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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

自分に不愉快なことでも聞く耳を持てるのが、良い王様(市民)の条件

2013-12-27 03:14:46 | フーコーのパレーシア

 

 パレーシアが民主主義の指針と考えられていたことが分かりました。

 

 

 

 

 ヘレニズムの時期には、パレーシアの政治的意味が、君主制の危機に伴って変わります。「パレーシア」は今や、君主と彼の顧問たちや裁判官達の関係の中心となります。国の君主制の政治体制においては、王様を、議論を通して、助けるために、「パレーシア」を用いることが、顧問の義務です。「パレーシア」は王様にとっても、彼の治世下にある市民にとっても、必要ですし、役にも立ちます。君主自身がパレーシアステスである訳ではありませんが、良い統治者の試金石は王様がパレーシアのやり取りができることです。このように、良い王様であれば、生粋のパレーシアステスが王様に申し述べる全てのことを受け止めます。たとえ、自分の決定に対する批判を聴くことになることが、王様にとって不愉快だと分かっても、王様は受け容れるのです。君主が専制君主であるとハッキリ分かるのは、君主が自分の誠実な顧問たちを見捨てる場合か、顧問たちが言ったことで顧問たちを罰する場合です。たいていのギリシャの歴史家たちの手になる君主の横顔は、君主が顧問たちにどのように接したかというその仕方を考慮に入れています。それはまるで、このような振る舞いが、パレーシアステスたちの話を聴く王様の能力を測る、1つの指標であるかのようです。

 

 

 

 

 

 ここでは、良い王様かどうかの指標は、自分にとって不愉快でも「本当のこと」を聴く耳があるか、ということです。しかし、これは中世の王様や殿様の専売特許ではありません。こんにち、ここ日本にあっても、政治家のみならず、政治のことを真面目に考えるのであれば、自分に不都合があっても、たとえ不愉快であっても、「本当のこと」には耳を貸すことが極めて大事です。

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雷がくれた変化

2013-12-26 05:22:17 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ルターは、命懸けで信じるものを探している、という感じですね。

 

 

 

 

 

 ルターの立場は、心の病か? それとも、宗教的に新しいものを創り出すのか? の分かれ目である、と見ることもできるかもしれませんね。それから、多分ルターは3つの(あるいは、それ以上の)別々でバラバラな経験の中に、1つの完全な天啓の要素を聞きつけていたのだろうと思われます。その1つの完全な天啓は、他の人たちであれば、1つの爆発的な出来事の中で手に入れたと言われるものです。その要素をまた一覧にさせてください。体の発作、無意識の深さ、知らないうちに話し言葉が口から出ること、努力したり、強く願ったりする方向を完全に変えなさい、という命令、それと、霊的な天啓。つまりそれは、ひらめく様な気付きですし、ハッキリとした全人格的再生です。雷によって、ルターは人生の完全なる方向転換もたらされました。それは、匿名へ、沈黙へ、服従へと向かう変化です。聖歌隊での発作のような発作では、ルターは、自我を失うようなてんかん発作と、捨てられるはずのアイデンティティを否定されることに対する激しい怒りを経験したのでした。そして、後になって、あの「塔の経験」の中で、それは第5章で議論する予定ですが、新たしい霊的な答えのきらめきを得たのでした。

 

 

 

 

 病気と見まがう発作が、ルターの人生を完全に方向転換するほどの変化をもたらすことになったのでした。それは実に不思議な出来事だと、言うべきでしょう。

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パレーシアと政治

2013-12-25 23:50:08 | フーコーのパレーシア

 

 パレーシアはあくまで理性で勝負するのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 「パレーシア」の発展の、2番目に重要な側面は、政治分野と関係します。「パレーシア」がエウリピデスの戯曲と紀元前4世紀の文書に出てくるとき、「パレーシア」はアテネの民主主義の欠くべからざる性格です。しかし、私どもが一般的に申し上げられることと言えば、「パレーシア」は、善良な市民の倫理的で個人的な態度の1つと言うだけではなくて、民主主義の指針であるということです。アテネの民主主義は、市民が「デモクラティア」、「イセゴリア(平等な言論の自由)」、「イソノミア(権力の行使にすべての市民が平等に参加すること)」、それから「パレーシア」を自由に使える政治制度なのです。「パレーシア」は、公式に話をするための必要条件ですから、個人としての市民の人たちの間で行われますし、1つの議会をなす市民の間でも行われます。さらに申し上げれば、広場(アゴラ)は「パレーシア」が行われる場です。

 

 

 

 

 

 パレーシアが民主主義の指針である、ということは、今の日本では、ことさら重要です。ウソとゴマカシが蔓延している日本、「口開けば、唇寒し」の日本、ホンネとタテマエの日本だからです。

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ルターは、命懸けで従いたかった

2013-12-24 06:35:15 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ルターの発作は、神経の症の二律背反を示しているようです。

 

 

 

 

 

それで、この発作は、無意識裏に父親に従っていると同時に、修道院に暗に反抗していることを示しています。話された言葉は、自分の父親が言うことを否定すると同時に、21才の時に嵐の中で、最初は不安発作と思われていたことの中で、マルティンが誓った誓い、「私は修道士になりたい」を肯定しています。したがって、1人の若い修道士が、父親に従うのか、すなわち、異常なほどの不屈さと素直ではない感じで父親に従うのか、それとも、ほとんどバカバカしいほど精一杯従う、という修道士の誓いに従うのか、その岐路に立っているのが分かります。

 

 

 

 

 ルターは従いたかったのだと感じますね。ルターは、本当に価値あるものと信ずことができるものに対して、精一杯従いたかったのだと思います。それが、父親なのか、それとも、修道士としての誓いなのか、あるいは、別の第三の道だったか?

 私どもは、すでにその結果を知っています。

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「パレーシア」は、感情に訴えかけない

2013-12-23 05:25:18 | フーコーのパレーシア

 

 ヨーロッパでは、特に哲学においては、「パレーシア」はレトリックと対立する伝統があるといいます。哲学のような堅い学問には、今でもその「中身」で勝負、という感じがあり、それはレトリックの排除と結びついた感じが今でもありますね。

 

 

 

 

 

 しかしながら、「パレーシア」が、フランス第一帝政期に、美文家の著作の中の、レトリックの分野で共同されている印を見つけることもできます。たとえば、クインテリオンの『礼拝堂の研究所』(第九巻、第二章)では、クインテリアンが説明するのは、言葉のあやが特に、聴衆の感情を強めるためにあっている、ということです。そのような言葉のあやを、彼は「エクスクラメイティオ」と呼んでいます。こういった感嘆符と関連して、「偽物だったり、上手くでっち上げたりする」のではない、とクインテリアンが記しているように、一種の感嘆符があります。この種の自然な感嘆符は、彼は「自由な話」と呼んでいて、彼によれば、コルニフィキウスは「免許」と呼び、ギリシャ語では「パレーシア」と呼ばれています。「パレーシア」は、言葉のあやの中では、一種の「比喩」ですし、しかも、次の性質があります。すなわち、完全に自然だからこそ、まったく言葉のあやがない、ということです。「パレーシア」は、聴衆の感情を強めるという意味では、零なのです。

 

 

 

 

 

 パレーシアは、その言葉を聴く者の感情に訴えかけない、非常に理性的な技法であることが分かります。自分の頭で考えたことを、他者と分かち合うときには、非常に大事なものとなるはずです。

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