副題〇、『この章の目的をまず書こう』
以下の事は年賀欠礼を使った、引っ掛け(=だまし討ち)について書いた、前報 →
偽の逝去情報?(=年賀欠礼に拠る)で、引っ掛けられそうになった私、 2023-09-07 22:30:57 | 政治
→ を、さらに、解説する為に書いて居ることです。非常に嫌なことを前段階に置きますが、そういう状況であるからこそ、深く突っ込んだ、解釈を、他の登場人物についても、さらすと言う事となります。R子さん名義の、年賀欠礼を、もし、彼女が本当に、出したと、仮定したら、マダムR子は、私を殺そうとする一味の、仲間となりますので、徹底的に分析させていただきます。それに入る前置きが、副題1~〇までです。ただし、どうも偽物らしいという判断も、私の方にはあり、それを考慮しながら書いていくこととなるでしょう。年賀欠礼は、手書きではないです。大体、文体が、決まっていて、亡くなった人の場所だけ、固有名詞を入れる形で、彼との続き柄も入れます。だから、パソコンで一枚だけ作るのも簡単です。大型プリンターで、印刷するとプロに頼んだ、年賀欠礼とほぼ同じ仕上がりになりますので、偽ものを作るのは、容易です。
笠松敦子さん(新卒時、筑摩書房入社、その後、独立系編集者となり、【失われた時を求めて・新訳・箱入り上製本】ほか、立派な本を続々と編集する)から、電話で、内容を聞くという間接的な形だったので、わざと誤解する様へ誘導されたとも、考えるのです。続き柄が、書いて居ないらしいことは、ご主人ではない」と、言う部分が、ありました。夫君は、私も彼女も、よく知っている男性です。その名前ではなかったというだけで、死んだ人が、夫君ではないと敦子さんは、言いました。ただし、子供なのか、甥なのか、兄弟なのかは、笠松さんは、言いませんでした。それだけでも怪しいです。私が、誤解する方向への誘導がある。
私が、ご長男が死んだと早合点をして、猛烈な母親(=R子)批判を開始して、その後「あっかんベー・違うんだよ。ご長男は、元気だ」という展開になるのではないかと、その電話中に、気が付きました。それでね。その罠には、引っかからない様に、気をつけながら、数日を過ごし、やっと、9月7日になって、友人四人に電話をかけたのです。するとね。二人が居留守を使い、二人には、年賀欠礼が来ていないと、わかりました。居留守を使った人(後で出てくるあんずちゃんと、ポンですが)たちには、敦子さんカラか、川名君からか、または、別の人から、この2.3日のうちに「年賀欠礼が来たと、言ってくれ」と頼まれていて、かつ、その嘘を上手につく自信が無かったので、居留守を使ったと思っています。
笠松敦子さんには、伊藤玄二郎か? 川名昭宣君が「川崎千恵子=雨宮舜の本名=が、いずれ電話をかけてくるはずだから(というのは、1966年の同窓会報を、最近、寝室に入れ込められたので、それについて、同期生の誰かに電話をかけて問い合わせる筈だから)、こう、こう、こういう風に答えてくださいね」と、頼んでいたと、かんじます。そう感じないと、敦子さんのご長男と、同い年の長男を持っているわが身としては、情けなさすぎる。こんな悪女がお母さんなのですか?となるからね。違うでしょう。あなたって、もっと、もっと立派なそして賢い・人でしょうと、言いたいです。でも、自分一人で、この引っ掛けを考え出したとすると、それじゃあ、R子さんの欠点を書いた後で、あなたの欠点を、これから先、シリーズとして書かないとならないじゃあないですか?と、なります。
伊藤玄二郎と笠松敦子さんが直接関係があるだろうと、言うのは、吉田秀和氏の上製本を、彼女が担当したからです。しかも献呈をされたからです。ありがとうございます・でも、あります。が、葬儀に招かれなかった私としては、その献呈を嫌味と感じました。吉田秀和氏については、何本もメルマガエッセーまたは、ブログ文を書いて居るからです。それをちゃんと読んでいたら「葬儀には、一緒に行きましょうね」と言ってくれるはずだから、読んでいないでしょう。その上に、葬儀に誘ってくれなかったのは、伊藤玄二郎の命令であろうから、もう伊藤玄二郎と、親しいのだなと、わかりましたよ。ただね、伊藤玄二郎と、川名昭宣君は、これまた、通通の上の通通という間柄だから、川名君から、「こういいう風に言ってほしい」と、頼まれた可能性をも、強く感じています。
