副題・・・・ブルースカイの4
ブルースカイと言う映画そのものについては、夫役のトミーリージョーンズの章で、ほとんどを述べました。今日は、もう一人の主役である、ジェシカ・ラングのすごさを述べたいと思います。そして、この演技で、彼女にアカデミー賞、女優主演賞を与えたアメリカ文化も健全だと、失礼ですが、お褒めの言葉を差し上げたいです。映画はその時期の文化レベルと言うか、環境を見事にあらわしています。
これほどの、スケールの大きな映画、そして、問題作にきちんと、賞をあげると言う形で顕彰したアカデミー賞、委員会は健全です。しかし、太地町のいるか漁のドキュメンタリーに賞を授与した2009年は、大いに不健全だったと言いたいです。誰かが教唆すると言うか、裏からの采配があると感じます。政治に文化が屈していると感じます。そこは、残念ながら、大いに不健全ですが、それは、対日本ということで、理解が深くないのでしょう。本質的なところまで、考察が深くなりえない。
しかし、ブルースカイは、アメリカが舞台の映画です。監督トニー・リチャードソンはイギリス人ですが。それに対して、一応、女優主演賞だけでも、与えた事はえらいです。本当は作品賞をあげてもよいぐらいでしょう。だけど、公開まで4年もかかって、ほとんどお蔵入り寸前だったものですから、誰だって見たら、ある意味で問題があり・・・・・リスキーな事は分かるはずです。だから、作品賞までは授与し得なかったのでしょう。
でも、誰だって、そのいきさつは推定できるし、賞如何がすべてではないと言う、基本に立ち返れば、それで、OKということになります。
~~~~~~~~~~~
私は彼女については何も知らないで映画を見始めました。でも、40分ぐらい経過すると、『この人はすごいな』と思い始めました。なんでもない場面にリアリティが、あるのです。120%といっていいぐらいあります。たとえば、台所で、外をうかがいながら、心配のみぎりになる場面とか。精神を病んでいるという設定になっています。だから、他人が気に掛かるのです。で、敷地がアメリカの住宅としては、余裕が無くて、道路を通る人とか、そとで立ち話をしている人の雰囲気がもろに、伝わってしまう家なので、過剰にそれを、負担に感じていると言う場面です。
彼女の役柄はほとんど、せりふがないのです。直前にみたクローサーでは、こじゃれたせりふがいっぱいあって、ジュリア・ロバーツも、ナタリー・ポートマンも、自己分析を果たしている存在です。賢いと言う事が言葉で、証明されます。
しかし、この映画内でのジェシカ・ラングは、そんなこぎれいなせりふは何も発しません。単純に言えばあほな女です。自己分析など出来ないままに、子宮・・・(映画内ではそんな、下品な表現はどこにも無いが、彼女の悩みは女であることの根源的なところから、生まれているものでしょう)・・・が突き動かすままに動いている女性となっています。
映画女優になることを夢見て、主婦業に専念できない女性とは、どこか、雅子様と共通します。ここではない、どこか、別の場所に、自分が本来いるべき場所があると、信じている女性。夢見る夢子さんですが、ジェシカ・ラングほどの体格的にたくましい(身長、173cm)女性が演じると、リアルです。現実にこういう女性はいるだろうと思えてきます。彼女はボディ・ラングェッジだけで、
それを表現します。カメラ目線などは、まったくなくて、みえを張るようなしぐさもないのです。
非常に自然なのですが、女性そのものと感じられます。
そして、それは、哀れでもあります。だから、夫は、彼女が、。・・・自分にとっては敵となった上司(大佐)と・・・間違いを起こした後でも、いとしく思い、かばって、大切にしています。それゆえに、最後の大逆転劇、が効力を持つのです。つまり、妻が意外な方法で夫を助ける事が有効に成ります。
