今は、23-9-14の午前9時です。以下の章の更なる推敲を始めます。12日に初稿を書き始めたのですが、13日にも大量に加筆をしています。それは、今まで、薄い紫で書き表していました。が、14日からは、黒い太字に変更します。そして、14日に書き加えた部分だけ、薄い紫を使います。ただし、政治的に特に重要な部分は、反転の薄い紫を使います。
なお、前報、特に焚火の問題(=廃棄物処理法案の改悪?)の続きは、将来、いつか書きます。
ところで今日の総タイトルトップに来ている、練馬区の三原台中学校の校長ですが、この校長は性欲と金銭欲の二つを同時にマスターして居たらしいです。そのエネルギーの高さに驚きますが、逮捕時の動画を見ると、やせた貧弱な男です。不思議です。ただ、彼については、あまり知りません。で、この章は、先生というものの中に、とんでもない人が居ると、言う事を、スケルトンにして、あれこれ、いろいろなことを語ります。
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副題1、『ここでは、最初の12日には、総タイトルに入れていたショマショマという中国語を解説しています。それは、また、別の日に回します』
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副題2、『私は先生像として、生涯で、四人ほど、嫌な先生に出会った。子供の担任で二人、自分の担任で、二人。で、計四人。娘が幼稚園の時に担任だった、女性教師には、とことん、苦しめられた。そこから、浜銀(=コンコルディア銀行)の現況、特に利益の減退に入っていきたい』
娘が四歳と五歳の時に担任だった10歳ぐらい年上の女の、先生には、本当に苦しめられました。先生は、同じ台地の、徒歩三分ぐらいのところに住んでいるので、私の家を休日に、ひそかに見に来たのではないかしら。クラスで、受け持っているほかの子供の家(四軒ぐらい)も、見に来ていたと、推察します。私も数年後、先生の家を見に行きました。敷地は20坪ぐらい我が家の方が、広かったです。それも、先生の嫉妬の原因の一つでしょう。
私は、自分をこのブログでは、「ぶす、です」と書いて居ます。が、40代のころ、公募団体展で、知り合った女流画家たち(特に山寺重子さんを筆頭に)にさんざん虐められるので、画家の先輩で、賢くかつ親切な女性に「なぜ、こんなに、いじめられるのでしょうか?」と質問をすると、「あなたって見るからに育ちがいいと、わかるからよ。それは、大人になってからでは、獲得できないものですからね。それで、みんな悔しいのよ」と、答えてもらいました。
それとね。思春期に母が日本橋の高島屋と三越で、シーズンで、一番好きな洋服を買ってくれていました。その時代のおしゃれ感覚を維持したくて、洋裁を習い、自分のサイズ(背が高くて、やせている。既製服がまるで合わなかった)にぴったりのスーツとかスカートを自分で手作りして、着ていました。
今は、ミシンが三台も敵さんから壊されているので、それが出来ませんが、もし、あの当時と同じレベルの洋服を着て歩いたら、今の鎌倉でも、鎌倉在住だったらしき緒方貞子さんにも負けなかったでしょう。
緒方さんから、グリーン車ではない普通の車両内で、じっと見つめられたことがあります。緒方さんは、北側フラムと同じく、40年以上前から、私の顔を知っていたと考えられます。そして私を威圧するために、その日だけは、グリーン車ではなく、普通車両に乗っていたと、考えられます。意地悪な目つきではなかったので、寺島しのぶの、眼が吊りあがった意地悪ぶりと比較すると、さすが、緒方貞子さんだと、思っていますよ。広い世界を知っている方だから、誰かから、何を命令されても、川崎千恵子(雨宮舜)の、本性を自分が見抜きましょうと、言う、そういう目でした。
一方、寺島しのぶは、緒方貞子さんと比較をすると数段下です。単純すぎる頭脳と人格の持ち主です。国立劇場の改築は、あそこを舞台にして、何度もいじめられたのですが、寺島しのぶからのいじめをこのブログで、書いて居ることが一番大きい原因でしょう。
