銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

芸大祭、文化庁、Gユマニテ、金成悠子、宇留野某、保坂航子、山口みつ子、秋山裕徳太子、北川フラム 日笠雅水

2023-09-03 17:01:18 | 政治

 

北川フラム氏の画像です。3日の日曜美術館からとりました。9日の夜再放送があるはずです。

 この顔ですが、30年前は、美形だったのですよ。今はそれほどでもないですね。それだけ、温和に成った様に見えますが。なお、北川フラムで、画像検索をかけると、私をびっくりさせた、ひどいにらみつけ度の、その時代の太っていて、正方形だった顔が出てくるでしょう。

 なお、恐れ入りますが、本日は、この章の最後の続き部分は、書けません。4時間しか寝ていないので、こういう難しい文章には、取り組めないのです。恐れ入ります。しかし、中間部分まででも、十分に面白いと思いますけれど。

 まあ、過剰に自信を持っている。と、おっシャル方もおありでしょう。おもらしの話や、お小水の話なのに、自信があるだって!と、お考えになってね。だけど、それらは、超勇敢である、私でなければ書けない文章でしょうからね。それで、自信満々なのですよ。

   しかし、さらに、本音を言えば、そんなおちゃらけた話ではないのです。保坂涼子=航子の、きちがい度120%の、罵りメールは、本当に彼女が書いたのか?と、いうポイントに突っ込んでいっています。

 多分、ごーうすとらいたーとして、井上ひさしが書いたのだろう。それが、真相だろうと、言っています。だから、保坂さんは、わたくしと出会っても、のほほんとしていて警戒心、皆無でした。それは、今年=2023年の5月でしたけれど。

 ですから、30年前、銀座で、わたくしをにらみつけて来た、北川フラムは、CIAの一員というか、一巨頭なのです。だから、越後妻有、大地の芸術祭を、主催することができるのです。だけど、シロタ画廊のオーナーに比べると幼稚ですねえ。本当にこどもです。

 越後妻有、大地の芸術祭は、越後妻有トリエンナーレと言っていたのです。昔はね。言葉替えが、なされています。それは、わたくしが、どこかで、一回、北川フラムについて書いているからでしょう。

 だから、常に言葉替えを、日本社会へ、進行させている、井上ひさしとお仲間なのです。はい、多数の殺人事件が起こしてもらってやっと、わが身の平和をキープできている、例の

 鎌倉エージェントの一員なのです。はい、そういうこと。

 その日、というのは、2023年の5月の事ですが、昔=2005年、文章をめぐって、大悶着が、起きた保坂さんと、18年ぶり(ただし、実際に顔を合わすのは初めてでした)に、あった

 同じ日に、ぎゃるりーユマニテのオーナー・十束さんは、「金成悠子は、やめました」と言いました。それも嘘じゃあないかと、今では思っています。二人が別れるはずはないです。「そういう様に、言って、かなり悠子をかばいなさい」と、どこからか、命令を受けていたのではないですか? 私が、かなり悠子を叱責すると推察されたので、いないといいなさいと、急遽命令されたのでしょう。

 という前置きを、4日に入れておきます。

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副題1、『NHKニュースの情報に基づいて、本日は、芸大に、行ってきました。ものすごく人気の高い学園祭を行っていました。芸大生(もしくは、実行委員)は、法被を着ていてね。すぐわかる状況でしたが、一般人の見物客もいっぱいでした』

永らく、美術の世界に居るのに、芸大の学園祭に行った事が有りませんでした。父親が厳しくてね、人文科学系、の大学に行くのなら、学資は出さないと言って居ましたので、受験もできない大学なので、特に敬遠して居たのだと思います。

 ところが、九月二日 土曜日のNHKニュースで、「文化庁が、作家の法律的な苦境を、解決するための、相談会を、芸大で、開いて居ます」 と言うお知らせを、開示したので、土曜日は、早めに寝て、体力温存を図ったのです。最近はね。本当に体力がなくてね。そうするよりほかはないのです。だから、ブログが、更新できませんでした。

 いやあ、驚きました。 芸大の文化祭って、ものすごい人気がある催しなのですね。ちっとも知りませんでした。

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副題2、『NHKニュースによれば、文化庁主催の、芸術家に対する法律的な支援会があるそうだった。わたくしは、父の代から、美術ではお金は、稼げないと、言い続けられてきていて、美術で、お金を稼ぐ、必要性を感じてこなかった。ところがなのだ。孫の一人に、発達障害が出て(ただし学校は普通に行っていて、一つの科目以外は、とても優秀だそうだが?)その子の父親である息子から、「お母さん、おばあちゃんからの遺産は使わないで、僕に残しておいてね」といわれる様になった。