彼女は一人で、馬に乗って、核兵器実験場に乗り込み、・・・・だれか、民間人が砂漠の中にいても、核実験が行われてしまうこと・・・・それが、夫と上司との争点であった・・・・を全国的に、アッピールして、精神病院という名の監獄へ、入れられていた夫を救うのです。夫婦が実質的に大きく仲良しであった事が、夫の苦境を救いました。それが、一般の観客の感情移入を誘います。
文芸映画の中には、難解な解釈を要求するものがありますが、そう言う映画だと観客はカタルシスを感じにくいのです。しかし、この映画のように、家族にさまざまな危険が及び、崩壊寸前になってしまうが、最後には、辛くも、再建し、幸せになるという大団円ですと、ほっとするし、心の向かう方向として、それがとても自然なのです。
ここで、ちょっと余談ですが、この時期に、トニー・リチャードソン監督の奥様だったヴァネッサ・レッドグレイブが、彼の元を去ったのは、悲劇・極まりないことで、それも監督の命を縮めたでしょう。
そういえば、ジェシカ・ラングも離婚をしています。しかし、こどもの父も、すべて大物が相手です。業界人の大物が相手です。それは、潔いですね。
で、上のプライヴァシーについては、意外なところもありますが、元の映画内に戻れば、私は思いがけない感動に見舞われました。
さて、これほど、感激したのには、他にもさまざまな裏があります。それは、彼女がいわゆる美形ではないことにも、一つの原因があります。日本で言ったら、昔の顔。戦前に近い顔といってよいかなあ。今の若者は、小顔で、ほとんどの人が美形です。しかし、戦前は、そうではなかった。ジェシカ・ラングは、1949年の生まれですから、第二次世界大戦の前の生まれとはいえないものの、えらが張っているほうの顔です。固い顔です。オードリーヘップバーンのような顔ではない。でも、演技がすばらしいので、女性として哀れでもあり、かわいくもあり、素敵だと思えます。
彼女に比べれば、ドりュー・バリモアなど、俳優一家の生まれと言うこともあるけれど、もって生まれた顔がかわいいので、3歳ごろからETで主役の一人を果たし、今でも、水も滴る・いい女です。だけど、社会問題に対して、主張がある人だとか、インテリであるとはいえないし、みえないです。
比較すると、ジェシカ・ラングはアメリカで言えば、地方の出身です。名門のお嬢様でもない、失礼な言い方だけど、山だしの人です。でも、日本でも特に美術の世界を見ているとそうなのですが、地方の国立大学を出た人って、たくましいですよね。
そういうタイプです。しかも健全な中流階級で育って、最初は、大学を出て美術の教師に成る事を最初目指したのですが、パリへ行って、パントマイムを勉強したことで、人生が変わりました。
もしかしたら、パリは、美術の勉強が目的で行ったのかもしれないのに、別の進路をみつけてしまった場所となります。その後は努力、努力の人生でしょうが、最初の大役が、キングコングだった事は彼女にとって大いにマイナスだったようです。
それは、拾ってくれた人の薦めだから、従わなくては成らなかったといえますが、ライフワークとしての、本来の役(まじめな演技を必要とする役柄)とは、かけ離れた役、だったからです。
彼女は演劇のほうでは、『欲望と言う名の電車』のブランチ役(未婚のままで中年になってしまい、寄遇先の妹の家で、その夫から、「お前は上品に振舞ってはいるが、本当は、性欲がおおいにある、バイタなんだ」と、ののしられる、かわいそうな女性)をやってますから、内面を重視する役をやりたい女性でしょう。
このブルースカイの奥さん役も、一種の汚れ役です。彼女だからこそ出来たのではないかなあ。同じくらいの年の、メリル・ストリープは、未だ、有名ではなかったから駄目としても、他にできそうな人が、見当たりません。完璧なくらい自然に、あほに見えるように、振舞えるなんて、驚くべきことです。
最後になりました。女性であることの、根源的な悲劇についてはまた、いつか将来に語りましょう。子宮が、行動を支配し、身を、突き動かすといっています。それは、私の表現ですが、この場合の奥さんの、心もとなさと精神の不安定さも、そこに原因があると思われますので・・・・・2010年5月14日 雨宮舜
