銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

瀬木慎一氏が、私に対して訴訟を起こすのですって。馬鹿げた事だが、そこから笹井芳樹氏他殺説が生まれる△

2015-05-27 09:59:13 | 政治

 この一文は、まだ、リンク先が付記されていません。が文章だけは完成し、誤変換も点検しましたので、総タイトル横に完成したしるしの、△をつけておきます。既に、5月31日に入って15秒たっていますが。

副題1、『瀬木慎一さんから送られてきた脅迫状の、全文、および封筒を、J-peg化したもの』

 

  一通だけではなくて、何通も送られてきたと思います。法的な争いに、実際に、移行したら大変なので、こういう風にすぐさまJ-peg化しております。ただし、スキャンはしておりません。スキャンをすると、それは、ITデータ化するということになるので、検索等に、容易に引っかかってしまい、敵方が、さらに防衛やら、攻撃の策を練るからです。

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副題2、『NHKBSプレミアムが、15-5-28日に、新春狸御殿と言う1959年制作の古い映画を放映したので、私のブログ内容が変わってしまった』

 この文章は、すでに、曝していたものへ、部分的に加筆をして整理しなおしたものとなります。それは、28日の朝刊、および午後のBSプレミアムの映画放送を偶然見てしまったので、雪ノ下の問題へ入ることとなり、一つの章の中に、多くのテーマが混在する様になり、皆様にもお読みになりにくい文章となるでしょう。で、整理して、内在していたテーマを分離することといたしました。

 今回は、瀬木慎一さんから、2010年の4月に、突然に、手紙で脅迫をされたという話を中心に、文章を構成いたします。脅迫の内容は、『あんたを訴訟にかける』と言う話でした。が、私は無論の事、訴訟など実際には、起こされては、おりません。

 訴訟ですって、チャンチャラおかしい話ですが、これは無論の事、例の鎌倉エージェントたちが、考え出した、嘘の現象に基づいて起きていることです。そして前田祝一氏が、何度も同じことで、私への脅迫を仕掛けてきている現象です。また、それに私のお隣の小野寺夫人を巻き込んでいますので、今回それを、再び書かれると困ると、思った前田氏が、大原光孝さんをパシリとして使って、それを、再録させまいとした現象が、五月から始まっており、私が激怒をしているという話が、最近続いているのです。訴訟などとは、徹底的にな脅かしの一種であって、私の方には一切その種の瑕疵、もしくは、種はありません。反対に土地を巡っては前田さんの方にあるぐらいです。

 どうして『小野寺夫人を巻き込んだ現象を再び書かれると、困る』と、前田祝一が、思ったかですが、それは、小野寺夫人の弱点を私が握ったことを、彼が知ったことにあります。彼は、非常に思考能力の浅い人物で、その罠は、成功すると思っていたらしいのですが、私は彼らより数段上の思考をするので、罠には引っかかりません。その上、それほどの、悪事を行う連中を、叱責するためにか、天が、私のお味方をしてくださって、小野寺夫人の夫たる人物・白井さんの、勤務先、役職名、そして、建築家なので、作品名が、偶然わかる機会があったのです。

 それをうまく使えば、小野寺夫人の、生殺与奪の件を握ったも同然となります。まだ、実際には、ブログの世界では、それを、『神様が存在する』という文脈でしか、使っておりません。だから、におわす程度にしておりますが、本当に怒ったら、いろいろと、さらに、しっかりした文章を書くでしょう。おバカさんな、前田祝一・清子夫妻に、『自分たちの方が、川崎千恵子より、はるかにバカだったのだ』と自覚をさせるのに最適な、データですから。

 ただ、どうして、瀬木さんが、こういう悪事のパシリとして使われたかは考えてみないといけません。瀬木さんと私の間には、その手紙の前には、何らの利害関係はないのですから。

 その目的で、瀬木さんの、wikipedia を、2015年5月28日に開いてみたところ、テレビ東京の『なんでも鑑定団』に出ていたとあります。それは、私の方は、すっかり忘れていました。ただし、そういえば、20年前ぐらいにその番組内で、氏を見たことはあります。鎌倉エージェントは、テレビを利用しまくります。で、『テレビに出てくる人は偉いのだ』という発想を持っております。だから、『瀬木慎一は、川崎千恵子よりは偉い』と、彼らは考えております。そして、その偉い人が、川崎千恵子が、個展の最中で、疲労困憊している時に、訴訟をし掛ければ、多大な効果があがる』と考えたのでしょう。それで、瀬木さんが、こう言う手紙を送れば、彼女は大ダメージを受けて、ノイローゼになるはずだとも、考えた結果、この様な、手紙が発送されたと、見ています。

 それは、当時は、まだ、公的にも生きていた、井上ひさしあたりが、考え出した、謀略であって、それを、伊藤玄二郎が、中央大学法学部政治学科と言う同窓の、瀬木さんに伝えたのでしょう。

 これは、2010年4月の事なので、5年も前の現象です。ただし、なぜ、今書くかと言うと、この五月の18日に、前川佳子さんが、また、25日に、本多栄子さんが、おかしな態度を取ったからです。二人は言わゆる純粋・芸術家(美術系創作家)ですが、そういう人までも、悪の政治・・・・・(=特権を振りかざして、自分たちが行っている悪事を隠そう、隠そうとする連中が、日常的に行っていることとを指す)・・・・・に巻き込まれていると見えたので、この瀬木さんの脅迫と言う古い現象を思い出して語り始めております。~~~~~~~~~~~~~