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副題1、『パスポートについての感慨、あれこれ・・・・・その盗難(私の分2冊)』
今、録画しておいた、カンブリア宮殿を見て居たら、凸版印刷は、二けたの数に及ぶ外国のぱすぽーとを印刷しているそうです。
また、別の日にNHK ETVで、放映をされている【こころの時代、遠藤周作篇・・・深い河】でも、パスポートが出て来て、それで、大いなる、嫌な気付きをもたらされました。遠藤周作の深い河は、1950年のフランス留学への船の中で、神父の井上洋治氏(1927~2014)と知り合い、その井上洋治氏が、重要なモデルだと、いう場面が出てきました。その際に、遠藤周作のパスポートが出てきたのです。
遠藤周作が、37歳の時です。
その時に、非常に嫌なことを思い出しました。私はね。パスポートを二度も盗まれているのです。
ICU時代の友人で、アメリカ留学をした人たちは、1966年にパスポートを取得した筈です。ICUに入学する前に、AFSに合格した人たちは、17歳の時=1959年にパスポートを取得した筈です。
私が取得したのは、1980年です。38歳の時です。すぐトルコへ、個人旅行(ただし、主人と一緒)して、その後、イランへ個人旅行(主人と一緒❓いつだったかしっかりと覚えていない)、イタリアへの旅行(阪神旅行のツァー?)、フランスパリ(文化庁の在研・滞在三か月1998)、スペイン旅行(主人と弟と一緒1998)、ギリシャ旅行(1998 単独)、ニューヨーク滞在(3か月=1999 単独)、ニューヨーク滞在(3か月2000 単独)、ニューヨーク旅行(2002,11日)、台湾旅行(2006~2014 の間、❓6日間)などの旅行をしたはずです。
遠藤周作は、若い時に結核を患っているので、そのフランス留学時のパスポートでは既に痩せていて、その後、彼が、一般社会でも有名人となった姿と、顔貌は、同じです。
しかし、私自身の顔は、非常に違うでしょう。でね。遠藤周作の人生を見ると、小田急【玉川学園駅】もよりに、居を構える前には、二、三回転居をしていると思います。それでも、紛失しないで、ちゃんとパスポートが、ある。有名人のパスポートは盗まれていないのに、一般人のパスポートは盗まれる。この国って、変でしょう? おかしいです。
青山敦子さんという高校時代の同期生が、弁護士をしていて、1978年には助けてもらえました。そのころは、ご自宅で、お昼ご飯をごちそうになりながら、相談するというほどの仲良しだったのに、その北久里浜の水道山を瀬島一派(CIA軍団)が、只で、私有化する地積変更届以降、どうもすべての東大卒の弁護士に、私を助けるなと、言う指令が下ったらしくて、こういう無残なことが、頻発しているのです。後程出て来るポンというあだ名の、東大教授夫人にも誰かが讒言を下していると思うのですが、それが、ご主人からだったりして?????
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副題2,『パスポートが必要なのは、どの国に、何年に、行ったかを思い出したいからだが、何時も絵をスケッチしてきて、そこにサインを入れているので、わかるはずだと思ったが、その絵が無い。盗まれていた。
ある日、側溝(雨用・・・・特に西隣との間の側溝)に、鎌倉の町で出会った美女の鉛筆スケッチが、ボロボロになって入れ込まれていたので、絵の泥棒は、大原光孝さんだと、わかった。というのも、この女性を、スケッチするのは、相手に報酬を支払うわけではなくて、美人だから、お願いをしているので、千載一遇のチャンスだから、その当時、仲が良かった、ご近所住まいのプロの画家・大原光孝さんに、「ご一緒にどうぞ」と誘ったら、「そのひとは肌の色が白いですか?」 と質問をされたので、「うーん」と否定すると、「じゃあ、いいです。僕は、肌の色が白い人が好きなのです」と言って、断られた。その女性は、東京在住だが、お嬢様であることは確かで、鎌倉ではサーフィンをしに来たのかもしれない。だから、日焼けしていた?
