エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

歴史上でも、ものを言う≪陽気で楽しい≫

2015-09-23 10:29:57 | アイデンティティの根源

 アベシンちゃんと悪魔の仲間たちも、人間として大事な人たち。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.228の、下から3目から。

 

 

 

 

 

  ルターは、ローマ教皇への恭順を一度は約束しました。しかし、それから、沈黙を守りますとした約束を破るために、法律を持ち出して、老練な(カトリック神学者)エックと、公開討論に臨みました。エックは、ローマ教皇に神がキリスト教会の支配権をお与えになったことを、ルターが率直に疑っている、異端である声明に関心を寄せていたんですね。ルターは、論争そのものではエックに劣っていると見えたけれども(だからこそ)、ルターは一般大衆に向かって、ある種の見世物に(論争を)仕立て上げ、それをまた楽しみました。

 

 

 

 

 

 ルターは、非常に政治的な人ですね。議論で負けそうになったら、政治劇に仕立て上げて、大衆の力を借りて、議論に勝とうってんですからね。

 私に言わせれば、ルターが、ユーモアセンスの人で、この論争そのものを楽しんだ時点で、お堅く真面目なエックに、勝ち目はなかった、と感じます。

 ≪陽気で楽しい≫って、歴史的に見ても、深い意味がありますね。

 

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いつでも大事な≪陽気で楽しい≫

2015-09-23 10:06:47 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 inertia イナーシャ 「よく考えることもなく、今までやってきたことだからと、今まで通りを繰り返す、お役所仕事な感じ」は、いつだって、人類に対する犯罪です。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』p77のブランクから。

 

 

 

 

 

 学校に行く前の時期

 

 

 子どもの頃って、エピジェネシス、性器が未熟な時期、礼拝との関係で、すでに議論してきましたよね。ここでは、2つの対立するテーゼと、いろいろとある反感について、まとめを付け加えるくらいにしておきましょうか。

 それで、遊びの頃(3才~6才くらい)に戻りましょう。遊びの頃には、initiative イニシアティブ 、「やり取りの中で、自分の感じに従って、行動をはじめても良い感じ」と、guilt ギルト、「やり取りの中で、自分の感じでことを始めてはダメだぁ、という感じ」が危機を迎えるんでしたね。繰り返し申し上げることができるのですが、playful プレイフル、≪陽気で楽しい≫ことが、今後あらゆる舞台になっても、なくてはならない、人生の要素になります。

 

 

 

 

 

 人生は、イキイキ、ピチピチしていることが最も大事なことなんですね。幸せに、自分も人も大事にするために、命を戴いているからです。そのために、必要不可欠なのが、playful プレイフル、≪陽気で楽しい≫ことなんですね。

 愛着障害は、このplayful プレイフル、≪陽気で楽しい≫ことが極端に欠けているので、関わる大人が意識して、playful プレイフル、≪陽気で楽しい≫ことがとても大事になります。

 でも、赤ちゃんから死の床まで、playful プレイフル、≪陽気で楽しい≫ことが、人生になくてはならないってことには、変わりありません!

 

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自由がなければ、人間ではない!

2015-09-23 04:12:34 | エリクソンの発達臨床心理




 今晩も、自由について考えてみます。
 先日、東洋大学学長の竹村牧男先生の「信と行」を考える6回シリーズが最終回でした。今度の土曜日13時に、再放送があります。
 この6回シリーズのお話しを伺いまして、日本の仏教の深さを垣間見る思いがいたしました。特に、浄土真宗と禅には、人間理解に対する計り知れない深みがあることを、教えて頂いたように思います。
 この番組で、最後に取り上げられたのが、鈴木大拙でした。竹村牧男先生によると、鈴木大拙は、何よりも、自由を重んじた、ということです。加藤周一さんと同じです。鈴木大拙は、西洋の自由は、「〇〇からの」自由であるのに対して、東洋的自由は、「〇〇への」自由であると主張しているようですね。確かに、自由を示すlibertyは、前置詞のfrom を取りますから、鈴木大拙の主張は間違いじゃない。じゃぁ、東洋的な「〇〇への」自由とは何か?
 番組では、1962年の「こころの時代」に出演した鈴木大拙の映像が、紹介されて、鈴木大拙が説く自由が語られました。自由とは「自らに由る」と読んで字の如しな訳ですね。ですから、摂心(接心)、只管打坐などをして、自己に向き合い、自己を掘り下げることが、何よりも大切になるのだと考えられますよね。
 そして、「自由がなければ、人間ではない!」、鈴木大拙は、先の映像の中で、ハッキリそう言います。そして、その自由を、日本人にだけではなく、流暢な英語で、西洋の人達にも、説いた訳ですね。
 私どもは、組織や上司や因習からの自由だけではなく、人間らしい暮らし、平和な(シャロームな)暮らしの実現、という価値への自由を、日々生きたいものですね。

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