ブルースカイと言う映画そのものについては、夫役のトミーリージョーンズの章で、ほとんどを述べました。今日は、もう一人の主役である、ジェシカ・ラングのすごさを述べたいと思います。そして、この演技で、彼女にアカデミー賞、女優主演賞を与えたアメリカ文化も健全だと、失礼ですが、お褒めの言葉を差し上げたいです。映画はその時期の文化レベルと言うか、環境を見事にあらわしています。
これほどの、スケールの大きな映画、そして、問題作にきちんと、賞をあげると言う形で顕彰したアカデミー賞、委員会は健全です。しかし、太地町のいるか漁のドキュメンタリーに賞を授与した2009年は、大いに不健全だったと言いたいです。誰かが教唆すると言うか、裏からの采配があると感じます。政治に文化が屈していると感じます。そこは、残念ながら、大いに不健全ですが、それは、対日本ということで、理解が深くないのでしょう。本質的なところまで、考察が深くなりえない。
しかし、ブルースカイは、アメリカが舞台の映画です。監督トニー・リチャードソンはイギリス人ですが。それに対して、一応、女優主演賞だけでも、与えた事はえらいです。本当は作品賞をあげてもよいぐらいでしょう。だけど、公開まで4年もかかって、ほとんどお蔵入り寸前だったものですから、誰だって見たら、ある意味で問題があり・・・・・リスキーな事は分かるはずです。だから、作品賞までは授与し得なかったのでしょう。
でも、誰だって、そのいきさつは推定できるし、賞如何がすべてではないと言う、基本に立ち返れば、それで、OKということになります。
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私は彼女については何も知らないで映画を見始めました。でも、40分ぐらい経過すると、『この人はすごいな』と思い始めました。なんでもない場面にリアリティが、あるのです。120%といっていいぐらいあります。たとえば、台所で、外をうかがいながら、心配のみぎりになる場面とか。精神を病んでいるという設定になっています。だから、他人が気に掛かるのです。で、敷地がアメリカの住宅としては、余裕が無くて、道路を通る人とか、そとで立ち話をしている人の雰囲気がもろに、伝わってしまう家なので、過剰にそれを、負担に感じていると言う場面です。
彼女の役柄はほとんど、せりふがないのです。直前にみたクローサーでは、こじゃれたせりふがいっぱいあって、ジュリア・ロバーツも、ナタリー・ポートマンも、自己分析を果たしている存在です。賢いと言う事が言葉で、証明されます。
しかし、この映画内でのジェシカ・ラングは、そんなこぎれいなせりふは何も発しません。単純に言えばあほな女です。自己分析など出来ないままに、子宮・・・(映画内ではそんな、下品な表現はどこにも無いが、彼女の悩みは女であることの根源的なところから、生まれているものでしょう)・・・が突き動かすままに動いている女性となっています。
映画女優になることを夢見て、主婦業に専念できない女性とは、どこか、雅子様と共通します。ここではない、どこか、別の場所に、自分が本来いるべき場所があると、信じている女性。夢見る夢子さんですが、ジェシカ・ラングほどの体格的にたくましい(身長、173cm)女性が演じると、リアルです。現実にこういう女性はいるだろうと思えてきます。彼女はボディ・ラングェッジだけで、
それを表現します。カメラ目線などは、まったくなくて、みえを張るようなしぐさもないのです。
非常に自然なのですが、女性そのものと感じられます。
そして、それは、哀れでもあります。だから、夫は、彼女が、。・・・自分にとっては敵となった上司(大佐)と・・・間違いを起こした後でも、いとしく思い、かばって、大切にしています。それゆえに、最後の大逆転劇、が効力を持つのです。つまり、妻が意外な方法で夫を助ける事が有効に成ります。