今から、10年ぐらい前、歌舞伎座で豆まきがあったのです。その日に、二歳か、三才だった幼いころの寺島まほろが、紋付き袴姿で、出てきたのです。丑之助、亀三郎も同じ姿で。私は、女性客に「あの三人の、お子さんは誰ですか?」と、聞くと、その人が、「右端は、寺島しのぶの子供のマホロちゃんです」と教えてくれたので、「そういう情報はどこで、わかるのですか」を聞くと「インターネットでわかるのです」と答えます。その後、寺島しのぶのブログを開くと、お子さんをMと、呼び、あれこれ、母親らしい気遣いのあふれた文章を書いて居るのを、見つけました。で、それを、開いて読んでいると言う事は、私のPCは24時間ハッキングを受けているので、当然、敵さん方が知ることとなるのです。で、伊藤玄二郎から、寺島しのぶに、「雨宮舜(本名 川崎千恵子)をいじめなさい」と言う命令が下るわけです。
その日、私は、10分ぐらい遅く劇場についたので、ロビーには他のお客さんは誰もおらず、しかも、普通は梨園の妻たちは、壁際の長テーブルのそばに立っている筈ですが、その日だけは、寺島しのぶと、富士純子が、ロビーの真ん中、エスカレーター前で、立っているのですから、当然に話しかけます。通り道をふさぐ様に立っているのですから。
「Mについての、あなたの、文章っていですね」と言おうと思ってロビーで、彼女に近づいた時に、彼女からは、にらみつけられるだけで、何の応答もなかったのです。それをこのブログで書いて居るから、国立劇場は、改築をされるのです。何も傷んでいないし、役者たちに、その舞台機構も、とてもいいと言って、好評な劇場なのに、私のブログに現れた、場所、事物、人物は、消し去っていくという攻撃手法が、井上ひさし(いまだ、実際には生きていますよ)達、CIAエージェント達がとっているのです。それはCIAの典型的手法でしょう。それほど、私をいじめたいと、伊藤玄二郎たち、CIAエージェントは考えて居るのです。
緒方貞子さんについて、まあ、立派な人だなあ。寺島しのぶと、比較すると、数段上だと、認識した時期から、昔へ蘇ります。その時期から、四十年前に戻ります。現在から数えれば、50年前の娘が四歳ぐらいの時に戻ります。
で、幼稚園時代のママ友稲田恭子さん(のちに、杉本正子さんに、教唆されて、裏切って来る人)からも、「あなたが、いつもスカートをはいているのには、感心するわ」と、言われていました。彼女は手仕事が好きな人間で、それが、私の尊敬と興味を喚起し、北久里浜時代、もっとも、長時間話し合った女性です。
しかし、それが、敵さん達が、稲田恭子さんを使おうと、判断した由縁であり、その結果、この15年間、激しい頻度で裏切ってきている女性が恭子さんです。
陰に、杉本正子さんが居るのは、ビンビンと、わかっています。そこが政治ですよ。杉本正子さんの夫は俊一という日大卒の男性で瀬島龍三たちに、協力して、横須賀市の水道山を只で(実質的には詐欺である===地積変更届を利用して)譲り渡した、横須賀市吏員(事件当時、家を只で供給されていた、土木課長)であった男です。その後、この時の瀬島たちへの協力の見返りとして、副市長に成って行き、名誉と富を独り占めした人物です。・・・・但し正子夫人が仲良しだと、思っている大沼嘉津江さんの、実兄、島田章三氏へも、大金を市税から流入させて行く。
尚、助役という、役名が、副市長と言葉替えをされたのも、この一件から、始まった事でしょう。
彼女は、その後、50年にわたって、他の主婦たち(例えば、北村充子さん=後註1にリンク先を置く)などを、教唆命令して私を苦しめてくる悪女中の悪女です。安野夫人より、実の子、二人を育てていますので、エネルギーレベルが高いですが、やることが、とても似ています。
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副題3、『ここで、私と稲田恭子さんとの、仲の実態を書いて置きたい・・・・・友人を裏切らせる方向へ、CIAが教唆指導をしていき、それに従う女性として、典型的な、一人だった』