彼は、柄沢斉の弟子だそうで、それゆえにか、柄沢斉の版画集は盗まれている。それと、保田春彦(武蔵野美大教授・・・故人)から頂いた、奥様の業績を集積した、厚さ5cmのA四版の画集も、盗まれ、(この二冊は、水沢勉氏から頂いた)
ご近所住まいだった、品のよい紳士で、前衛俳人だった、中村光三郎の、【春の距離】も、盗まれている。これは、ご本人から頂いている。
そのほか買った本で【鍵盤の天皇】は、読むのを楽しみにしていたのに、盗まれている。3000円で再度買うのがばかばかしい。
大原光孝さんは、瀬島龍三 → 酒井忠康 → 柄沢斉 (または、家出中の、美枝子夫人)などから、合いかぎ、をもらっていて、「泥棒を、やっていい」と言われていると、思う。だけど、酒井氏が、関係していると、書いて居るのに、泥棒を、やり続けるのだろうか? バカとはさみは、使いようという。酒井氏は、うまく使っていて、私は下手に使っていると、言う事だろうか?。
こういう事をなぜ書くかというと、前報に書いて居る、引っ掛け、だまし討ちについて、説明をしたいからだ。お待ちいただきたい。でも、最近、冷蔵庫から夕食のおかずを入れるのにちょうどよいサイズの、タッパーウエアが、盗まれた。こういうものは、「泥棒に入ったぜ」という脅かし行為なので、大原光孝さんがやっているかどうかはわからないが、 彼は、今では、こういう弾圧行為に対する報酬を、内閣官房機密費から、「絵を買ってあげます。画料です」という項目で、もらっていると、思うので、裕福になっているのだが、この町に1984年に、引っ越してきてから、6年後の、1990年から、私が、女流展、とか、国展に、入選する様になって、絵を募集前に見てもらうことにした。上品な指導で、こうしなさいとか、ああしなさいとは言わず、ただ、テクニックの側面だけ指導をしてくれるので、感謝していた。彼にとっても楽しかったはず。
で、外見的には、上品な人なので、金銭的謝礼をするのを、失礼なことだと思って、食べ物を、お礼にもっていった。そこで、感謝される言葉から、わかってしまったのだが、一生、宮仕え(サラリーマンであると言う事)をしたことのない彼は、非常に貧乏だったのだ。食費代は、奥様から、10万円ぐらいもらっていたと思う。または、奥様は五万円で、養母さんから、5万円だったかもしれない。だけど、医者だった、養父さんが、厚生年金に入っていなかったと、仮定すると、養母さんは、お金を出したかどうか、怪しくなる。
そのお金で、主夫業(お料理を担当する。買い物も含めて)を行い、余った分を自分のお小遣いにしている、そういう生活なので、とても、貧乏だった。で、我が家の冷凍庫から、明太子が、数パック消えている時は、なるほどと、思ったりした。明太子って、鎌倉で普通に買うと意外と高い。だが、私は、京急久里浜駅に、一か月に一回程度、直接出張して来る、九州の生産会社の、明太子を買うので、大量でも、千円で、買える。キリコというのだが、大量なので、自分で、五袋ぐらいに分けて、冷凍保存をしている。これが何度も盗まれたので、この山には、異様に貧乏な人が居るとは、わかっていた。
泥棒は、四種類いるので、大原光孝さんが、明太子を盗んだとは、言わない。だけど、明太子って、第一次的に必要なものではないので、10万円を一か月、分散的に使う人が、この山にいたとしたら、買わない日が多いと思う。で、冷凍庫の中で、真っ赤なので、目立つので、つい持って帰ってしまったのだろうと、考えて居る。だけど、何度も言おう、今は、内閣官房機密費から、酒井忠康氏を通して、「絵を買い上げます」という形で、年間、数百万円が入っていると考えられる。したがって裕福であるはずだ。とても、いいものを着ている。だが、嫌がらせ行為として、または、脅かし行為としての泥棒行為は、続いている。だが、彼以外にも、泥棒は、三種類は、いるので、どの物品を盗んだのが、彼だとは言わないで、置きたい。
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副題3、『日大アメフト騒動は、古村浩三夫人が、自分が経営している英語塾の生徒だった、宮川泰介君を呼んで、・・・・・こういう風に行動をして。その後、こういう風に記者会見で言って・・・・・と、指導をしたと考えられるので、
