エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

横暴な権力の末路

2015-09-16 08:19:34 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 

 私どもの生命や財産や平和な暮らしを台無しにするのは、空き巣ではありません。アベシンちゃんと悪魔の仲間たちです。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.227の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ザクセン選帝侯は、民衆の代表者と話し合うこともなく、課税しなくなりました。ザクセン選帝侯は、ヴィッテンベルグの民衆が献金したお金を自分の物としたんですね。その民衆は、選帝侯がコレクションしていた聖遺物を拝んで、その後光に与ろうってなわけです。選帝侯は非難されたのは、ローマへ行く経費に、このおカネを使っちゃう場合です。選帝侯がせっせと集めたお金は、選帝侯のご自慢の、ヴィッテンベルグ大学の宛てられることになってました。ルターが、この怪しいお金が選帝侯自身の大学の施設に宛がわれることに関わったのか、それとも、反対したのか、を確かめる確かな証拠はありません。

 

 

 

 

 ザクセン選帝侯自身も、あまりにも身勝手ですね。権力は集中する時、いつだって、腐敗するに決まっています。

 アベシンちゃんと悪魔の仲間たちも、衆議院を圧倒的多数で牛耳って、司法もマスメディアも、その権力の横暴を、チェックできない状態でしょ。しかも、秘密保護法で、権力に都合の悪い情報は、公開できない形にしてますからね。悪行極まりなしです。

 でも、そのアベシンちゃんと悪魔の仲間たちの末路は、惨めなものであることは、歴史が証明するところです。

 私どもは、ただただ、人間らしい暮らしを実現する政治を目指すのみ。

 

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自分の感じを生かしてこそ

2015-09-16 07:26:54 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 単に「勤勉性」ですと、お役所仕事との区別が区別がつきませんでしょ。丸山眞男教授が「無責任の体系」と呼び、ハンナ・アーレントが「人類への犯罪」と呼ぶ、「お役所仕事」は、ある意味、型通り、という意味では「勤勉性」そのものでしょ。でもそれだと、幼児前期の、心と心が響き合わない傾向である legalism「お役所仕事」と、心と心が響く関係であるindustryが同じになっちゃいますでしょ。ですから、industryは「勤勉性」なんじゃなくて、「自分の感じをきちんとした形にして出しても良い感じ」であって、いつでもイキイキ、ピチピチ、悦んでいる状態ですよ。お役所仕事じゃ、自分の感じは死んでんですからね。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p75の第1パラグラフ、下から9行目途中から。

 

 

 

 

 

また、この舞台の子どもは、遊ぶことだけじゃなくて、学ぶことも好きになりますよね。しかも、何かを作り出すエートスに合致するような技術を一番熱心に学びたがります。仕事の役割のある種のヒエラルキーは、遊んだり働いたりする子どものイマジネーションに入り込むのですが、それは、実現できそうなのか、それとも、あくまで想像上のものかは別にして、理想の実例です。その理想の実例は、いろんなことを教えてくれる大人たちであったり、伝説や歴史や小説のヒーローであったりします。

 

 

 

 

 子どもが、いろんな戦闘者のヒーローや、アニメのキャラクター、少女漫画の主人公が好きなのは、ある種の仕事上の理想像なんですね。子どものイマジネーションって、常識や通念から自由でしょ。その中で、いろんな可能性をイメージしてもらいたいでしょ。そのためには、子どもにその自由を認め、許す大人が、少なくとも一人必要です。いろんなルールや、大人の常識を、子どものイマジネーションに持ち込むのは、考え物。そうでない自由な時空を、あなたも是非プレゼントしてあげてくださいね。

 

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子どもの貧困率が上昇し続ける、狂気の国

2015-09-16 02:16:43 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
やり取りこそ、≪神が支配するところ≫
  淨と不浄を区別すると不安障害や強迫神経症になってしまいます。意識的に、淨と不浄を区別することを止めにすることが大事になります。 p346の第2パラ...
 


 子どもの心理臨床をする毎日ですと、子どもがお腹を空かせている場合に結構出会います。心が満たされていない子どもは、ビックリするほど、もっと多いのですが、文字通りお腹を減らしたままで学校に来る子も、少なくないんですね。

 ある学校で、心理面接をしていた一年生の男の子。朝ごはんを食べてこない時もあれば、「今日はパンが一つだった」と言う日もありました。学校では給食以外には、食べ物は上げないのかもしれませんが、私は毎回面接の日には、その子が好きだと言う、ベーコンチーズパンか、ソーセージパンを買っていくようにしました。お腹を減らしていても、「給食はあまり食べません」と言われていましたが、好きなそのパンは、毎回、実に美味しそうに、嬉しそうに食べてくれました。それを知ってか知らずが、ある教員は「給食をあまり食べなくて困ります」と私に時々こぼしましたね。子どもは、その子に限らず、お腹が空いていても、食べない場合があんですね。それは、ある種の「抗議」ですね。「食べる時に一緒にいる大人と、心のやり取りができていませんよ」という抗議ですね。

 こういう事実を知る時に、コミュニケーションの語源が、「共に食事をすること」だ、ということの、真実の意味を知ったような気持ちになりますよね。コミュニケーションが出来てないから、食べない。その子は「コミュニケーション」の語源を知るはずもないのだけれども、その語源通りのことを実際にしてんですからね。

 「なくそう! 子どもの貧困」ネットワーク(http://end-childpoverty.jp/leaflet)によれば、先進国で、この30年、一貫して子どもの貧困率が上昇している国は、日本以外にはないそうですね。今や16.3%、6人に1人の子どもが貧困だと言われます。全国に320万人もいる勘定です。30人クラスですと、5人は貧困だ、ということになります。

 何故でしょうか?

 これは、雇用が低賃金で不安定な人が非常に多いからですよね。すなわち、非正規雇用が多いのと、その分、正規雇用の負担も増えて、労働者の所得も労働環境が悪化していることが、子どもの貧困の根源的原因です。それに対して、アベシンちゃんと悪魔の仲間たちを始め、自民党政権が、子どもにお金をかけてこなかったからです。すなわち、政治の貧困が、子どもの貧困を生み出している訳ですね。今回アベシンちゃんと悪魔の仲間たちは、子どもの貧困対策として、「国民運動」「国民が自主的に出すお金」で対処して、財政の裏付けのない、いい加減な政策を進めています。ぼろ儲けのネタになるオリンピックや、国立競技場、エンブレムには、ふんだんに財政をつぎ込むのに、子どもの貧困対策となれば、「みなさんがお金と時間を出してね」と国民に任せて、政権はホッタラカシです。

 子どもの貧困をホッタラカシにしている、という観点からも、アベシンちゃんと悪魔の仲間たちの、1秒でも早い退陣を、強く求めるものです。

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