打越通信

日記ふういろいろ

プリンター

2010-11-07 08:10:45 | パソコン
伯父から携帯に電話がかかってきた。
話の内容からどうもプリンターの調子が悪いようで買いなおすのでどのメーカーが良いかと言っている。
それだけならば良いのだけれど、近日中に新しいプリンターを買うので使えるようにしてくれと言う。

仕事でもそうなんだけど、プリンターというのはメーカーによってインストール方法も違えば、ドラーバーの使い方もちがうので結構苦労している。
特に業務向けのプリンターは直付けだったり、ネットワークプリンタだったりとめんどくさい。
おまけに用紙切れや、用紙がジャムた時のメッセージの管理をドラーバーで設定するものもあれば、中間ソフトをインストールしてそれとドライバーでやり取りして行うものもあり色々だ。
おまけに設定がおかしくなり一度アンインストールして再インストールしないといけない。
そのアンインストールの時、レジストリまで手で削除しないといけないモノまである。



会社が早く引けたとき伯父の家に行きインストールを開始する。
箱からプリンターを取り出して、インクをセットして電源を入れてプリンター自体をセットアップする。
次にCDを入れてドライバーや付属のソフトをインストールする。
途中でメッセージが出て、プリンターとパソコンをUSBケーブルで接続しパソコンにプリンターを認識させる。



それでインストールは終了、後の使い方はプリンター毎に違うので伯父にその事を言い聞かせ帰宅した。
伯父は私の母の長兄で親父とは学校時代からの親友なのだ。
パソコンに夢中になりインターネット、デジカメからの写真の取り込みから加工、スキャナーの取扱などほぼ全域にわたって操作できる。
しかし何か間違うとすぐに電話が来る。
特に自分(伯父の)の感覚で写真などが印刷できないとすぐに電話がある。
そういえばそろそろ年賀状の季節だ、去年もそうだった様に電話がかかってくる季節なのだ。
リモートソフトを用意した方が良いかも知れない。

Vol.1 of Anniversary

2010-11-06 17:39:51 | Weblog
とうとう寄り切られた。
立合いが・・ワキも甘かった。

日記など書いたこともなかった男が、<ブログ>、だと・・。
パソコンのスキルアップぐらいにしか考えていなかったが、
(たいへんなこと)に首を突っ込んだと思う。
いままでの生活の一部を<コレ>にあてがわなくてはならない。

まあ、泣き言はこれくらいにして、明日から書いてみよう。
沖縄の友人たちとやりとり出来たら、意味がある。

記事・文 ジロー

つくのがついた

2010-11-06 11:50:52 | 日記ふう
年末に使用する<石臼>のセットが宅配されてきた。
14:00~16:00着と勘違いしていた僕は、それから3時間待たされた。
(待たされた)というより、先方からのメールを開いて確認するのを
怠った僕が悪い。
何せ初めてのネットショッピングだったので、要領がつかめなかった。

<佐川>の元気のいい兄ちゃんから「今から行きまーっス!」と
連絡があり、7時前に届いた。



               臼の木台



     サービスでついていた桐のまな板と子供用の杵

蕎麦打ちの道具なども取り扱っている新潟の店だが、下の写真を
見ていただきたい。



大人用の杵もしっかりした作りだが、サービス品の子供用のそれも、
角度、長さをよく考慮して拵えてある。

さて、臼だが重量が40kgある。
佐川の兄ちゃんは大男で、ヒョイと運んだ・・
ように見えたので、マネをしてみた。
誰もいなくなってから試した自分に少し哀愁を感じる。
「腰にひびくよ(若くないんだから・・)」
といわれるのがイヤな年になったのだ。

写真・文 ジロー

魅力の長崎

2010-11-05 06:44:27 | 旅行
長崎駅から長崎名物の卓袱(しっぽく)料理を食いに行った。
行ったというより、連れて行かされたというのが正しい。
その料理の中で、さすがに旨いと思ったのはやっぱり豚の角煮だった。
料理屋の玄関でお土産用に売ってあったので妻へのお土産に買った。