副題3、『北久里浜に、あらわれた、声だけ聞かせて、姿を現さない奇妙な歌姫の存在も、この一文を書かせるのに役立っている』

 また、一方では、北久里浜に、あっちこっち違う家で、歌を歌うという異常な動きをする歌姫が、この5月11日にあらわれた現象からも、この一文が生起してきています。下に地図を置きます。真ん中より上(北側)にある一区画が、黄色く塗りつぶしてありますが、そこが我が家(旧宅)です。その南側には、右(=東)から、タカハシ、山本、菅原・笠井、無記名、石川、辻と、六軒の家があります。

 

 

 主人が最初に、歌声を聴いたのは、この地図上は無記名になっている地番41番の家からだったそうです。ピアノ伴奏つきで。ところが、この2015年5月11日に、私に聞こえてきたのは、南西にある石川さんの家からでした。そこは、老人(男性)の一人暮らしの家ですから、むろんのこと、奇妙きわまりなことです。ただ、私は、その日は探偵能力が利かず、その女性がどこかから乗って来て、石川さんの前においていた白い車のナンバーを控メモるとか、そのナンバープレートの写真を、スマホで撮ることは、忘れていました。・・・・・と言うのも音楽大好き人間だから、歌姫の唄を聞くことに心を奪われ、また、自分が歌う事にも専念をしていたからです。

 ここが、また、神の関与する領域であって、たぶんですが、その歌姫は、私の歌声に圧倒をされたらしくて、フィガロの結婚の中の、お小姓が歌うアリア(普段はメゾソプラノ、または、ソプラノが歌う)を、三回ほど、繰り返した後では、何も発声をしなくなりました。

 ところが私の方は、歌うことへの導火線に、火をつけられてしまったので、それ以降、30分ぐらい、庭で歌うこととなったのです。すばらしい天気で、しかもこの場所は丘の上です。西は富士山、東は房総半島まで見渡せる(上の地図内で、紫色の手書きの線で描いたルネ北久里浜と言うマンション群からは、100%それが可能であろう)場所です。しかも、庭に出て園芸の仕事をしている最中に、歌姫が歌いだしたのですから、私は庭に出たまま、歌っています。普通だと、こういう場所で出た声は響かないものですが、どうしてか、生涯で、最高の声量で声が出て、しかも、美しいこと限りがない歌い方で歌えました。それは、関ジャニ8の『なんでも仕わけ』と言う番組で、準優勝したクラシック大好き少女の歌い方を見ているうちに突然に発声のコツがつかめたからです。

 ところで、私は今、72ですが、30年前の40代で、クラシック専門のレッスンを受けました。先生は、「あなたの声は、質が大変良いです。まあるくて、明るくて」とほめてくださいました。が、その頃は、ガッチガッチの硬い発声方法であって、しかもリズム感が悪くて、今ほどの自由さはありませんでした。

 北久里浜に現れた不思議な歌姫と言う現象も、むろん政治的なもので、しかも、私に被害を与えている根源的な地域での、話となります。銀座より、そちらの方が、事、CIAに関しては、古い、悪の発生源となりますので。

 ここでいう古い悪とは、土地をめぐる実質上の詐欺のことで、1979年に、最初のものが発生をしております。私がまだ、北久里浜に住んでいた時期に発生をしております。そこから、銀座での諸悪も発生しているのです。

 特に上の地図で、その無記名の家の真南に、仲野と言う家があります。そこの主人はおとなしそうな老人ですが、どうして、どうして、CIAが関与している悪事の最大の当事者です。この地図全体の特に手書きで紫色の線を引いた、ルネ北久里浜の建っている土地は、彼の義兄、益山重夫氏と、瀬島龍三が、実質的にはただで、手に入れた、旧、横須賀市の水道山なのですから。そして、その時にその悪事を押しとどめなくてはいけない杉本氏(当時は横須賀市の土木課長だった)の看過の罪はあるのですよ。~~~~~~~~~~~~

副題4、『27日 NHKのNews Watch ないで、FIFAの、幹部9人が逮捕される。総額、185億円の賄賂か?・・・・と、報道をされる』

 上の節の最後に引き続いて、文章を書くとすると、杉本横須賀市・副市長(土木課長から始まって、とんとん拍子に出世していった)は、実質的には、わいろをもらったと言えるでしょう。いつと言えば、1970年代にです。この章では、杉本家がどれほどの、金銭的また、社会的地位上のメリットを得たかについて、その詳細は語りません。が、それをにおわせただけで、パリで、FIFAの理事たちが逮捕されたというニュースが出ました。こういうことで、私は自分がどれほど、大物であるかと、判断をしています。ただ、FIFA(サッカー界)は、徹底的に鎌倉エージェントに悪利用されています。日本での大会が急に韓国共催となり、最も出席者の多い開会式を韓国にもっていかれています。そのうえ、アギーレ監督のスペインにおける、八百長問題が起こされています。そちらは、続報が一切出ていませんね。大越キャスターのNHKニュースウォッチ内での、発表では、二年間の調査が必要だと言っていましたが、それは、嘘を雲散霧消させるのに適切な時間だと、みなされていたのでしょう。本当にあくどいです。