彼女は一人で、馬に乗って、核兵器実験場に乗り込み、・・・・だれか、民間人が砂漠の中にいても、核実験が行われてしまうこと・・・・それが、夫と上司との争点であった・・・・を全国的に、アッピールして、精神病院という名の監獄へ、入れられていた夫を救うのです。夫婦が実質的に大きく仲良しであった事が、夫の苦境を救いました。それが、一般の観客の感情移入を誘います。
文芸映画の中には、難解な解釈を要求するものがありますが、そう言う映画だと観客はカタルシスを感じにくいのです。しかし、この映画のように、家族にさまざまな危険が及び、崩壊寸前になってしまうが、最後には、辛くも、再建し、幸せになるという大団円ですと、ほっとするし、心の向かう方向として、それがとても自然なのです。
ここで、ちょっと余談ですが、この時期に、トニー・リチャードソン監督の奥様だったヴァネッサ・レッドグレイブが、彼の元を去ったのは、悲劇・極まりないことで、それも監督の命を縮めたでしょう。
そういえば、ジェシカ・ラングも離婚をしています。しかし、こどもの父も、すべて大物が相手です。業界人の大物が相手です。それは、潔いですね。
で、上のプライヴァシーについては、意外なところもありますが、元の映画内に戻れば、私は思いがけない感動に見舞われました。
さて、これほど、感激したのには、他にもさまざまな裏があります。それは、彼女がいわゆる美形ではないことにも、一つの原因があります。日本で言ったら、昔の顔。戦前に近い顔といってよいかなあ。今の若者は、小顔で、ほとんどの人が美形です。しかし、戦前は、そうではなかった。ジェシカ・ラングは、1949年の生まれですから、第二次世界大戦の前の生まれとはいえないものの、えらが張っているほうの顔です。固い顔です。オードリーヘップバーンのような顔ではない。でも、演技がすばらしいので、女性として哀れでもあり、かわいくもあり、素敵だと思えます。
彼女に比べれば、ドりュー・バリモアなど、俳優一家の生まれと言うこともあるけれど、もって生まれた顔がかわいいので、3歳ごろからETで主役の一人を果たし、今でも、水も滴る・いい女です。だけど、社会問題に対して、主張がある人だとか、インテリであるとはいえないし、みえないです。
比較すると、ジェシカ・ラングはアメリカで言えば、地方の出身です。名門のお嬢様でもない、失礼な言い方だけど、山だしの人です。でも、日本でも特に美術の世界を見ているとそうなのですが、地方の国立大学を出た人って、たくましいですよね。
そういうタイプです。しかも健全な中流階級で育って、最初は、大学を出て美術の教師に成る事を最初目指したのですが、パリへ行って、パントマイムを勉強したことで、人生が変わりました。
もしかしたら、パリは、美術の勉強が目的で行ったのかもしれないのに、別の進路をみつけてしまった場所となります。その後は努力、努力の人生でしょうが、最初の大役が、キングコングだった事は彼女にとって大いにマイナスだったようです。
それは、拾ってくれた人の薦めだから、従わなくては成らなかったといえますが、ライフワークとしての、本来の役(まじめな演技を必要とする役柄)とは、かけ離れた役、だったからです。
彼女は演劇のほうでは、『欲望と言う名の電車』のブランチ役(未婚のままで中年になってしまい、寄遇先の妹の家で、その夫から、「お前は上品に振舞ってはいるが、本当は、性欲がおおいにある、バイタなんだ」と、ののしられる、かわいそうな女性)をやってますから、内面を重視する役をやりたい女性でしょう。
このブルースカイの奥さん役も、一種の汚れ役です。彼女だからこそ出来たのではないかなあ。同じくらいの年の、メリル・ストリープは、未だ、有名ではなかったから駄目としても、他にできそうな人が、見当たりません。完璧なくらい自然に、あほに見えるように、振舞えるなんて、驚くべきことです。
最後になりました。女性であることの、根源的な悲劇についてはまた、いつか将来に語りましょう。子宮が、行動を支配し、身を、突き動かすといっています。それは、私の表現ですが、この場合の奥さんの、心もとなさと精神の不安定さも、そこに原因があると思われますので・・・・・2010年5月14日 雨宮舜