その後は長崎に来たら必ず行かなければならないところがある、そうグラバー邸なのだ。
もうここからは完全な観光旅行の雰囲気になって、テンションも下がりっぱなしだった。



バスガイドのオネーサン、大浦天主堂の前は完全に無視して先へ進む。
ちょうど私の横にいたので聞いてみた。
そうしたら立ち止まったらいけないらしい、ましてガイドも出来ないそうだ。
なぜだか分からないが、どうもそういう観光規定みたいなのがあるのだろう。



園内に入るとコンサートがあっていた。
プッチーニの「マダム・バタフライ」、ソプラノが「ある晴れた日に」を歌っていた。
階段に腰掛けてしばらく聞いていた。



そういえばグラバー邸の中にプッチーニど象があると聞いたが見つからなかった。





一緒にいたMのヤツもハート型の石タイルを一所懸命に探していた。
どうも2つ見つけると良縁にめぐり合えるとかで、彼女も必死なのだろう。



キリンビールの原型があった、そういえばキリンビールも三菱の傘下企業だ。



グラバー園を出て、石畳の道を買い物もせずにイッキに下まで下った。
過去の買い物の様子はこちらから



ボウリングの発祥の地と云われていることは知っていたが、記念碑を見つけた。
しかしここが目当てでは無い。



チャンポンの発祥の店といわれる「四海樓」が目的なのだ。
店内はもう3時過ぎだというのに観光客なのか地元の人なのか分からないが一杯だった。
4人でテーブルに着きチャンポンを頼んだ。
長崎に来て自分の意思で食事するのは思案橋での餃子とここのチャンポンだけ。
1000円近い料金だったがやはり本場のチャンポンは旨かった。

やっとこの「長崎さるく」の旅も終わる、今回はグラバー邸を除けば古い歴史を持つ長崎の近代の歴史をたどる旅だったような気がする。
船旅あり、自由行動でのブラブラ旅あり、歴史に振り回された長崎、まだまだ見て歩くには垣間見た程度しかない、今回でそれが良く分かった。
魅力ある長崎に再度挑戦してみたい。

冬の準備 1

2010-11-04 17:00:28 | 日記ふう
ここ1~2日、めっきり空気が冷たくなってきた。
気温は沖縄の冬に近い。
二階の押入れに眠っていた電子カーペットを準備することにした。
が、上もののカーペットの汚れとにおいが凄かったので、
(3年以上かまっていないのだから無理もない)
夜、ひとみと二人でコインランドリーに行った。



予め家で<ポイント汚れ落し洗剤>で処理し、ワイドハイターも持参した。
何気なくひとみについて行ったのだが、今のランドリーの利便性の凄さにに驚いた。
(そんなの知ってる)人からは嘲笑されそうだが、(昔こんなのがあれば・・)と
うらやましくなった。





何と<靴洗い>・写真上でウォッシュ、下が乾燥機


          スポットリムーバー




<靴洗い>にも驚いたが、この<無料シミ抜き>のサービスには感心した。

お父さんが、中学生の娘と部活のユニフォームを、学生のようなカップルが普通
の家でするような洗濯物を、理容店オーナー風の二人が大量のタオルを・・
さまざまな人が利用していった。

大型の乾燥機がふさがってりたので、翌日干して部屋に敷いた。
見違えるほどきれいになった。



<コミュニケーションのヘタなネコ>が一番に座った。


写真・文 ジロー








長崎原爆資料館

2010-11-04 06:59:00 | 旅行
ハマさんが
「次は爆心地に行ってみよう」
というのでついて行った。
平和公園のすぐ近く、天気も良く快晴の空。
3人でブラブラしていると、インド系のオネーチャンに声をかけられた。