  ところで、その歌姫を使った罠は、相当にあくどいものへと、発展をさせる可能性はあったと思います。ところで、ここでも、天のお助けがあって、私が、事実上、自分の声で、その歌姫を打ち負かしてしまったのでした。で、罠は、「お前は、自分の声を誇っているみたいだが、本格的な、歌い手と比較したら、まったくだめなんだよ」と言いたい連中が、企画をしたことでしょう。または、そのレベルで終わったのです。

 しかし、ここで、片づけておかないと、また、幻聴を利用した暗殺(後注3)へ発展をしたかもしれません。私の歌声のあまりの見事さが、その【お小姓ケルビーノのアリア】をうたった女性に、しかと伝わったからこそ、この歌姫を使った罠と言う攻撃は収まりました。いえ、再び現れれば、動画を撮影するなどの色々な手法が取れて、かえって、証拠が固まりますので、ありがたいぐらいです。~~~~~~~~~~~~~

副題5、『ここで、赤津侃氏について書いた、私の過去の文章が再登場する』

 その企画は、私が、以前書いた、赤津侃氏に関する文章に、源泉があると推察しています。そのリンク先などを探している暇がないので、概略をまとめますと、赤津侃氏は、私に、20年前から近づいてきていて、お褒めの手紙を数通くれていた美術評論家でした。氏は、早稲田大学出身で、朝日新聞記者となり、奥さんに音大出身の女性を迎えて、順風満帆の人生を送っていたみたいです。が、ご本人の話によると、「うつ病にかかってしまい、朝日新聞社を早期退社した」そうです。

 で、そのあとで、復活して、独立した美術評論家として、生きていた時代に、私に数通の手紙をくれていたのでした。美術評論家にもいろいろな派閥もあり、すみわけもあるのです。で、赤津さんは、銀座の画廊、および、上野の公募団体展で、カモを探していて、そういう狙った人物たちから、美術評論家としての収入を得ていた時代でした。私はカモの一人として、赤津さんの目に留まったのです。それは、1994年の、銀座一丁目のギャラリーセンターポイントでの私の(銀座での、二回目の)個展、および、上野での、1990年から始まった女流展への出品、および、1991年から始まった国展への出品で、ある程度以上の作家だと、認め始めてくれたのだと思います。

 ただ、ギャラリーセンターポイントの経営者、新田さんに、「この人はどういう人でしょう?」と質問をすると、「大したことない。たいしたことない。気にしないでいい」と言われました。ので、1990年代の赤津さんは、まだ、信用を回復していなかった模様です。赤津さんの評価が低かったのは、簡単に人の悪口を言ってしまう軽さがあったからだと後で、分かります。

 ただ、寄らば大樹の陰の大樹である朝日新聞をやめたということは、そのあとで、いろいろ、ご苦労もなさって、考えも変わった部分もあったでしょう。その当時に、メジロのお金持ちが経営する【新樹】と言う画廊があり、そこに取り入っていて、そこでの、企画展を催す権利を持っていました。画家を紹介するという権利です。そういう形で、画廊から、および画家から、謝礼を得て、それをご自分の収入としている時代でした。

 私が、1998年の9月から11月末まで、文化庁の在外研修生の資格を持ってパリにいて、帰国したのちに、いろいろな人にパリでの成果を見せたのですが、赤津さんからは、お褒めの手紙を何通ももらっているわけですから、むろんの事、見せました。場所としては、赤津さんの指定した場所で、それが、新樹(目白)でした。で、見せた途端に、「あんた、この画廊で、企画展をしなさい。9月の第一週でね。僕が推薦文を書いてあげる。それは、一文字100円で、500字だから、五万円です。それから、企画展だけれど、画廊に、お礼を15万円払いなさい」と言われました。新樹からは、それ以前に、毎週の様に、案内状をもらっており、『なるほど、ああいう風になるのですね』と思いました。今、似た様な形式で、ギャルリー・志門で、個展が開かれています。まあ、20年前の新樹時代よりは、はるかに、洗練をされてきています。改良がなされています。推薦文のフォントも小さくなり余白が大きくなり、ぐっと、品が良くなりました。

 ところで、その話を受けた時に、私は内心では『困ったなあ』と思っておりました。パリで、三か月の期限ののちに、そのまま、そこにとどまっていたいと思うほど、自分は、外国に住む方があっていました。で、もう一度、または、もっと多数回、海外で、修業をしたいと思っておりました。で、それに反対する家族からの束縛を逃れるために、以前から持っていた逗子のアトリエに、昼間通うだけではなくて、夜もそこで寝るという、一人暮らしを始めていました。そして、ありとあらゆる意味での、海外修行へ向けての、準備をしていました。特にニューヨークでの情報を集めている時期でした。パリもある程度の蓄積はできたが、言葉が自由であることと、現代アートの世界なら、ニューヨークを抜かしては、ものを語れないだろうという気持ちもあったからです。