最初は、大原光孝さんを、アゲアゲにして、私を悲しませるのが目的であろうと考えた。そういう風にブログでも書いて居る。どうして、そういえるかというと、大原さんの娘はフェリスに通って居て、わが娘は、日大に通って居た。だから、フェリスより、日大を下に置けば、大原光孝さんが威張れるわけだ。しかし、最近の林真理子を見ていると、林真理子を日大理事長にするためにあの事件が、計画をされたと、わかってきた。フェリス VS 日大の、上下関係を鮮明にすると、言う目的が、15%だと、仮定すると、林真理子を理事長にすると言う目的は、85%となる。
つまり、林真理子というのは、出身大学を、足蹴にすることによって、最大の利益を得たモンスターなのだ。もちろん、彼女自身が手配したり、企画をしたことではなくて、井上ひさし等が、仕組んだことだけれど、結果は、彼女が肥大して、モンスター化した。
林真理子は、お飾り理事長だったと、言う説があるが、真っ反対で、林真理子が主体で、日大は、彼女のお飾りである。8月8日の記者会見に、短いニュースを見たが、中央の学長や、右端の副学長よりも、圧倒的にマイクの数が多かった。そう繰り返して言おう。林真理子を上げ、あげ、するために、日大アメフト違法タックル事件は、計画され、実行をされた。
あれは、宮川君がわざと、違法タックルをして、その場面だけをしつこく、何十回も、テレビ画面で繰り返すことによって、大事件であるかの如く、日本国民を洗脳していった事件だった。
宮川泰介君は、今は、wikipediaでは、Mと、呼ばれている。これは、鎌倉エージェント、特にいまだ生きている井上ひさしが案出した謀略に、共通する表現方法で、宮川泰介君は、CIAの、いっこの核弾頭として、計画通りに行動したに過ぎない。平成の八墓村事件でも、一審で死刑、二審で死刑になった保美死刑囚は、今では、H と、表記されている。
しかし、wikipedia では、出てこない宮川泰介選手の名前は、fujitsu の選手として、別の場所で、ちゃんと出て来る。なるほど、これが、報酬だったのですね。と、私は理解している。
こういう結論を堂々と、開示する陰に、古村浩三夫人の存在が大きい。彼女は、覚悟の決まった人というか、腹の座った人と、いう感じを私に与えたのだ。声だけで。私が一生で知り合った女性との電話内会話で、彼女が一番強い人だという印象を持って居る。で、宮川泰介、紗江両選手を自分が、経営する英語塾で、自分が教えた過去を、利用して、「こうこう、こういう風に行動をしなさい」と、説得をしたと、考えて居る。別に男性的な低温だと、言っている若江は無い。つやのあるめっぞソプラノで、十分に女性らしいのだが、強いと、感じさせる声だった。
その古村夫人の声を説明するために川名昭宣君が、イタリアンレストランで、ずるいずるいやり方で、私に暴力を加えた話が、必要になって来る。ほかの人が誰も気が付かない形で、手のひらに爪で、絞り上げる、または、つまみ上げる痛みを与えたのだ。それで、驚いて、スカーフを忘れて、古村家に、それを渋谷から、告げる際に、古村夫人と対応をした。それが、長大な川名昭宣シリーズとなっている。だけど、あれが、書けて良かった。今まで、ずいぶんと省略した形で、書いて来たが、相当に、深い真実を書くことが出来た。それも、林真理子のおかげである。(苦笑)
ところで大原光孝という人物については、この1000倍か、10000倍、書かないといけないのだが、今は、年賀欠礼が、問題なので、彼について書くのは、もうやめて、先を急ごう。
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さて、ここから、引っ掛けに乗ったわけではないが、R子、批判を開示したい。
副題4、『500人が作るソサイエティの中で、もっとも輝かしい男性をゲットした、R子は、勝利者なのだけれど、実は勝つことが目的であり、夫君を愛していなかった。したがって、お子さん(特に長男)をも、愛していなかった』