 そうなると、急にお金に厳しい状況が出てくることとなった。で、このブログは人気が高いはずなので、アフリエイト収入があるはずなので、それが、どうして来ないのだろうかと、相談に行ったのだ。弁護士さんがアフリエイト収入について、大変丁寧に、説明をしてくれて分かったのだけれど、「そばにある広告に、」読者の人が、クリックして、商品を買ってくれないと、アフリエイト収入には、ならない」そうだ。昨日はノートンの、広告が付いていて、今日は天野フーヅの広告が付いている。それを読者様が「買います」というクリックをしてくれないと、アフリエイト収入にはならないと、いうことだった。それも、数千人ではだめで、数万人単位で、買ってくれないとだめだそうだ。

 だから、皆様も、同情してくださって、それを、買う必要はありませんよ。だって、このブログを読んで、インスタント味噌汁を買いたくなる人っていないでしょう。ともかく、資本主義社会って、「商品を売ります。買います」という作用を、根本としているので、私の様に、自分の主張ばかりしている人は、アフリエイト収入は、見込めないのだった。でも、質問に行ってよかった。ちゃんと納得できた。ともかく、好きなことで、収入を得るのは難しい。それと、40代で気が付けば何とかなったが、80近くになって、急にお金が欲しいと、言っても、無理なのだろう。世間に甘い話は転がっていない。

 最近、このブログによく登場する葉っぱちゃんが、「好きなことで、お金を儲けるのは、難しいわよ」と10年ぐらい前に、言っていた。親も昔からそういっていた。それを本日、深く、深く、納得をした。

 たまたま、その父が1986年に亡くなったので、遺産をもらった。そのときに、家裁の調停委員が、「あなたは、本当のお子様ですか?」といったほど、妹と、弟とは差があった。それは、不動産がバカ高い時で、不動産をその時、二つずつもらった、妹と弟は、何も貰わなかったわたくしに比較すると、賃貸収入が入るので、結局のところ、それ以来、母が死ぬまでに、35年間に、二億か三億、私より、余計にもらっている。母としては、「千恵子には北久里浜の家を建てる時と、鎌倉の家を買うときに援助してあげているから、自分が死ぬときに、あげる反町の小さなアパートで、我慢して頂戴ね」と、いうことだった。まあ、それはそれとして、家裁の調停員が、「本当のお子様ですか?」というほどに差があったということは、私が、二人の弟妹の、五分の一以下だということだった。母と妹と弟は、「お姉さんに、相続に反対しないでもらうために、・・・・弟がもらった、遺産から2千万円を現金で、お姉さんにあげましょう・・・・それで、納得してもらいましょう」と、決めたらしい。

 わたくしは常に頭を使って、モノを考えている人なのだけれど、・・・・だから母から、免許取得をやめなさいね。事故を起こすはずだから・・・・と命令されているのだけれど、1986年当時は、お金のことなど、考えたこともなかった。抽象的なことばかり考えていたのだった。で、弟が礼節を尽くして、「お姉さん、僕が2000万円上げますね。だから、この遺産相続に賛成してくださいね」といったので、すっかり、自分は、お金持ちだと勘違いしていたのだった。だから、本当のことを言うと、父の死亡時の、遺産相続で、妹と弟に比較をしたのは、今であって、当時は、本当のところ、・・気が付きもしない・・ほどだった。

 で、今は、倹約をしている。ところが泥棒が入る。「実印を盗まれた。で、いろいろ調べて、作り直したのだが、盗むのは、CIA連中なので悪用される心配はない」と思っていて、改印の届け出はしていない。が、銀座の伊東屋と鎌倉の月乃印鑑店(ものすごい高級品を作っている。最低の柘植でも、12万ぐらい。本物の象牙あたりだと50万円以上する)を、訪問して調べるだけで、余計なお金がかかるので、本当にがっかりする。だが、この二店舗より、もっと誠実な感じのお店で、作り直している。

 でもね、皆様、私には、神様が付いているのですよ。まさか、お金までは恵んでくださらないでしょうが、そのほかのポイントで、恵んでくださっています。だから、自らの生活については大丈夫でしょう。倹約したり、いろいろな、工夫をする頭は、まだ残っているのですよ。だから何とか大丈夫ですから、同情はしないで、くださいね。大丈夫です。