 その望みが、赤津さんの突然の思い付きで、曲げられるのですね。向こうから、こういう意思を持っているけれど、時期はどういう時期がいいですか?』などと、丁寧な扱いを受ければ、困ることはないのですが、どうも、美術評論家って、作家に対して威張るのですね。だから、こちらの『困ったなあ』と言う思いは、伝えられないのです。ただ、内心では、ニューヨークへ行きたい。それは、必ず秋に三か月と決めようと、パリ時代にすでに思っていましたから、それが、変更になることは、残念でたまりませんでした。しかし、はっきりと断ることができないわけです。同じことが繰り返されたのが、exibit Live and Moris の森さんが、企画展を申し出でてくれた2010年の、2月ですが、そこでも、断れないわけです。今度は相手が、美術評論家ではなく、画廊主でも、やはり、企画展と言われると、断れないわけです。で、森さんの提案のさらにさかのぼる事、0年も前ですから、直感では、引き受けたくはないと思いながら、赤津さんに逆らうことができませんでした。正しい意味での、自己主張ができない時期だったのです。

 かつ、会話能力も少なかった時代です。いわゆる【ぶっちゃけた話しかた】と言うのものは、まだ、獲得ができていなかった時期です。で、自分の気持ちをまげて、待っているわけですが、驚いたことに、待っても待っても、その肝心の推薦文の原稿が届きません。それがないと案内状のデザインもできないし、困り果てました。

 それが、私の生涯で、三回目の個展だったので、まだ、図々しさなどみじんもなくて、個展が、多大な負担でもあり、かつ、期待も大きい時代でしたから、準備に時間を掛けたいのに、案内状を印刷するのに、大切な500文字の推薦文が送られてこないのです。その時点で、赤津さん自身から、すでに、「僕はうつ病にかかってね」と聞いていました。で、むろん、同情的にも、考え、『きっと構えすぎているのよ。それは、私を高評価してくださっているという事だから、ありがたいはありがたいけれど、こんなに、来るのが遅くては、こちらは困り果てます。あの、いつもくださっている太い万年筆で書いた手紙を、単に、横書きにするのでいいのに、それなら、簡単でしょうに』と思っていました。

 しかし、当時は、「あなたって、おねんねね」と他人に言われてしまうほどの、過保護育ちの典型であって、それを赤津さんにぶつける事はできませんでした。それで、困り果てて、目白に向かいました。で、【新樹】のオーナー(女性)に、「赤津さんって、どういう人物なのでしょう?」と問い合わせると、そういうルーズさでは、うちも、同じで、相当に困っているとのことでした。そして、あれこれを話し合っているうちに、私が画廊に支払う約束だった15万円は、画廊には入らないということを知りました。~~~~~~~~~~~~

副題6、『現代アートの世界における、お金の流れについて』

 これが、私があの事に気が付いた最初の機会です。あの事とは、何のことかと言うと、現代アートと言う抽象的な世界にも、リアルそのものの存在たるお金は流れていて、しかも、相当にあいまいな形式で流れている・・・・・ということでした。物を作って、それを流通させ、そして、買い手に売るという実業の世界とは違って、ずいぶんとあいまいな形でのお金の流れがあるのだということです。

 のちに森さんから、「川崎さん、あの、2007年の月刊ギャラリーの連載中に、2000万円稼いだでしょう」と言われて仰天するのです。無論のこと、一銭ももらっていません。月刊ギャラリー内で、取り上げた作家は、12名しかいません。だが、その周辺に、ネットで、美術評論的文章を書いた作家が、50名から100人はいるでしょう。だが、ベテランの画廊オーナーである森さんが、『二千万円に相当する』と、のたまわったのですから、一人当たり、20万円になります。私は赤津さんと違って、お金をもらっておらず、したがって、字数制限も、設けてはおりません。ただ、発想の赴くままに書くだけですが、ともかく、『彼女はあれで、20万円はもらっているでしょうね』と、世間からは思われていたとなります。うーむと言うかなんというかですが、・・・・・

 謝礼金の相場と言う話から、元へ戻りますの遅刻の話へ戻ります。私は遅筆堂などと言って、威張っている、井上ひさしをまったく尊敬していないと申し上げましょう。関係者のある文章を、待たせるとは、言語道断だと思っております。それは、自分の方が上だと言いたい井上ひさしのいじわるな根性の発露でしかないのです。~~~~~~~~~~~~

副題7、『赤津さんは、人格崩壊を示して、恐ろしい文言のファックスを送ってきたが、それが、醍醐イサムの動画を撮影したいと、私が思った動機の一つだった』

 さて、困り果てた私は、赤津さんに、7月の末だったと思いますが、「私はやはり、当初の予定通り、9月1日からニューヨークへ行きますから、新樹の個展はお断りをいたします」と告げました。新樹さんは、目白の一等地に、地所を持つ、ビルのオーナーだから、テナント料も入る人で、お金持ちで、いわゆる物品販売店としても画廊を使えるのでした。一種のコレクションでもあるアンティークの(お手持ちの)アクセサリー等の売り場としても、画廊を使えるのだから、画家が展示しない週ができても構わないのです。