ICUは、純粋日本人(四月入学組)だけで、280人ぐらい在籍していました。上下の学年とも接するので、500人ぐらいの人と知り合うと言う形になります。1960年代のICUって、非常に人気が高かったので、女性には、美女が多い大学でした。
でもね、はっきり言って、R子さんは、美人の方ではなかったと言えます。般若系の顔で、かつ、鷲鼻で、肌の色が黒く、眼は小さい。しかし、態度は優美で、声も美しい。それから、さそり座だから、セックスについて、強い関心があり、ベッドマナーとしては、上手かもしれません。どうしてこんなひどいことを言うかというと、お仲間の一人、ポンという女性が、「R子さんは、美人だからね」と、私に言ったり、「R子さんは、人柄がよいからね。火事を出した後で、みんなが、必要な品を持ってきてくれたそうよ。だから、買わなくて済んだんですって」という風に、私に向かって、特に電話の中で、ほめるのだ。
ポンと言うあだ名の女性は、のちに説明をする様に、東大名誉教授夫人だし、小さい時から、茶道はマスターしているし、いざという時は、着物でお出ましの優美な女性で、普通の場合、電話の中で、良いことであれ、悪いことであれ、人のうわさなどしない人だった。だから、これは、わざと、そういう様に教唆命令されている発言だと、思う。
ポンに言いたい。笠松敦子さんにも言いたいが、私はバカではないよと。後程、出てくるあんずちゃんにも言いたいが、あんずちゃんとポンが、裏切ってくるのには、或る明瞭な理由があった。私は、1998年にあるお願い事をした。それで、とても親しいと、考えられたからこそ、離反をさせる様な動きがとられたのだ。その一つが、R子さんを私より上に置くと言う事。その論拠の一つが、R子さんが、夫として、テニス部の部長であり、医者の息子であり、新卒爾の就職先が、中央公論社であったと言う事が大きいだろう。尚、1060年代の中央公論は、まだ、石壁の、どっしりとした、旧ビルで、仕事をしていて、読売新聞と合併模していなかったので、中央公論新社と、言う今の名前とは、違う名前を使っていた。
ICU卒業生、280人の中で、二人だけを選んで、あるお願い事をしたのだが、今、思うとヘヴィーデューティだった。だが、ひとを信じるにたけている私は、彼女たちにとって、週に三回ぐらい、3000字のエッセーを読むなど、全然たいしたことではないと、信じていたのだった。
・・・・・私は今から文化庁の在外研修生制度で、三か月パリに行きます。パリで、感じたことを文章に表して、コピーして、お二人、と、もう一人、飯田隆君(元朝日新聞社、週刊朝日・編集長、中学の同期生)に送ります。「読んでください」と。
私は、中学時代も、高校時代も、国語の先生にべた褒めにされるほどに、表現力が高かった。長じての今でも、プロのライターに、「あんたは、筆力があるからね」と、言われており、実際に読んでいる人には、恐れられてもいるし、尊敬もされている。で、1998年にも、そのパリで書くもので、第二の沢木耕太郎に、なれることを疑わなかった。
その後、2004年から、2009年にかけて、私がひとりで出版した6冊の本の内、ニューヨーク版画修業記【黄色いさくらんぼ】は、10年以上、10800円で流通していた。最近は、2712円だとか? だが、15年目だし、流通させたのが、500さつていどなのだから、如何に面白いかをご想像いただきたい。
ところで、当時のICUにいた、150人程度の、才媛の中で、二人を選んだ理由だけど、まず、専業主婦である事。また、うっすらとだけど、自分が、CIAに弾圧を受けているのにも、気が付いていて、それに対抗するにあたって、二人は、十分な強さを持って居ると判断をしたので、選んだ。
ポンはすでに、ご主人が東大教授だった。だから、エリート中のエリートで、仕舞か、謡を習っていると言う事だった。だから、弾圧を受けないと思った。あんずちゃんの方は、1965年時には、とても親しくしてくれて、彼女の、実家から、昔家出をしたという実母にも会わせてくれた。実母さんが、ICUキャンパスから、徒歩圏内に、住んでいたからだ。そういう行動は、すべて、CIAに筒抜けで、したがって、彼女には、その後、良い事ばかり起きる。