 下の方に、有名な手相観の、日笠雅水さんが、出てきます。彼女が、教えてくれた、私自身が気が付かない、私に関する、真実の一つに、「あなたは、ものすごく親に恵まれていますね。あなたほど、親に大切にされている人間はいませんよ」というのがあって、身に着けるものは、1958年のクリスマスの絹のスカーフ(自由が丘のブティックのものだが、絹繊維がたくさん使ってあって、どっしりとした重みのあるもの・・・・・最近まで、50年以上大事にしていた)から、2005年ごろのダイヤモンドの指輪に至るまで、私が欲しいといわないのに、買ってくれていて、私は、欲望が喚起される間もなかったのだ。ICU時代も銀座マギーの生地を母が買ってくれて、それを母が見つけた洋裁師に、縫ってもらって、私にぴったり合わせた、スーツを着ていたのだった。これは、当時は気が付かなかったが、相当なぜいたくで、自分の子供には、そんなことはできないし、自分自身も銀座マギーの生地で、誰か、洋裁師が仕立ててくれたスーツなどは、今は、着ていない。そして、身に着けるもの以外で、もっと、高額のものは、父が手配してくれたもので、北久里浜の土地も父が手配してくれた。しかし、両親がしてくれたのと、同じことは、私は、子や、孫に対してはできない。

 でも、違うことで、もっと大きな世界で、奉仕をしていると、いう自信があるので、気分はしゃんとしている。81歳にしては、気分は元気な方だろう。

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副題3、『わたくしは実は、この2023年5月に、ぎゃるりーユマニテ(地下一階)で、保坂航子さんに出会ったのだ。7分から10分ほど、和気藹藹で、普通に、美術評論チックな会話を交わして、去ろうとすると、保坂さんが「ぜひ、芳名帳に、署名をしてください」といった。私は、彼女が展示している石の立体が素材として、どのくらいの厚みで、手に入るのか?とか、どこで、買うのか?とか、どこ産なのかを質問をしていったのだけれど、彼女の彫刻が薄いのは、材料の時期から、薄いものを買うのだと思う。海外産の大理石を本年は、使っていた模様だが、これがベテランになると、作品の売れ行き先が、決まっているので、厚い石(御影石)などを使う。イサムノグチなど、大変、大きな石を使っている。

 だけど、「薄い石を使っている彼女が、まだ、貧乏だからね」などとは、微塵も、感じさせない会話をする。私の美術評論が、とても、評判が高かったのは、常に作家の立場に立って作品を見るので、、そこに、どういう独自な工夫があるのか? について、すぐわかる。それをこちらから、指摘をするのではなくて、質問という形で、投げかける。こういう美術評論家は、他にはいない。

 ただ、保坂さんが、私の顔を知らないでいて、しかも、私を優れていると考えていて、何度も「署名をしてください」といったのは、幸いだった。これが、神様の事件全体に対する、幕引きなのかと、思った。

 だけど、2006年から始まった、いやな、いやな話は、ここで、きちんと、盛り返しておかないといけない。お金の話でもあり、画廊のオーナー、山口みつ子さんが、他殺であることを証明する話でもあるので、きちんとしかも、新しい解釈を加えて、行わないと、いけないからだ。で、軽く楽しげに始まった、この章も突然に、陰惨なCIAの本質に入っていく。

 わたくしは、メルマガで、美術評論をしていたのだったが、たまたま、保坂さんをほめた文章は、月刊ギャラリー2006年2月号へも掲載された。今のぎゃるりーユマニテの、一階イコール2005年当時のギャラリー山口の一階での、初個展で、壁にかかっている、写真と詩をほめた。で、その作品を見たので、彼女を繊細で、口下手で、体も小さいのだろうと思い込んでいた。が、違った。実際の彼女は体格が大きく、会話の調子も世慣れていた。まあ、18年の歳月を経ているので、変化もあるだろう。

 しかし、ここから先が、今まで、書いていたことと違うのだが、二つの理由から秋山裕徳太子が、謀略の担い手となり、保坂航子を利用して、私と山口みつ子さんの仲を裂き、かつ、私の、美術評論家としての立場を壊すために、山口みつ子さんを殺す・・・・・ということが、その2005年ごろに、決まっていたのだと、いうこと。これは、まったく新しい解釈だ。