 さて、その後です。赤津さんから目を奪う様な罵詈雑言を書いたファックスを受け取りました。文章もひどいが、字も乱暴極まりないと言うもので、一人暮らしのアトリエに保管をするのはあまりにも、気味が悪いので、捨てました。でも、赤津さんがなぜ、朝日新聞をやめなければいけなかったかが、本当によくわかりました。そこには一種の人格崩壊が表れていましたから。今まで何回も、同じ様な事を、しでかしてしまった人なのだろうと、推察しましたし。 そのうえ、その後では、銀座の画廊中に、かつ多数回にわたって、私の悪口を言って回ったそうです。だけど、私は別に憎んでもいませんよ。これは、原始的、かつ古典的な範疇に入る、人物像ですし、その種のありがちなトラブルですから。彼は、親から甘やかされて来たから、こうなっているという典型例です。鍛えられ方が足りないというだけの話です。~~~~~~~~~~~

副題8、『赤津さんのファックスを捨ててしまったのはまずかったと思い至り、それ以降のケースでは、できるだけ証拠を集めようと努力をし始める』

 しかし、この例が先行としてあるからこそ、私は、この章のメインテーマとなっている瀬木慎一さんからの手紙を直後にj-peg化して置いたのです。念のためです。あくどい事をやられてもすぐには、それを言上げをいたしません。でも、忘れてしまうわけにもいかないので、『できるだけ、証拠を集めておきましょう』と、考える様になりました。

 『醍醐イサムの、真実の人物像について、動画を撮影しておきたい』と思ったのも、同じ流れでした。私と赤津さんの間には、因果関係があります。争う種がありました。私としては、赤津さんが、せめて、遅れている理由でも、電話をかけて語ってくれたら、ここまでの事には至らなかったと思います。でも、とにかく、争いは、因果関係を伴う、ごくまっとうなものでした。ところが、醍醐イサムと私の間には、そういうものが、事前には、一切ないのです。しかも、私の方は、新宿にさえ、彼の二人展を見に行ってあげています。それなのに、虫けら同然の扱いを受けました。でね。別の方向から考えてみるのだけれど、彼は、彼の作品を買ってあげない限り、相手を、虫けら同然に扱うのでしょうか? だけど、以前は、そうではありませんでした。もっと普通であり、個展まで足を運んでくれた普通のお客として、それなりに大切に扱われていました。そのうえ、私は文章を書く人間です。そういう人間を粗末に扱ったり、失礼なことをしたら、当然の事、自分のことを悪く、書かれるでしょう。それぐらいはわかっているでしょうに。

 それでも、意地悪をして来たのは、誰かにそうする様に頼まれたのでしょう。そして、そちらの方が、私より上であり、大切だと思ったのでしょうね。それが、野見山暁じ氏か、それとも、油井一人さんなのか? それとも別の人間か? 今のところ、分かりませんが、私が興味を持って追い求めると、必ず、答えは手中に入ります。でも、その根源的悪人を突き止めたいとは、思っております。だが、そちらは、なかなか、尻尾を出さないので、目の前で、失礼なことをする醍醐イサムは、徹底的にその実像を把握して、それを証拠として、把握をしておく必要はあるのです。ところが、それが、大組織を用いて、盗まれました。 それは、大阪城北詰口と言う駅で、尾行者によって、盗まれ、直後探しに行かれない様にするために、以降2時半から四時半まで、電車は不通になったのでした。

 まあ、動画が無くなっても、私はそれを利用するつもりは、もとよりなかったのですから、かまわないのです。私は醍醐イサムの醜態が記録をされている動画をそのままにしておいて、パソコンにさえ移動をしていなかったのですよ。私は、私の敵たちと違って悪意あるわなを仕掛けるなど、嫌いですから、醍醐イサムがつまらない人物だとわかっただけで、満足でした。しかし、敵たちは、そうは思っていなくて、いずれ、それを私が使うと思っていて、それを盗んだわけです。

 しかし、これは言わないといけません。その日(=2013年6月26日、夕方大阪府知事、松井氏が、大阪市立図書館を訪ね、それに、拠って、橋下徹市長の衰運が始まります。橋下市長に対する国民の、人気は絶大だと思われますが、鎌倉エージェントのうち、誰かが、ああいう=橋本氏の代わりに、松井大阪府知事が、大阪市立図書館を訪問=行動を取るように、依頼をしたのでした。だから、ここからも、鎌倉エージェントとは悪魔の集団だということが解ります。彼らに、協力をすると、もし、その人が善人なら、衰運がその日から始まり、悪くすると、死に至ります。瓜南直子さんなんて、FBを読んでいると、2011年の8月に彼らへの協力が明瞭になったのですが、2012年の、4月にはすでに、しんどいしんどい、体がしんどいというツィッターを残して、6月に亡くなっています。スピードが速いです。恐ろしい事。~~~~~~~~~~~~~~~

副題9.『醍醐イサムや、橋下徹市長から、また、赤津侃氏へ戻り、北久里浜の、歌姫の謎を解き明かそう』

 赤津侃氏から来た、罵りの言葉の羅列だったファックスを捨ててしまったと語っています。そこまで戻ります。で、大変な罵りを、浴びたのが、1998年でした。が、その後、私がメルマガを始めたり、ブログを始めたり、また、その中からエッセイを選んで、本を、出版したりすると、すっかり、見直してくれたみたいで「あんたには、筆力があるからね」と言ってくれたことがあります。だから、プラスマイナス・ゼロだと思っている相手です。最大の侮辱や攻撃を受けていた時期でさえ、出来が悪い人であると、笑って見逃していたのですし、さらに、面と向かって、『筆力があるからね』と言われては、恨んでもいられないでしょう。

