虐待と言ったら、非常に残酷で、激しい行為をイメージしがちです。殴る、蹴る、顔を水に押し込む、レイプする、タバコの火をつける、押し入れに閉じ込める、水や食事を与えない…。こういうケースも、日本にはかなりの数が、残念ながらあります。
しかし、虐待の中で、一番多いのは、母親が子どもの前にいないことなんですね。長時間労働と家事をして、子どもの前に、子どものそばに、子どもが起きている時にほとんどいない。それが、日本では一番多い虐待だというのが、私の心理臨床上の印象です。それと同じくらいあるのが、言葉の暴力、子どもを否定する言葉です。「ダメよ」「早くしなさい」「勉強しなさい」などが、子どもを否定する代表的な言葉になります。いつも言ってる言葉でしょ。おとなは、無意識に子どもを否定していることが、非常に多いことが分かるでしょ。それから、忘れがちなのは夫婦の諍い、口喧嘩を子どもの前でやることですね。これも子どもを虐待することになります。仕事などのために、子どもの前にいないこと、「ダメですよ」などの言葉、親の諍いまで、子どもの虐待とは考えたこともないのではないですか? でも、これも立派な虐待です。
虐待をこのように考える時、日本のそこらじゅうで、虐待が行われていることが、自ずからわかりますでしょ。家庭の中だけじゃぁないですね。学校や児童施設などでも、虐待だらけと言えると私は考えます。
と言っても、私はもともと政治学ですから、その虐待をしている個人の責任もさることながら、社会構造を見る視点も大事にしてんですね。この虐待の背景になっているのは、日本の子育て支援政策、労働政策、学校教育政策、児童福祉政策が、あまりにも貧困だから、そこに身を置く人々が、虐待をしやすい社会構造がある点も、触れておきたいと思います。
さて、今日も前置きが長かったみたいですね。しかし、これも、粘着気質の私の文体です。
友田明美さんの報告(これは昨日の報告ではないが、参考になるかも。http://www.rease.e.u-tokyo.ac.jp/act/handout/140712/tomoda.pdf)。maltreatment マルトリートメント。リンスの話ではありませんからね。これは「不適切な養育」と訳される場合もありますけれども、いま触れましたように、母親が長時間労働・長時間通勤のために、子どもが起きている間、子どものそばにいないことも含むことを忘れてはなりません。「仕事なんだから、仕方がないじゃぁない…」。そうなんですけれども、それも、日本の貧しい労働政策の犠牲者なんですけれども、事実は事実なんですから、これをご指摘するのも、仕方がありません。なるべくウソがないような理論展開にしたいんですからね。ですから、前置きで、そこを明示したわけですね。最初の方でご指摘した虐待のいずれか(たいていは、複数、多数の虐待が共存するそうです)を、0才、1才、2才の赤ちゃんにしている場合、脳が壊れてしまいます。
その一つが、シナプスの刈込がされない、ということです(http://susumu-akashi.com/2013/02/child-abuse/#i-15参照ください)。つまり、私どもは、環境から、音や視覚情報などを、全部受け止めていたら、情報が膨大で、上手く情報処理ができませんから、効率的に情報処理するために、取捨選択した情報処理をしているそうです。耳で聴く音と、録音した音では、録音した音の方が「雑音」が多い、と感じるのは、耳が自動的に情報処理してして、音を取捨選択してくれているおかげです。それは、多すぎるシナプスを刈り込んで、少なくしているからそれができるそうです。赤ちゃんの頃に虐待があると、これができませんから、脳の視覚野や聴覚野が委縮するのに、そこに集まる情報は膨大になる、という異常を来たす訳ですね。発達障害のような感覚過敏、感覚鈍麻が生じることになります。ヴァン・デ・コーク教授の言う、「サバイバル脳」は、こうして出来上がってしまいます。すると、いつでも、「危険」を知らせる、サイレンが心の中でなっているようになります。
また、理性や感情を司る前頭葉が委縮し、共感や感情のコントロールを司る線条体(せんじょうたい)の反応が鈍る傾向が診られるようです。ですから、人とやり取りの中で行動したり、感情をコントロールしたりすることが非常に苦手なわけですね。
愛着障害は、人間の発達を支える愛着=根源的信頼感が極めて脆弱であると言うばかりではなく、それは、脳の異常、変異という形で、身体にもその影を刻んでいる訳です。その治療には、粘り強い関わりが必要ですし、それを支える様々な社会的仕掛け、つまり、真の政治が必要です。