 すごい、すごい、話で、書きにくいことおびただしい。すでに、午前一時だが、久しぶりに無理に無理を重ねて、書いていこう。

 秋山裕徳太子は、武蔵野美大の卒業生で保坂さんは後輩にあたる。実際の個展の五年後ぐらいの2009年ごろ、山口みつ子さんが私に教えてくれたのだが、保坂さんは、「雨宮舜(本名、川崎千恵子)に、いくら謝礼をしたらよいでしょう」と、秋山裕徳太子に・・ギャラリー山口・・内で、質問をしたそうだ。すると秋山裕徳太子が「雨宮舜、何するものぞ」と力んだそうだ。

 どうしてそういうことを彼女が教えてくれたかというと、私があの画廊内で、「保坂さんから、罵りの言葉を、36行にわたって書いたメールが来たのよ。しかも、101回も繰り返して」といったからだった。そして、その返事として、まず、「まあ、きちがいだわね」と、みつ子さんは言って、そのほかの詳しいことをも、教えてくれた。

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副題4,『保坂航子さんの詩を読むと、こんな恐ろしい文章を書くとは思えず、何かがおかしいと思っていて、それで、五年も誰にも言わずに黙っていたのだった。

 今、初めていうが、彼女が書いたのではなくて、・・・・・いろいろ、他人の名前を使って、あれこれを書く鎌倉エージェントの中の一人が、ゴーストライターとして、書いたものだったのかもしれない。で、保坂航子さんのパソコンには、私のブログが絶対に読めない措置が取られていて、保坂航子さんは、私のブログなど、読んだ、事がないので、ここに載せてある顔写真とか、フェイスブックも、見たことがなくて、したがって、私に対する何の警戒心もなくて、だから、今年の五月、彼女本人と会話をした時も、私こそ雨宮舜(本名、川崎千恵子)であるとは、気が付かなかったのではないか?・・・・・と思っている。

 このブログは、とても恐ろしいことが書いてあるので、誰も、コメントなど、よこさない。ただ、ある男=保坂さんが、私に送ってきた恐ろしい文体のメールを、書いた=そう私がいまではおもっているその同じ男だけがコメントをよこす。署名には、「ヘーガデール、ウンチョース」と名乗っている。

 屁が出る。「ウンチをする」という意味の、名前だ。プロの作家として、ユーモアを売り物にしている作家だが、酒鬼薔薇聖斗の、かな釘流の、手書き宣言文とか、その酒鬼薔薇聖斗が罪を終えて、出獄した後では、少年Aと名乗り、太田出版から、【絶歌】というのを出版したが、それもそのゴーストラタ-が書いたと考えている。

 そのゴーストライターの名前を言おう。井上ひさしだ。彼は、2009年4月9日(金)、大々的にNHKニュースを占拠して、自分が死んだことにしたが、実際は生きている。

 で、この間、地方裁判所から、データを捨てさせたのも彼であり、目的は、酒鬼薔薇聖斗の宣言文が、自分が手書きで書いたものであることを、将来見破られることを恐れたのであろう。土師淳君のお父さんは、私のブログを隅から隅まで五年分ぐらいをお読みになることです。そうしたら、真実がわかるでしょう。

 私が突然に、この五月に、ユマニテを訪ねたのは、電車の中で、おしっこを漏らしたからだ。自然なことではなくて、身体への外部攻撃だが、桜田門の大画面に、ポインターを当てて、排尿機能を促して、私の意思に反して、おしっこが出てしまうと、いう状況に陥いらせた。電車の中に、普通の場合の尾行ではなくて、桜田門で、出された命令を中継する小型(ただし、性能は、抜群に良い)を持った、特殊部隊の人間がいたと思われる。

 幸いに麻でできた夏用のロングコートを着ていた。それが、パンツ=ながいズボンの事、下着のパンツではない=を隠してくれるので、電車の中、および、新橋駅構内にいた、他人はだれも、気が付かなかった。誰も、その濡れを指摘する人間はいなかった。

 しかし、その日のわたくしは歌舞伎座に行く予定があった。歌舞伎座の椅子は布張りであり,たとえ麻のコートが濡れていなくて他人が、おしっこを漏らしたことに気が付かなくても、これで、歌舞伎座に行くことはできなかった。しかし、ここでも、神様が、お助けくださった。私が画廊巡りを30年間続けてきたのが、ここで、役に立った。どこで、新しい洋服を買えるかをわかっていたのだった。

 しかし、これが、CIAエージェントからの外部攻撃であることが、100%わかっていたので、私は歌舞伎座の帰りに、銀座の二つの画廊に、寄ることを決意した。トイレのことで、いじめてくるギャラリーK と、ぎゃるりーユマニテだった。