 その赤津さんに、昔、仲が良かったころ、私が歌を歌って聞かせたことがあって、それに対して、「あんたは、やはり美術の才能の方が上でしょう。唄の方はどうもね」と彼が言ったのです。それも、また、文章へ書き直してあります。それについて、赤津さん本人ではなくて、例の鎌倉エージェントが取りついているのでしょう。そして、『その部分を利用すば、あいつ(=私)に辱めを与えられるだろう』と考えたのが、あの歌姫だったと思います。これもまた、ノイローゼにさせるために、派遣をされたと思います。

 しかし、こういうひっかけやら罠は、私にマイナスを、もたらすのですが、と、同時に、プラスをも、もたらすのですよ。上の写真は、公開するのは、数度目です。でも、「仲野通巳吉の家が、ここです」と、皆様にお知らせをしたのは、今回が、初めてですね。それから、紫色の線の説明もここで、やっていますが、それも、意味のある、また、意味の通る形でできるのは、今回が最上でしょう。以前も同じ事を言っていますが、どうも、因果関係においては、説明不足でもあり、皆様、ちんぷんかんぷんだったと思います。後で、それについて書いたリンク先を見つけておきましょう。そのマンション=通称ルネ北久里浜(売り出しの際は、そらヒルズだった)の、建築が、すでに終わり、住人が入居しているのにもかかわらず、グーグル他、あらゆるネット上の地図に、それが、反映していなかったのです。ということも、その建造物に、忌わしい裏が、隠されているので、グーグル側がCIA側から頼まれて、隠していたのだと思います。 ところで、このJ-pegは、厳密にいうと、グーグル地図の、プリントアウトではありません。私のパソコンでは見事にそれが、できないので、他のところで手に入れた地図をスキャンしたものを使っています。ネット上の地図では、この地図の様には、住民の名前は記載をされていないものです。

 また、この時期(2012年まで)は、井上ひさし邸も、グーグルの地図上には反映をされていませんでした。現在の井上ひさし夫人ゆりさんの姉である、海原まり邸と、彼専用の蔵書棟を合わせた三棟が、地図上に反映をされ始めたのは、ごく最近ですね。ただしネット上の地図では我が家も、その名前を記載をされていませんし、井上ひさし邸も、その名前は記載をされていません。

 ここで、どうしてあれほどの、良い声が出たかの説明と、今、わが家の、北隣の道路で、家の建築を、長期間取材しているテレビ東京(または、下請けプロダクション)のあれこれをちらっと書いていますが、全体が、2万字を超えそうなので、削除をいたします。~~~~~~~~~~~~

副題10、『罠が仕掛けられたからこそ、北村みつ子さんの、性格面での二重性を語ることができた。彼女はある意味で、悪女でもある。典型的な根性悪でもある』

 しかし、この歌姫の出現により、私は、横須賀市立根岸小学校、PTAコーラス指導者の北村みつ子さんが、どれほどの、根性悪か、を思い出してしまったのです。

前川佳子(画家)本多栄子(版画家)北村充子(根岸小PTA合唱団指導者)らの行為から判る事

2015-05-25 09:36:34 | 政治

 そして、この歌姫が、北村さんと関係があると、推察する様になります。歌姫の方ですが、彼女は車で、北久里浜石川邸近辺まで来ていますので、どう考えても、横須賀市内、または、横浜市内の住人だと思われます。北村みつ子さん自身も声がいいし、私より年下だと思われるので、彼女だったかもしれないのですが、たぶん、彼女や私たちの子どもの世代でしょう。

  瀬木慎一さんは、そういう数々の罠と同じ現象の、最末端の人間として、ただ、単に、利用をされただけですが、それでも、きちんと、目の前に、あらわれた人物であり、ご本人の性格如何にかかわらず、おやりになったことは悪魔の片棒を担ぐという現象です。だから、この章で、取り上げる必要が出てきました。~~~~~~~~~~~~ 

副題11、『瀬木慎一氏の頤(おとがい)の話』

 ところで、北村みつ子さんの事は、歌姫出現とともに、『電話の応答が、ひどいなあ』と言う強い印象があり、それを、前報で、語り始めています。そちらはまだ完成をしていませんが、完成させて、最も新しい文章としてアップしなおすでしょう。で、北村さんと比較をすると、電話の応対を、争いを、見事な処におさめたものが、私と瀬木慎一氏の間にあるのですが、それは、2010年4月5日から10日にかけての私の、森さんの画廊での個展と絡んでいるのでした。そして、その最中に、井上ひさしが、自分を死んだことにした、大事(おおごと)と、絡んでいるのでした。ただ、このブログでは、電話のやり取りに特化して語ります。 私は北村みつ子さんとは、雲泥の差で、電話の対応でも、上なのですよ。

 冒頭にその写真を置いてありますが、瀬木さんは、その私の個展中に、私への脅迫用の手紙を送ってきたのでした。個展の準備等で、疲労困憊している私を、最高のチャンスとして、やっつけるためにでしょう。瀬木さん自身に、そういう欲求と必要性はなかったと思いますよ。私との間は、本当に数分間の会話程度のものであり、別にイコンも何もないのでした。ただ、瀬木さんは、中央大学法学部政治学科卒なので、同窓でもあり、学科の後輩でもある伊藤玄二郎から、そうする様に、頼まれたのだと思います。ともかく、脅迫の内容は、「あんたを訴訟にかける」という、モノでした。そういう手紙をよこしたのでした。