どうも写真を撮って欲しいようだ、被爆50周年で建てられた母子像をバックに彼女のカメラで2枚、私のカメラで1枚撮った。







原爆落下の中心碑、152,276の方々が犠牲になっている。



空を見上げると雲ひとつない晴天だった。



そしてこちらが浦上天主堂の遺構だそうだ、何とも生々しい。

ハマさんが時計を見て、まだ時間があるので原爆資料館に行こうという。
中学の時の修学旅行で行ったきりだったが、その時の記憶がまだどこかに残っているのだろう、やばいなぁと思いながらもついて行った。

昔の原爆資料館と違って新しい建物に変わっていた。
館内に入り写真はどうなのか聞いてみた、住所と名前を書いたら撮影許可の腕章をくれた。
ただしケータイでの撮影とフラッシュ撮影は出来ないと言われた。



館内に入ると千羽鶴ならぬ40mもある鶴が展示されていた。
館内には結構外国人が多い、真剣な顔をして見ている。



熱で人の手の骨がガラスに焼きついている。



長崎に投下された原子爆弾の模型も展示されていた。



戦後の国際情勢などの経過も展示されている、そして長崎の平和宣言などの展示もある。
長崎市として平和に対してかなり力を入れていることが、ひしひしと伝わってくる。

もっと見たかったが時間が気になり先に館の外に出てハマさんとMを待った。
タクシーに乗り込み長崎駅で観光バス組と合流した。
観光バス組、とうとう亀山社中には入れず、その周りをうろうろしただけだったようだ。

高平台校区 健康まつり

2010-11-03 16:30:35 | イベント
               快晴の文化の日



11月3日恒例の<健康ウォーキング>が開催された。
各町内から合計500名の参加があった。



会長挨拶後、第二町内(打越町)篠原さんの指導のもと、ラジオ体操で
ウォームアップ。



第二グラウンドでは五年生の野球少年が練習に集まっていた。
むぞらしか・・。



さあ、出発。




歩け!歩け!



若いパパとママも頑張っていた。



朝の坪井川沿いを歩く参加者。ゴールまであとすこし・・



およそ、3キロのコースだったが、全員無事完歩。ジュースでひと息入れる。



第二町内(打越町)のプラカードを持ってくれた、五年生の男子。ご苦労さま。



ゴール地点の遊水地公園で(紙ひこうき)(タイム宣言ウォーキング)(ホールインワン・グラウンドゴルフ)で楽しんだ後、それぞれの表彰が行われ、解散した。
昼食が配布された町内では、弁当を食べながらのおしゃべりに花がさいた。

さて、ゴールする直前に気付いたが、



広大な公園の中に<これ>がそびえ立っていた。
<ひごっこジャングル>とある・・誰が付けたか、なんしか、名である。
下から見上げていると、ある町の役員さんが、「このすべり台は、足でブレーキばかけんと危なか。」といっていた。
(すべったんだな、この人・・)

僕がいない時にできたんだなぁ、と
しみじみ眺め、浦島 太郎の気分になった。

余談:ケンちゃんから「もう、そろそろ自分のブログを立ちあげろ」といってきた。
   (そりゃそうだろうな)と思う。ケンちゃんのブログにお邪魔してから1カ月
   になるが、自分の記事も溜まってたいへんらしい。「1000回記念まで待て」と
   いったが、聞きそうにない。今、折衝中だが、まだ自信がないことも確かだ。
   ケンちゃんは「シンヤも早く立ちあげたら、いいんんだけど(怒)」
   ともいっている。シンヤ、急げ!

