エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

セラピストも驚く ルターの急成長

2015-09-24 10:28:41 | アイデンティティの根源

 

 

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』とシンクロしてきましたでしょ。こちらもユーモアですからね。理論では、エックはルターの勝ったのでしょうけれども、ユーモアの点では、ルターに分がありました。その結果は、皆さんもご存じの通りです。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.229の5行目途中から。

 

 

 

 

 

引き返せないところまで来るのに、そう時間は要しませんでした。ルターは公然と反逆の説教をして、枢機卿や教皇の「血で血を洗う」ためにしているかのようでした。私はこのような決まり文句など引用したくはありません。それは一本調子すぎて面白くありませんからね。しかし、これは、かつては、物静かで悩める修道士が、「ローマという名の、ソドムのような悪の巣窟」に対して、言い放った言葉なのでした。

 

 

 

 

 物静かな人でも、いったん火が付くと、ここまで人って変われるんですね。

 私は心理療法をしている関係で、ルターほどではないかもしれませんが、「人って、ここまで変わるんですね」と言われたケースを、何度かご一緒するという恵みに与ることができています。ですから、ルターのような人がいたら、エリクソンならずとも、どうして(Why?  How?)こんなにも変われたのかな? と感じると思います。

 

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自らを笑う、天与の恵み

2015-09-24 09:21:40 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 ≪陽気で楽しい≫ことは、人生を、人々との価値を認め合い、豊かに生きるものにする際に、なくてはならないものです。今日も≪陽気で楽しく≫やりましょう。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』p77の第3パラグラフ4行目から。

 

 

 

 

 

でもね、エディプスコンプレックスのいろんな関わりから、子ども自ら、親たちと関わり合うのを遠慮したい気持ちでいる、まさにそういう場合には、人を育んでくれる遊びのおかげで、その子は、たくさんの想像上の人物たちと想像上の活動をする、おもちゃの世界で、物語を自由に作ることができます。さらに、遊びの時期が「登場する」のは、まさに、学校に行く時期が少し登場して、ちょっと勉強したり、思春期も少しと登場して、どういう風に自分を確かにさせたらいいかを実験したり、する時期にもなります。エディプスの劇が、赤ちゃんの時に源を持ちつつ、この時期の舞台に宛がわれているのも、偶然ではありませんからね。エディプスの劇は、その神話では、特に舞台劇として完成しているけれども、あらゆる芸術の中で人間らしく≪陽気で楽しい≫ことが、いかに一生ものであるかを、何よりも見事に証明して見せてくれています。≪陽気で楽しい≫ことが、あらゆるユーモアのセンスが根っこにあって、自分自身を笑うという恵みを、他の人たちを笑い恵みとともに、下さっているのですから。

 

 

 

 

 ≪陽気で楽しい≫ことは、ユーモアと同じです。知りませんでしたでしょ。私も、宮田光雄先生と、カール・バルトから学ばなければ、知らずにいたかもしれません。臨床で、日常生活で、私もずいぶん実験して、ユーモアと≪陽気で楽しい≫はシノニム、同じ言葉であると、心底感じます。

 ユーモアも、≪陽気で楽しい≫ということも、自分自身に対する囚われから解放して下さる、天与の恵みです。

 

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おバカでヤクザなハカリゴトは、バレマスよ。

2015-09-24 07:36:53 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 

 心理臨床をしていますと、いろんな経験をします。信頼し合える喜びも一方でありますし、子どもが見事な自己表現をして、こちらも予想しなかったほどの発達をするのを目の当たりにして、人間のポテンシャルとワンダーに眼がさめる思いをすることも、少なくありませんね。

 でも、逆に、人間の悪、愚かしさを目の当たりにすることもあります。

 前者は子どもが示すことが多いのに対して、後者は「良い大人」が示す場合が非常に多い。

 今晩は、その「良い大人」のおバカをご紹介して、皆さんで考えてもらいたいと思います。

 ある学校でのこと(デフォルメしています)。その学校にも、重たい愛着障害の子どもが、たくさんいました。その一人と私が心理面接をすることになりました。その1回目の面接の日、突然面接ができないことになりました。学校行事が入ったようです。「それじゃぁ」、ということで、その次の面接の日に行って見ますと、今度は、保護者が用事があると言って、その子が早退したってんですね。面接の予定も、≪約束≫に基づくものですから、「≪約束≫に基づく遊び」セラピーの時の≪約束≫と同様に、非常に大事なものです。私も17年間心理臨床をしていて、2回連続で約束した面接がキャンセルされたことは、一回あるかないかですから、これは「異常なこと」だと、すぐに分かります。それは何だと思いますか?

 担任と校長が、面接に「抵抗」してんですね。「抵抗」と言うと、心理面接では、普通クライアントが示すものですが、学校臨床では、担任や管理職が「抵抗」を示す場合が少なくありません。「学校や教室は、教員のもの、教員の城」という迷信に囚われている人たちが、まだまだ日本には多い。この場合も、担任と校長が、心理臨床家が「活躍されたら、面白くない」と感じていることを感じましたね。

 私はそれと分かっても、それを非難するようなことはありません。「愛着障害」が、子どもの頃にセラピーをせずにホッタラカシにされると、「寿命が20年短くなること」、「思春期以降に、摂食障害、薬物・アルコールなどの依存症、境界性人格障害、重いうつ病、などの罹患する可能性が非常高い」とお伝えします、すると、たいていの場合、セラピーに「抵抗」を示してた担任や管理職も、おバカであっても、大バカではないので、セラピーが出来る場合がほとんどです。

 この場合も、その後面接が出来て、その愛着障害の子どもは見事に、根源的信頼感を豊かに育むことができましたから良かったんですが…。愚かな教員の、ヤクザな縄張り意識のために、愛着障害の子どもの人生がメチャメチャになる所でしたね。ことほど左様に、地域社会でも一目置かれている(? 今は昔の話?)「教員」と言う「良い大人」が、こんなおバカでヤクザなハカリゴトをする場合があんですね。

 

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