 『私には、なんの思い当たる点もないので、放っておいても大丈夫だ』とは思いましたが、それでも、火曜日だったか水曜日だったかに、外の公衆電話から瀬木さんに電話を掛けました。それは、主人が、普通の場合でも、夜の(または、昼でも)長電話を嫌がるタイプだからです。でもね、ここが、私の強さと、また、誠実さの表れなのですよ。手紙だけではだめだと思うから電話で、直接話し合いたいと思ったわけです。

 100円玉を、20枚ぐらい用意して、掛けているわけですが、最初は罵詈雑言のシャワーでした。知っている人は、それを知っていると思いますが、瀬木さんって、ちょっとおっちょこちょいなところがあります。そのうえ、私のブログなんか読んでいないので、平気で罵詈雑言を浴びせてきました。後で、したたかに分析をされて、委細を書かれるのに、そんな事とはつゆも知らず、威張りかえっていじめてきました。

 その上、彼は、私の方が下手の人間で、しかも、弱いから、自分を救う為に電話をかけていると、思っているのでした。ところが、これが反対なのです。彼は、パシリとして使われているだけだから、ひどく弱い人間なのです。神の視座から見ればゴミみたいな存在です。それを救い人間の、立場まで、引き揚げてあげるのが私の電話なのですよ。それが、分かっていないのですが、仕方がないので、それはそれで、受け止めながら、私の方が救済に向かっているのです。

 だが、私が、「ところで、瀬木さん、これって、伊藤玄二郎から頼まれた、事ではありません?」と質問をしたあたりから、だんだん落ち着いてきて、慎重になりました。伊藤玄二郎から頼まれたかどうかについては、即座に否定をしてきましたが、それでも、『あれ、こいつは、裏側が読めるぞ。結構、頭がよさそうだ。あまり、乱暴な話し方はだめかもしれない』と思い直したらしいのです。で、「あんた、僕の事を知っているの?」と聞いてきたから、「もちろん、知っています。頤(おとがい=あごの事)の細い方ですよね」と言ったのです。たちまち瀬木さんは、シュンとして、彼本来の大人し気な男性へと変化をしました。

 ここですが、他の言い方だってあったのですよ。しかし、これが、最善の、言葉でした。たとえば、私は何度もパーティの席で同席していて、紹介者からきちんと瀬木さんに、紹介さえ、されています。ちゃんと会話を交わしています。それを言っても駄目だったと思いますよ。 でも、そういうパーティの名前を言っても、【おとがい】と言う言葉を出したケースほどの、効果はなかったでしょう。

 瀬木さんは、ライターだから、語彙の使い方で、相手の力量とか教養が解るのです。で、突然に、しゅんとして、おとなしくなってしまって、借りてきた猫に、なっちゃいました。そして、瞬時の沈黙の後、『じゃあ』と小さな声でいい、向こうから電話を切りました。そして、訴訟は起こりませんでした。

 こういう会話が、私にはできるのです。無論のこと、神様のご支援はあります。【あご】ではなくて、同じ漢字をあてるのだけれど【おとがい】と発音する単語の方を使ったという点が、神様のご支援です。でも、瀬木さんの顎(=あご)が、小さくて、細いのは、瀬木さん、そのものが、常日頃、気にしている弱点だったのでしょう。瀬木さんは、安野夫人や、北村みつ子さんとは、圧倒的に違っていて、自分を知っている人間です。客観的な観察とか、または、哲学的な、思考ができる人間です。自分を良く知っているからこそ、他人の事もよくわかるのです。

 その、ご自分の、『おっちょこちょいなところとか、強気に出ているが、本当は、弱い人であることを、この顎が、証明してしまっている。残念だ。もっと太い顎だったらよかったのに』と、ご本人が思っているからシュンとなってしまったのです。

 そこですが、もし、「アゴが細い」と言う語彙で、同じことを言ったら、彼は激怒したと思います。他人から弱点を指摘されることとなるからです。でも、おとがいと言う言葉を使うと、先ほどの、『伊藤玄二郎からの依頼ではありませんか』に更にかぶせて、こちらの上等ぶりが、瀬木さんに伝わったというわけです。それに、【おとがい】の方がずっと、優美で、間接的なのです。

 ところで、この時節は、政治的に重く激しい攻撃の有った時期で、それは後で、詳細に書き直します。その個展こそ、私に仕掛けられた、人生上、最も大きな罠であって、私がそれを見破っていると知った途端に、井上ひさしが、自分を死んだことにしたのでした。~~~~~~~~~~~~

副題12、『瀬木さんの死に対する違和感から、思考を初めて、結局のところ、笹井芳樹氏の自殺説も疑う様になる』

 瀬木さんも、この私への脅迫後、1年ぐらいで死んでいますね。 さきほど、瀬木慎一と言う項目で、wikipediaを開いてみました。すると、死因が書いてありません。肺がんで、死んだとか、大腸がんで死んだとか、肺炎で死んだとかが、書いていないのです。たった、一年前に、圧倒的なスピードで、罵詈雑言を浴びせかけてきた元気さを思うと、癌類ではないと思われ、そうすると、一般的な老人の死因は、肺炎ですから、肺炎かな?