記事・文 ジロー



  



奥武島観音堂395年祭

2010-11-03 08:12:08 | 島からの便り
はいさい、泳げない海人です。

さった10月31日(日)に我が奥武島にて一大イベントが行われた。

 『 奥武島観音堂395年祭 』
昔々、中国の漁船が嵐の中、奥武島近くで遭難し
私達ご先祖様たちが救助し手厚く介護し無事に本国へ送り返した。
そのお礼に琉球政府を通じて、奥武島へ黄金の観音様が贈られた。
そして、観音堂が作られたのを期に観音堂祭が行われるようになった。
実際には、もっと年月が経ってるだろうとゆう人もいる。

旗頭を先頭に祭りがはじまる。

  

  

僕らはとゆうと

  

ソーグと呼ばれる道具で祭りを盛り上げる。叩けば「キィーン!!」とキレイな音でかなり響く。

  

島の男性は、ほぼ参加してもらう。(下は幼稚園児から上は90歳近く)

 

 

スーマチーと呼ばれる男性達による、いわば渦潮を?イメージしている。

 

その後、選ばれた方々による棒術がはじまる。
下の写真は、自分のおじさんで、嶺井 光さん(現沖縄県議会議員)です。

 

次に、女性陣によるウシデーク。

 

情報収集不足の為、写真のみです。

 



150名余りの女性によるゆっくりとした演舞。

  

南城市長との写真。(二人の姉と姉の娘と兄貴夫婦)

  

式典には、沖縄県知事も来られた。



最後に、民謡ショーなどの催し物があり無事閉幕した。
次は、5年後の400年祭だね。

追記:ケン YouTubeにウシデークの動画が・・。貼りつけときます。

平和公園と浦上天主堂

2010-11-02 06:40:42 | 旅行
翌日は7時前に目が覚めた、7時から朝食が出来るとの事だったので指定されたレストランに行く。
バイキングスタイルの朝食だった、ウォーキングの大会のようなものがあっているのだろう、その方々で満席に近かった。
部屋に戻ってバスタブにお湯を入れて、冷蔵庫からビールを1本持って、ゆっくりとつかった。
ロビー集合は9時50分だったのでゆっくりできる、こんな旅行では信じられないスケジュールだった。
バスに荷物を積み込んで、今日の午前中はバス観光とフリーに別れる。
ハマさんが
「亀山社中なんか、竜馬ブームで1時間、2時間まちで観光どころじゃないよ」
と言うので2人でバスに荷物を預けて歩きだすと
「私もつれてって!」
と言ってMがついて来てしまった。
このM、なかなかの才女で頭は切れる、だから話のキャッチボールも面白い、だから連れて行くことにした。
一人でブラブラするより3人くらいが良いのかもしれない、とりあえず電車通りに出て路面電車に乗り込む。



松山町で降りて、平和公園へ向かう。



長崎の歴史の中で一番悲惨な歴史は、この原爆投下。



・・・・・・・・・・・・・

 のどが乾いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが
        一面に浮いていました
 どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました

  ---あの日のある少女の手記から

出だしから涙腺がウルウルになってしまった。



公園ではちらほら観光客もあり、こちらでは子供達の平和学習会みたいなものをやっていた。
日差しが強く、カラッして気温も随分上がってきた。




アイスを買って三人でベンチに座って青い空を眺めて・・・幸せすぎるのか、私たちは・・・。
そのまま浦上天主堂までてくてく、Mと腕を組んで、会話も面白い。



はじめてきた浦上天主堂、その大きさに先ずはビックリ。



外には首のない殉教者の像がある、原爆の被害でも受けたのだろうか、平和へのメッセージなのかも知れない。
中に入るとちょうど結婚式があっていた。



花嫁さんに写真とって良いか聞いらOKが出た。
M、この凛とした花嫁に見とれてやがる。

長崎の夜は!

2010-11-01 19:50:03 | 旅行
今回の旅行の宿泊先のホテルは個室だった、初めての事だった。
宴会までの時間、中華街あたりをハマさんと散策、タクシーの運ちゃんに雀荘を教えてもらう。
言われた場所に下見に行く。

宴会が終わり、2次会には参加せず、早速雀荘で勝負だった。
近頃、若者もするようで若手がふたり参加した。
結果は大きな手で上がりはするが振込も激しくて、とんとんの結果たっだ。
どこからの情報なのか続々と集まってくるではないか。
そこで席を譲って、若手の打ち方を見学しているとケータイがなった。