当時の私は、主婦としては、細身すぎて、売っている既製服だとだぶだぶになるのに、そういうみっともない既製服を着ないで、いつも、身体のサイズと、ぴったりと合う洋服を着ていたのです。それには、稲田恭子さんは、感心してくれていたのです。「あなたがいつもスカートをはいているのには、感心をするわ」と。当時の私にとって、そんなことで、感心してもらうのは、意味が分からなかったです。だがね。あれから、40年が経って見ると、自分の体にぴったりと合ったサイズの、ウールのスカートをはいている人は、逗子駅で、降りる、現役の富裕層夫人だけだったのです。例えば、私の甥は、多摩美の教授なのですよ」という様な、如何にもインテリで、かつ、美しい老女が、しゃんとした、スカート姿なのでした。私の方は、30代にして、いつもしゃんとしたスカート姿だったわけです。
ここから先、2万字ぐらい12日と13日に書いたもの、が消えているので、再び、努力をして入力していきましょう。どうして、消えたかというと、杉本正子夫人にとって、稲田恭子さんのあれこれを書かれることは、つらいことだからでしょう。ちょっと、調べ物をしている間に、文章が消えています。二万字ぐらい、恐ろしい連中です。が、再現をさせていきましょう。だけど、まあ、杉本夫妻が、すでに、CIAエージェントだと仮定をすると、鎌倉のCIAエージェントたちが、彼女の代わりに削除をした可能性もあります。
ここから蛇足1へ、飛びます。どうして、続きなのに、ここで、披露をしないかというと、私の顔写真等を使うので、美人(?)であることを自慢していると誤解をされると、困りますので(苦笑)いやあ、化粧をすると美人らしいですよ。あ、は、は。結婚式の時に東大助教授様が、「本当は美人だったんだね」と、驚いてくださいました。
上のエピソードは40年ぐらい前のものです。で、さらにさかのぼり、50年前に戻ります。娘が四歳の時に、娘をいじめて来た幼稚園の先生の話に戻ります。
夫が家出をしているとのこと、そういう自分と比べると、10歳年下の私が、ひどくひどく、幸せそうに見えたのでしょう。この幼稚園の先生が、私への嫉妬のあまり、娘をいじめてきたのが、女性は、如何に競争心が強いのか?と、言う現実を認識した、最初期の経験です。30代であり、まだ、上野の公募団体展(女流展と、国展)には、参加していなかったころです。
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副題2,幼稚園の先生が、娘に対して、どんないじめを行ったか、それを実際に語らないといけない。二つ、はっきりと覚えている。人間が、時によって、どれほど、落ちるか、という一つの見本になるし、今、現在、または、過去に、他人から、ひどい事をされている人への救いにもなると思うので、ぜひ、語って置きたい。詳細にだ』
ここから先ですが、12日には、一言も書いて居なかったので、シンプルな黒の活字で書きます。初出ですが、普通の色のフォントで、書かせてくださいませ。
A, ・・・・・お弁当を食べさせてやらないぞ・・・・・という事件、娘は、四歳なのに、午後三時まで、絶食をしないといけなかった。母親としては、本当につらい日だった。
皆様も、電車の中で出会ったことがあるでしょうか? 非常に分厚いレンズの眼鏡をかけている、幼児です。遠視の度数が強い子で、近場の物を見る時に、焦点が合いにくいので、矯正します。1974年から、当時は、浦舟町にあった、横浜市大病院へ、矯正のために通って居ました。週一度、午後3時が、予約時間だったと思います。幼稚園は、横須賀市、池田三丁目にあります。今は住宅街として開発をされており、大マンションが建って居たりする地域ですが、1970年代は、辺鄙な、田舎でした。そこには、電車も通ってい無し、バスも通っていません。その幼稚園に子供を通わせるのは、通園バスで、お迎えが来るので、親としては、楽です。が、途中で、早退をしようとすると、お迎えに行かないといけません。当時の富裕層は、車を持つのが普通で、我が家にもあったかもしれません。赤い車は妹からもらったもので、白い車は、自分たちで買ったのだったっけ。10年間で、二台保有しています。
