくなったかなぁ」と訊けば、「◎◎君の方」とハッキリ。そのお父さんは、だいぶ子どもっぽい人で、自分の失敗を子どものせいにするような人だったのですが、パパの成長もまだまだだったみたいですね。

 また、有名なところでは、「裸の王様」の最後に出てくる子どもでしょ。王様の姿を見て「裸だぁ」と包み隠さずに言い放ったのは、子ども特有の「飾り気のない率直さ」の賜物ですね。

 「ヘビのように感性鋭く、ハトのように単刀直入にハッキリ言葉にしながら、生きなさい」。これは、イエスがこの世に遣わせた弟子たちに贈った言葉ですよね。今様に言い換えると、「感性鋭くとらえた事実を、率直に言葉にして、生きなさい」ということですね。この言葉は、真実に生きたいと願うすべての人に当てはまります。特に仕事柄、真実が大事な仕事をする人には、いっそう大事になりますよね。ジャーナリストも然り、伝道者然り、私どもクリニカルサイコロジスト、心理臨床家然り、学者然り、保育者然り、教員然り、児童施設職員然り…。特に私どもの仕事に引き付けて申し上げると、子どもが言葉にできずにいる真実を、心理臨床家である私どもが、ハッキリと言葉にすることです。これは、その真実が極めて苛酷なことであっても、言葉にできずにいた真実をハッキリ言葉にすることは、その真実を受け止め、やがて乗り越えていくためには、必要不可欠のことだからです。その点を強調しておきたいと思います。いわば、「生死を分けること」なんですね。大げさに感じる人も少なくないと思いますが、私自身の体験に照らしてみても、とても大事でしたし、心理臨床の場面で出くわした人に照らしても、そのくらい大事なことなんですよ。

 さきごろ神戸でありました心理臨床学会で、少し話ができました、西村洲衞男さんも「本当のことを言うと治る」と単純に話してくれました。でも、「本当のこと」が重たいと感じる場合、言いそびれるのが人間の常ではありませんか? それを言う勇気は、日々の内省と信頼を育むプロセスの中にある訳ですね。

 

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「自分で決める」とガマンの間

2015-09-27 02:31:21 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 「自分の感じ」。初めて聞くようで、それでいて、日常的に使っている感じもする言葉でしょ。これは日頃あまり意識してない方が普通ですから、ご安心を。「自分の感じ」とは、意識から無意識に合い亘り、しかも、無意識の部分の方がはるかに大きいからです。ですから、あまり言葉にできないもので、そのくせ、よくよく考えたら大事な体感なんですね。「腑に落ちる」というときの「腑」=内臓に関わる体感です。その体感に正直で、その体感を自分を方向づけする時の法則とするのがオートノミーです。それができないと感じるのが、シェイム・アンド・ダウトです。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』p78の5行目途中から。

 

 

 

 

 

前の舞台と後ろの舞台の間にあるこの舞台の位置取りにまた注目する時、initiative イニシアティブ、「やり取りの中で、自分の感じに従って、行動を起こしても良い感じ」として描いたことが育つのは、肛門や筋肉を自分でコントロールしたり、「自分でコントロール出来るんだ」と感じたりする舞台へ、口で感じている舞台から、キッパリと飛び移って、初めてできることでしょう。私どもが今まで申し上げてきたのは、子どもが、わがままに囚われたり、大人の言いなりになったりする間を、あっちに行ったり、こっちに行ったり、いかにするのか、ということでしたね。つまり、その子どもは、ある時には、とても独立的に活動することもあれば、また別の時には、「言いつけを守らなきゃぁ」とばかりに、いっそう大人に依存的になることもあります。この2つの傾向にバランスをとる時、意志の赤ちゃんの力が、自由に「自分で決める」ことと「ガマンすること」とを、両方とも育てることに役立つことになります。

 

 

 

 

 

 エリクソンが教えてくれることって、本当に具体的でしょ。子どもに大人がいうことの中では、「自分のことは自分で決めなさい(自分でやりなさい)」と「ガマンしなさい」が、結構上位にくるのじゃぁないかしらね。「自分で決める」と「ガマン」の境が、いつもハッキリとしていれば、良いのですが、その境がぶれることが、親子喧嘩、子どもと大人のトラブルのもとになることがとっても多い。「おかあさん、昨日は良いと言ったのに、今日はダメって言うんだぁ!」。子どもに一度くらい? 言われたことがあるのじゃぁないかしら? それは「その境が、アベシンちゃんと悪魔の仲間たちと同じくらい、ブレてますよ!」ということ。

 意志の力がまだまだ赤ちゃんの時には、関わる大人がこの境をハッキリと示し、守って差し上げることが、子どもが自分のことを自分で決めて、自分でできるようになる時の、必要不可欠な条件になります。

 どうぞよろしくお願い申し上げます。

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