 私が、瀬木さんの死が、謀殺とか他殺でないかと疑うのは瀬木さんが、おっちょこちょいの善人だからです。どこかで、誰かの前で、「僕ね、去年、頼まれたので、<川崎千恵子を訴訟にかける>という動きをしたんですよ。まあ、彼女は、すごいです。法律の事もよく知っていて、こっちが恥かいちゃいましたよ。関わらない方がいい」とでも、話したのではないかなあ?

 その場に、瀬木さんに依頼した当該の人物(私が推察する人物は伊藤玄二郎だが、間に誰かが入っているかもしれない)はいなかったと思います。だから瀬木さんは安心していた。それに、伊藤玄二郎が、CIAのエージェントと言う事も知っていても、あくまでも後輩です。で、安心しきって、そういう話をし始めた。しかし、それが、誰かに聞かれて、CIA側の耳に入ったと仮定します。それが、個人的な会話だったにしろ、パーティ会場のよりオープンな場所だったにしろ、いろいろ事情を知っていてスパイ役をする人間はいっぱいいます。で、鎌倉エージェントに伝わったと仮定をしてみましょう。それは、彼らにとっては、大問題です。

 で、『伊藤玄二郎の元愛人、石川和子さんが、病院内殺人で、殺されたのではないか?』とすでに、疑っている私は、【瀬木さんも、病院内殺人で、殺されたのではないか】と思っている・ほど・です。石川和子さんは、3月に死んだ事となっています。死因は癌だとか? だが、12月の末か、1月の初めに小町通りを歩いているのを見かけましたよ。いつもと同じ風情でした。太っていて、元気に会話を交わしながら歩いていました。老人性癌なら進行が遅い筈です。しかも、ソクラテス顔貌と言って、やせ細って来た上で、死に至ります。原田芳雄という俳優は、癌にかかっても、仕事をしていたので、彼が、ソクラテス顔貌に変化していくのを見ることができました。

 石川和子さんには、殺されてしかるべき理由があります。あまりにも大きな失敗をしています。その次に、瀬木慎一さんのケースに移ります。殺されたと仮定をすると、その理由は、何故か? 一番大きな可能性は、おっちょこちょいだから、秘密を守れないと、みなされた事でしょう。

 その病院で使っているのと同じ制服を着た人間が、あらかじめ決まっている夜間巡回時間を外して、忍び込み、輸液袋に、注射器で、必要量の筋弛緩剤を投入すれば、簡単に、病人は、死んでしまいます。筋弛緩剤とは、証拠が残らない他殺薬です。残された遺族が他殺を疑わなければ、調査されることもなく火葬をされてしまうから、何の証拠も残りません。

 笹井芳樹さんですが、2つのビルの間の渡り廊下で、首つり自殺をして、脱糞症状まであったとネットで書いてありました。だが、こちらも報道をされていない、動機が、悪人側にあると思います。たとえば奥様、または、誰か京大時代の同窓の友人に、笹井さんが、真実を話していたとしたらどうでしょう。「僕は、巻き込まれたのです。演技をしているのが、苦しくなった」とでも。それが真実だとしたら、「これは、殺さないといけない」となります。

 むろんの事、全部、鎌倉エージェントとして、今まで、私が名前を上げている人たちが、実行をしているわけではありません。ブルーカラーとして無名の実行グループが居るとみています。光が丘の公衆トイレを84基も、壊したり、千葉県の中学校の水道のカランをすべて撤去したりする人間たちです。そして、【あの人間を殺した方がいい・という命令も、鎌倉エージェントが、下しているわけではない】とみています。

 だけど、一人だけ、今では、死んだことに、自分をなしている人間が居ますね。しかし、鎌倉市内に飛び交う、防災無線の音や、鶴岡八幡宮から聞こえてくる音で、生きていて、地下潜行をしていると確信をしている人間の事です。彼など、絶対に責任を問われないのだから、何でもできます。無論、アイデアだけ提供すると言う意味でですが。~~~~~~~~~~~

副題13、『今、パソコンは壊れなかったが?・・・・不自然な死ではなく、自然な死であっても、ともかく、鎌倉エージェントに使役をされた人間の中で、善人だった人は、みんな早死にをしている。法則があるみたいに見える』

 今、パソコンが壊れませんでした。真実を書くと必ず、敵さんが、パソコンの動きを妨害します。システム的破壊現象が起こります。今、前の節で、恐ろしいことを推察していますが、パソコンが壊れませんでした。すると、これらは、真実ではないかな?

 となると、上にあげた、3人は、自然な死でしょうか? ただ、ここに、肝臓が悪くなって死に至ったと、私が考えている瓜南直子さんも入れると、ある法則が見えてきます。鎌倉エージェントに何かを依頼をされて、動くと、その人が善人なら、必ず、死に至るという現象です。

 いや、あなたが悪人なら、大丈夫なのですよ。『悪人だなあ』と私が日頃考えている人物で、伊藤玄二郎たちに、使役をされて、私に意地悪をして来た連中はいっぱいいますよ。だけど、そういう人は死んではいません。ぴんぴんして生きています。だけど、瀬木さんなんかは、善人だと思いますね。

 PV2913289 2015年5年27~30日、 雨宮舜(本名 川崎 千恵子)

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