ただ、私自身は、免許を持って居ません。母から、あんたは、事故を起こすはずだから、絶対に、免許を取ってはだめと、言われています。いつもものを考えて居るからです。だから、歩いて、娘を迎えに行かなくてはなりません。四歳の娘の歩幅は、小さいです。北久里浜の駅から、ほぼ、一キロの地に幼稚園はあり、子供の足では、歩いて、三十分かかります。でね、京浜急行と、横浜市営地下鉄の両方を使い、降りてから歩く時間を考えて、市大病院まで、二時間半を取っていて、幼稚園には、12時半に迎えに行く事にしていました。12時から、お昼時間となり、十分に、お弁当を食べ終わっているから、それで、いいのです。
ところが、担任の先生は、私の娘が在籍しているそのクラスだけ、お昼を、遅くして、12時半からお弁当タイムとしたのです。教室に入ると、みんながしーんとして、お弁当を食べており、外には、430人近くの子供たちが、お昼休みで、大騒ぎです。遊んでいます。立ち騒いでいます。すぐ先生の悪意を感じました。「お母さんが迎えに来るのが、12時半で、もうすぐだから、あなただけは、お弁当を開いてはだめよ」と言われていたのでしょう。しかも、自席で母親を待っているのではなくて、クラスの子が、みんなが見る、真正面に立たされていました。まるで、罰を受けているみたいに。そのころは、北久里浜駅周辺に、子供連れで入れる様なレストランは無くて、浦舟町の方にもありませんでした。しかも、時間が迫っているので、そういうところに寄ってはいられないのです。ちっちゃな体で、矯正の時間を入れて、5時間ぐらい何も食べさせられ無かったのは、本当にかわいそうだと、思いました。
もう一つあります。すごく恐ろしいことが。それはです。上履き袋の名札を、先生が、わざと、取ってしまったうえで、娘を叱ると言う案件です。当時は、白いズック(スニーカーの単純なもの)を土曜日持って帰って、その日のうちに洗って、日曜日に完璧に乾かして、月曜日に、ビニールの上履き袋へ、いれて、持たせて、一周間幼稚園で、それを使って過ごすというシステムでした。月曜日に帰って来た娘が、「お母さん、・・名札が入っていなかった・・と先生に叱られた」と、言います。変だなあと思いましたが、次の週には、きちんと入れました。しかし、「また、同じことで叱られた」と言います。でね。その先生の、非常にいやらしい目つきを、思い出すと、絶対に先生がとってしまっているのだと、確信をして、両面接着テープで張り付けたのです。1cm×4cmぐらいの小さな紙片を、紺色のビニールの上履き袋に直接貼り付けたのです。先生がたとえとっても、透明な両面接テープは、残っているでしょう。もし、それもはぎとられて居たら、先生が、悪をなしているのが確実です。すると、三週目だったか、四週目だったか、月曜日に、何も注意を受けなかったらしい形で、帰ってきました。
これが、小学校とか、中学校で行われていたら、生徒達は、先生の悪意を敏感に察して、ターゲットを集団で、いじめる様になります。茨城県で、お父さんは、たぶん筑波学園都市で働いている理系のエリート、お母さんは、音大卒の(または、聖心とか、東女等の、女性にとっては、あこがれの大学を卒業した)美女、そして、お嬢さん本人も、ものすごくかわいい・・・・・美しい赤のドレスを着て、ピアノの発表会へ出ている動画がNHKニュースに出て来た・・・・・の両親が茨城県を通り越して、文部科学省に、いじめ問題で、調査をしてほしいと、お願いを出したと、言うニュースが報道をされました。私が、「先生が、母親に嫉妬していて、その余波で、お嬢さんが担任にいじめらえていたのだ」という一文を書いた後、続報がNHKでは出なくなりました。しか・・・・・いじめによる自殺、中学生、茨城県・・・・・と入れて、ググると、出てきました。担任の先生の名前も、顔写真も出てきました。しかも、数多い文章が出ていて、担任が、悪かったと言う事が判ります。しかもその担任は調査委員会には、出てこないそうです。かわいそうにと思いますが人生で、なんどか、ひどい教師に出会うものだと思います。なんとか見つけて、被害者は、中島菜穂子さん、担任は、佃香織と言う事が判りました。ただ、私がブログで書いた赤いドレスの写真は出てきませんでした。