Mという26歳の独身女性。
「〇〇さんの部屋はどこですか?」
と聞いてくる。
私のこと男と思ってないらしく、部屋の番号を教えると遊びに来るつもりらしい。
一瞬、ドキッとしたが
「マージャン部屋」
と言う。
この子、何かと私になついて来るのだ。
「ホテルを出て・・・・・」
と説明する。
またケータイが鳴る。
「わたし、迷子になったみたい」
と言っている。
しかたなく雀荘を出て暗い中華街に探しに行く。
ケータイでやり取りをして、やっとの事で探し出し雀荘へ帰った。
雀荘なんか初めて来たみたいでクールビューティの目が輝いていた。
半ちゃん4回でマージャンも終了し、7人で中華街からすこしはなれた繁華街(思案橋)に繰り出した。
餃子とおでんとビールで旅行初日は終了したのだった。

軍艦島クルーズ

2010-11-01 12:39:48 | 旅行
長崎駅近くの高層ホテルの14階でランチバイキング。
それから長崎港へ向かう、台風14号の影響で、絶対無理だろうと思っていたクルーズ、午前の便も午後の便も運行との事だった。
早速団体チケットが配られた。



待合室の軍艦島クルーズの料金を見てビックリ、上陸コースで4300円もする。



周遊コースで3300円、上陸するのにプラス1000円も払はなければならない。
個人で行くにはちょっと躊躇する料金だ。
長崎港から出港して湾内を観光しながらの片道30分の船旅になる。



岩崎弥太郎が起こした三菱、長崎造船所に自衛隊のイージス艦が修理に訪れていた。
その横にはカーキャリアの巨大な船を造船していた。



女神大橋の下を通り湾内には島が点々とある、キリシタンならではのマリア象が目に入ってくる。



しばらく行くとかすかながら小さな島が見えてくる。



まったくの廃墟の島、端島。



着岸してさあいよいよ上陸なのだが、このクルーズ船2階建てになっていた。



私達は1階の船室にいたので気づかなかったが、2階席も満席のようで約200名くらい乗っているのだろう、ぞろぞろと降りてきた。



この廃墟の小さな島に5000人の人たちが住んでいたそうで、ホテルや映画館、学校に神社まであったという。



7階建ての高層ビルは当時としては、すぐれた技術で造られたそうで建築物としての価値も高いという。



管理棟の横に階段があり、炭鉱労働者はこの階段を登って竪坑に入ったそうで、24時間3勤交代制がしかれていたそうだ。



竪坑の深さは600m、この前のチリでの出来事があたまをよぎる。
ここで取れた良質の石炭は鉄のまち北九州に運ばれ製鉄の基礎となったそうだ。



約30分の上陸時間、再び船に乗って今後は西側のからの端島、軍艦「土佐」に良く似ているので付いた名前が「軍艦島」。
なんともいえない廃墟の島から歴史を感じるのだった。



慰労会

2010-11-01 08:56:37 | 日記ふう
10月30日、先の国勢調査の労をねぎらい、その慰労会があった。
自治会長の肝いりで催されたが、調査員の方たちへの気配りは
念が入っていた。



中華のオードブル×3



刺身の盛り合わせ×3



寿司×人数分

わずか13名(11+2)の宴席にこれである。
ビール、日本酒、焼酎、女性用にワイン、
各々におみやげまで用意されていた。

自治会長の、それも<打越町の>となれば、
その責務は多大なものがある。思えば
歴代の会長を務めてこられた方々も、素晴らしい人格者であった。

この席で、会長から「また、手伝ってくれ・・」といわれた。
現会長は、どこか亡き父に似ている。
至らぬ自分だが、(喜んで孝行しよう)と、思う。



(11+2)の(+2)は配膳係としてお手伝いに参じた、
ノボルさんと私だ。
この人がいれば、奉仕活動も楽しくやっていける。

あっ・・ケンとグッチもいたな・・

写真&文 ジロー