私との間を、離反をさせるためにだろうと思うが、まず、大森実という毎日新聞出身の、政治評論家(アメリカ在住)の秘書になる。大森実は、当時、アメリカに住んでおり、あんずちゃんは、英語と日本語ができる有能な人材として、大森実に雇われていた。若い方は、ご存じないだろうが、当時の大森実って、今の佐藤優と、日高義樹を合わせたほどの、有名人だったのだ。
その後、外交官と結婚をする。金曜日の妻たちへ第三部)みたいな、パーティをよく私たちは開いていた。その中で、彼女は、「平屋で、60坪の家に住んでいたのよ」と、笑いながら言っていた。「中東の国の公使時代は、そうだった」と。ところが、彼女は、私の才能は買ってくれていた。で、彼女が所属する、公務員宿舎内の、絵画サークルに「一緒に行こう」とか、彼女が出演する舞台を「見に来て」と言ってくれていたので、私は親しいと感じて、信頼しきっていた。
二人の内、まず、あんずちゃんがおかしくなった。私が電話をかけると、まだ、用事がおわっていないのに「娘の食事を作らないといけないから、もう切るよ」という。いかにも小ばかにした扱いだった。でも、まあ、それでもいろいろニューヨークのことなどを話した。そうしたら、渡米早々は、石塚雅彦さんが、自宅に泊めてくれたそうだ。えっと、驚く、石塚さんは、日経新聞の特派員だったから、それなりに広い家に、住んでいたと思われるが、まだ、新婚早々だった筈で、そこに、招かれるにしては、アート部の後輩というだけの、キズナは、あまりにも弱い。で、その時から、すでに、CIAは、彼女を、対私へのライバルとして、優遇することを決めていたのだと、思う。
その、石塚夫妻からの、親切な、おもてなしの、件を聞いたのは、ずっと後だった。1965年ではなくて、2012年ごろだったろうか?
だが、石塚さんが、対私いじめ・用のアイデアを提供しているCIAエージェントのひとり、であることには、すでに気が付いていたので、『なんだそうだったのか? だから、あんずちゃんは、石塚さんから、私と、付き合うなと言われているんだと、考えて、彼女の無礼を、納得をした。
しかし、あんずちゃんは、無礼だろうが何だろうが、とても、重要なのだ。今回の年賀欠礼の表向きの主人公R子さんの長男が、自殺未遂を起こしたんだと、1995年に、教えてくれた人間だから、まだ、まだ、このブログの世界では、重要人物である。
今回の年賀欠礼が、引っ掛けであると言う事は、私が、「とうとう、ご長男が亡くなった。1995年以来、何年目だろう。計算してみると、18年目だ」という風に、考えることが目的だからだ。笠松敦子さんのあいまいな説明で、私が勘違いをして、ご長男が、死んだという事実があるのだと、かんがえ、それを、それ見た事かと、飛びついてR子さん、批判を開示して、行く、そうしたら、(それが、小保方さんのスタップ細胞疑惑と同じく)、「嘘でした」となって、このブログが炎上して、その結果、唯一の防衛手段である、このブログを失い、したがって、その後、何らかの方法で、ひそかに、殺されて、しかも、私が自殺をしたことにして、外部に発表をされることを、想定した。
したがって、ご長男は、無事に生きていて、ちゃんとやっている。特に沖縄に行ったと、言うところまで、聞いているので、そちらで、仕事を見つけて、働いているし、結婚もしたかもしれないし、子供も生まれたのかもしれない。
だけど、それは、それとして、R子さん批判は開始したい。ただし、今、午前二時になったので、本日はそれを、やらないで、眠りたい。
ところで、中学の同期生、飯田君は、まだ、現役のサラリーマンだったが、一周間に二階か、三回、三千時ぐらいのエッセーを送っていた。かれは、プロだから、まだ、朝日新聞社の仕事があるが、十分に読みこなしてくれるだろうと判断をした。飯田君が、昔、成岡庸司は死んでいると思いますよと、言っていたので、私の文章が、飯田君からCIAに回されているとは、まるで、気が付かなかった。滑稽だったね。それだけはね。で、井上ひさしは、私の文章を1998年から、読んでいると考える。