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副題5、『この失禁が外部操作であったことはその日のギャラリーK のトイレのカギの状況を見たことと、それ以降ブログにギャラリーK という名前を入れた、トイレ問題や、失禁問題を、書いていないのにもかかわらず、

 ギャラリーK から、個展の開催状況を知らせるメルマガが来なくなったことでも、証明できる。

 わたくしは、この二つの画廊以外で、トイレを使いたいと、いう意思を示したことはない。というのも、スペースの大きなビルで、ワンフロアーに、テナントが何軒も入っているビルだと、全テナントが使う共同トイレがあり、そこを使うのは、自由だからだ。

 しかし、たいていの画廊は、まず、展示室があり、その次に事務室があり、そのさらに奥にトイレがある形式なので、その週、作品をそこで、展示している作家(画家など)以外は使えない。で、新橋から歩き始めると、銀座6-13-7新保ビル、や、銀座1-9-8奥野ビルなどが、気兼ねなく使える、共同トイレがあるビルなのだが、10年ぐらい前までのわたくしは、まだ、まだ、老齢化は、来ていなくて、トイレの間隔が長かったので、別に用心もしておらず、新橋駅で、用足しをしてから銀座に入るということもなく、奥野ビルで、トイレを済ませることもなく歩いていたので、突然に、京橋3-9-7のポイントビルで、トイレに入りたくなることがあった。

 このビルは、ワンフロアー、ワンテナントという形式で、本来なら、共同トイレはないのだけど、たまたま、トイレが、エレベーターを降りると一番最初に位置するドアになっていた。その次のドアを開けると、作品展示室になり、かつ、事務室はさらに奥にある。だから、ギャラリーK 個人のものだが、使いやすいのだ。しかし、あまり使ったことがない。というのも、この画廊を預かって、運営をしている作家、宇留野某氏が、いつも剣呑な顔をするからだった。30年間、画廊巡りをしているのだけれど、この章の初稿(外で、スマホを使って書いている段階)で、取り上げた、美術評論家、北川フラムが、30年前ごろに見せた、恐ろしいにらみ方とそっくりだからだ。同じ美術評論家(多分酒井忠康氏だが、間に、誰か、家来格の人間を挟んでいるかもしれない)が、「雨宮舜(本名、川崎千恵子)をいじめなさい」と、言っているのが明瞭だった。

 しかし、どうしても、ここを使いたいと思うときがあって、トイレのドアノブをひねったら、鍵がかかっていた。すぐ、自然なことではないと感じた。で、それに気が付いた時以来、必ず、ドアノブを回してみることにした。すると必ず、鍵がかかっていた。

 そこで、ある日、宇留野さんにこのことを質問をしてみることとした。というのも、尿を排出させないということは、大便を漏らす気の毒な第一次内閣時代時代の安倍晋三氏と同じ、抵抗できない人権侵害だから、画廊、特に現代アートを展示している画廊と、いう意味では、日本の上層部としては、やってはいけない、措置だと思うからだ。恥を知れ、CIAエージェントよ」と言いたい。で、かれらが、「えっ、裏側がわかっちゃったのか?」と思えば、やめると判断をした。

 ところが、宇留野さんは、堂々、シャーシャーとして、「うちのトイレは、個展をしている作家にしか使っていただかないことにしています」といった。

 この違いだけど、トイレの問題だけは、築地警察署の生活安全課の花鳥画命令しているので、宇留野さんは、強気だったのだろう。酒井忠康氏が、いじめなさいと、言って、田んぼを耕している。そこへ、警察から、「雨宮舜が、お宅を訪問するときは、必ず、知らせるから、トイレの鍵を閉めておいてください。彼女は、こうこうこういうわけで、殺さないといけない人物です。でも、一気に殺すことができないので、いじめる形で、徐々に殺していくしかないから」と、命令すれば、あっという間に、知るでしょう。その裏にある複雑極まりない、北久里浜1978年とか、ICUキャンパス内、1965年とかは、知らないことで、まったく一辺倒の、知識のもとに動くからです。

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 すみません。ここで、午前四時になったので、中断します。寝ないと死にますので。

 