鎌倉および日本全体で、御大として大きな顔をしている=日本ペンクラブ会長だった、井上ひさしが、私の文章力に嫉妬していますので、ちょっと、いい論考を書くと、NHKから、ニュースそのものが消えてしまいます。
ともかく、子供の自殺のニュースを聞くたびに、「娘の方が二年間担任をされてしまった、秋〇女史と、息子の方が、二年間担任をされてしまったW女史に、私が出会ったのが、子供が、両方とも小さい時でよかったなあ」と、思うのです。
ここで、午前一時半ですが、息子の方のケースを思い出してしまって、困っています。息子のケースは蛇足2というところで、できるだけ短く書きましょう。そして、別の機会に膨らませます。
@@@@@@@ここが書きかけ中の最先端です。
幸いに、娘は、あまり反応を示さず、鈍感なのかな?と思ったり、上の子と、19か月の差で、生まれたので、何時までも、私が彼女をおんぶしていて、その豊富なスキンシップで、おおらかなのか?と、思ったりしました。
しかし、或る時、娘が「お母さんは、切れたら怖い」と言ったのです。でね。自分を弁護するわけではないが、娘を、大きく、叱った覚えはないのです。でね。なぜ、そういうことを言うのか?と、一生懸命考えてみました。すると、「あれだな」と思い当たる節があったのです。それは、娘が三歳の時の遊び友達・・上滝家の、お嬢さん・・のケースです。
ここで、上滝家という実名を出したので、ドキッとなさった貴方。大丈夫です。この子は、今では、54歳です。で、結婚をしている筈なので、上滝某と、言う54歳の女性は、現在地球上には、存在していない筈だからです。私もバカじゃあないです。
(蛇足1)
今、当時の写真を探していたのですが、無いので、結婚式の写真を置きます。フォトショップがあれば、自分だけを切り抜けるのですが、ブログにあげた写真は、編集できない模様なので、大きいサイズのママで恐れ入ります。
これは、既製品ではなくて、私自身のデザインで、洋裁師さんが、縫ってくれたものです。ただし、化繊の生地で作ったので、ラインが固いです。1960年、幅が広い、白い絹地は、売っていなかったのです。ちりめんの反物は、手に入りました。だが、それを、洋裁師さんに預けると、彼女の仕事が増えちゃって、断られそうなので、化繊にしました。今は、化繊でも、ちりめん風の柔らかい生地を生産できる模様ですが、1960年代のポリエステル生地って、硬かったのです。
ただし、彼女=稲田恭子さん=は、この種の件で、嫉妬してきたことはありません。実家が富裕だし、夫が高給取りだからです。すごくかわいらしいエピソードがあります。私が母からもらった、二重になっている編み物のコートを手洗いしたら縮んじゃったのです。今買えば、4,50万円のもので、絶対にドライクリーニングをしないといけないものだったのですが、当時、サラリーマンの妻になった私は、手洗い主義を貫いていたからでした。それを彼女に話すと、「あら、それなら頂戴」と言われたので上げた記憶があります。彼女は私より体が小さいのです。40年は前の話なので、すでに、彼女は捨てていると思いますよ。色も赤(表)と白(裏)だったから。でもね。そういう事が平気で出来るのは、彼女の育ちが良くて、私も金銭的な意味で、言えば富裕層だったからです。今だと、私の方は、「上げない」というでしょう(苦笑)で、スカートか何かへとリフォームすると思います。倹約する人となったからです。
そんな風にとても仲が良かったのに、CIAエージェントたちは、自分たちの悪を隠ぺいするために稲田恭子さんを、敵陣営内の人へと変えていったのです。しかし、彼女と、私は、今は遠く離れて住んでいます。彼女は、昔からの住所を変えていないので、徒歩三分のところに、杉本正子さんが住んでいます。それで、こうなるのは、まあ、仕方がないと、思っています。