@@@@@ここが書きかけ中の最先端です。

 私は、美術評論家としての、立場を、

 秋山祐徳太子、野見山暁次、渡辺豊重、北川フラム、酒井忠康、瀬木慎一、ワシオトシヒコ、秋山裕徳太子、ほかに、疎外をされてきているのです。→

::::::::挿入に入ります。で、芸大祭りに行ってみたら、おや、おや、2003年ごろに、芸大祭りを見ていたら、もっと、力強い美術評論家になっていて、敵の攻撃など、蹴散らせていたかもしれないと、思った次第です。 油絵棟、8階大学院生、および、7階、学部生(四年生)だけ見ただけですが、いろいろな感想を持ちました。で、70人ぐらいの作品を見たら、もう、疲れ切って、あとは、油絵科の、1~3年生、彫刻棟、金工棟など、見ないで、帰途に就いたのです。元に戻ります。::::::::

 → などの人に疎外をされてきているのですが、たまたま、本日の日曜美術館に、北川フラムが出てきたので、この人のケースを書きたいと思います。この人は三十年近く前、旧 村松画廊に入る一階の廊下で、極悪の睨みをして来たのです。全く、面識が無いのに、どうして⁇  と思いますが、本日、中谷芙二子さんの霧に関する日曜美術館を見て居て、うっすらと、感じて居た名前がはっきりと特定出来ました。中谷さんは、1930年代生まれなのに、ノースウエスト大学留学と聞いて、すぐ中谷博士のお嬢様だと、気が付きました。当たっていました。お父さんは雪、ご本人は霧のスペシャリストです。

 中谷芙二子さんが、越後妻有、トリエンナーレに招かれたときの動画に、北川フラムが出てきたのです。

 この人と初めて会ったのは、26年以上前です。村松画廊が、まだ、7丁目のビルの二階にあったころ、一回の暗い、廊下で、すれ違ったときに、異様に強い目力で、しかも「嫌いだよ」と、いう意味を込めて、見つめられたので、不思議なことと思い、ほぼ、30年は、前のことなのに、はっきりと覚えているのです。

  内藤律子さんの個展に招かれて居たので、絶対に →

 

  → これはね、その後 何百回と繰り返されるCIA連中固有のイジメ策です。

  本日も朝 11時 45ー48ふんの間に花輪夫人にやられました。でね、それも腸詰康と関係が有るので、分析しなくては、いけないのですが、本日は芸大に行って居た事も有り、美術の方へ特化しましょう。雪の下黒物語に入る前にそれを致します。 

 →  花輪ふじんのいじめなど何百回目かしら? と思うほどのものなので、あ、そう!  と言うだけのものですが、北川フラムに睨まれた時はね、まいった とか苦しい とか悲しい と言うよりもね、

 うわー、なんて美形なんだろうと思って、そう言う側面で、メルマガでエッセーを書いた記憶が有ります。その当時は、私は、自分が他人から攻撃されるなんて、夢にも思わず、ただただ美形だなあと思っただけなのです。

 まえほうで、私が主人をICU祭に招いて、とてもはしゃいでいたら、それを見た途端に、大物中の大物である入江多喜夫君が、バスの中に入って来なくなったと言って居ます。それでね、入江君て、もしかしたら 私の事を好きだったのかしら?  なんて書いて居ます。私は、前歯に金冠を嵌めて居たので、容貌には、からっきし自信が無かったのですが、この年 1962年の35年後有名な手相観 日笠雅水さんに見て貰ったところ、 あなたは、アーティストで良かった。これが専業主婦だけだったら、事件を起こす女になって居ます。といわれました。

 日笠さんはね、日大芸術学部出身の才媛で、しかも、坂本龍一達のYMOのマネージャーをして居たそうで、コネのある人しか見ないらしいのです。でもね、著書を見ると 太陽戦と言う芸術を司る、線についての解説が最も詳しいので、あらゆるコネを利用してみて貰ったのです。三回みて貰ったのですが二回目かなあ、表参道の交差点でわざと出逢う様に計らって、かつ、強烈なイジメモードを出してきた人です。それはね、今日は来ないで、と言うサインだったらしいのですが、私は、現在の朝ドラの主人公、冨太郎博士とおんなじで、人を疑わない主義だし、その日も予約を入れて居るのだから、みてもらいに行きました。でもいい加減でした。ただ一回目に驚く様な診断をして貰って居たので、一年後、二年後は、どう変わって居るか知りたくて、三回訪ねて居ます。

 これは自分の為ではなくて、日笠さんを守る為に言うのですが、週刊女性  京橋の私が、毎週そこを通るところに編集部がある  に私の手相を悪い手相で、二重人格だと書いたのでした。しかし、私は、全然恨んでいません。ただし、彼女が、その様に変質したのは、赤瀬川原平、もしくは

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