今日は、本当は都市の3を書くつもりでした。しかし、ふとですが、森鴎外が、なぜ文章を書くようになったのかに、ついて、思いが発展していきました。最初、話題として、逗子に入っていくつもりだったのですが、私が逗子のアトリエで、ひとりで、住んだことの目的も結果も文章を書くことだったからです。で、文章に関しての考察へ入り、続いて、その文筆の分野で文豪と言われている、森鴎外をふと思い出したわけです。
私たちは森鴎外のことを考えるときに、文豪と規定していることもあって、とても偉い人だとのイメージがあります。しかし、そこをちょっと、違う観点で捉えてみたいと感じます。もちろん偉い人に変わりはないのですが、その執筆をし始めた動機が、他者との割り切れない違和感にあったと書けば、それは、森鴎外の人間が小さいということになり、森鴎外ファンからは、お叱りを受ける類のことかもしれないのです。別に森鴎外に対して、恨みやマイナスの感情があるわけでもないのですが、ものごとを、覆してみるのも、結構役に立つのですから。
人が、危険でもあり、しんどい作業でもある文章を書き始めるきっかけというか、動機は、外部に対する違和感にあると、誰かが言いました。極言すれば、適応障害が、ある程度自覚をせられるから、書き始めるのだ・・・・・ともいわれます。論文や翻訳はやや違うのですが、エッセイとか小説とか、どこかに作者のこころの投影が認められるようなものを書き始めるきっかけは、
外部から、自分の全体像を、正しく認められていないという感覚があって、それが、文章を書くことへ向かわせるという尺度です。私なんかも、「外部から見ると、結構幸せそうなのに、なぜ、(下品な仕業でもある)文章書きなどに、変化していくの?」と何度も、かつ複数の人から問われました。特に文学部とかを、卒業していないわけですし、ある程度、絵とか版画で認められているのに、なぜ、横道にそれるのか?」とは、質問をされました。「両方をやるほど、時間はないでしょう」とも言われました。
まあ、私の場合は、小説ではないので、文章としての完成度は低くて、数年前から「つぶやきなのです。自然にでてくるものなのです」と申し上げていますが、その裏に、いわゆる画壇、特に公募団体展のさまざまなルールに対する違和感があったことも事実です。「変だよ。あの世界って、本当の意味での芸術家運動では、すでになくなっているぞ」という思いです。
その原初の部分に関するものは、一種の下書きとして持っていますが、このブログとか、メルマガで、それを、出したことは、あまりないのですけれど。一応ですが、読者(個人的なつきあいのない人)の存在も想定していますので、ある程度の面白さがなければだめだろうということはわかっていますので。
~~~~~~~~~~
さて、森鴎外が、世間との違和感を持っていたと仮定して、どこにそれがあるかですが、もしかして、津和野の出身であるから、その地域と、萩(長州藩)との出世競争に対する違和感が、大もとにあったのではないかと、感じるのです。地域の問題を『すめば都』と言う副題で、書いて来たここ、数日があるからこそ、突然にそれを、思い出しました。
今NHKで、龍馬伝をやっています。結構リアル(?)に描きこんであって、驚きます。
龍馬は暗殺をされてしまって、立派な人だったのに、明治政府で重用をされませんでした。だからこそ、愛されるわけです。でも、明治の元勲という人々を、ある意味で、忌々しい思いで見つめていた人もたくさんいたはずなのです。たとえば、徳川家に連なる人々とか。
仏教関係者とか。お寺は廃仏毀釈運動で、大変な思いをしたのですし。
ここで、突然の挿入ですが、本日の日曜日に、そのNHK大河ドラマないで、おりょうさんが初めて出て来ました。昨日、こちらのブログ内で、久里浜の山道を歩くのが私は好きだったといいましたが、子供たちが通った小学校(大津小学校)の前に、おりょうさんの墓があります。そういえば久里浜には、ペルリ来航記念碑がありますし。
さて、元に戻ります。津和野の藩医の一族の子孫だった、森鴎外は、祖父母の代で、とり子とり嫁といって、いったん先祖の血が絶えたのですが、それゆえに、そこで養子に入った祖父母は多分特別優秀だったはずで、その孫の鴎外も優秀で、現在の東大医学部の第一回卒業生として、19歳で学業を終えたそうです。しかし、芸術への志向もあった模様です。ベルリン留学中は演劇をよく見ていたとありますし。
その演劇の世界やら、医学の世界でも、しょっちゅう他者と論争を起こしていたと、あります。その論争を起こすがゆえに、解決できないわだかまりができてきて、それが、文章を書かせたとも思わせます。
森鴎外の心の奥底など、ここに、書いた短い文章では、とても計りきれないのですが、そのいらいらというか、焦燥感を、生んだひとつの、原因として、国の根幹を担う政治家には、自分はなれないことへの苛立ちが、あったのではないかと感じます。今の日本ではあまり考えられないことですが、当時は、薩長土肥にその高官の位置は、占められていたのです。優秀な自分が、医者としては最高のランクである軍医総監になった。といえども、それは、一種の技術屋です。一国のリーダーではない。『萩の出身である伊藤博文より、自分の方が優秀であるのに』と思っていたとしたら、文章の世界、芸術の世界へ向かうのもありうる発想だと思えるのです。
お医者様というのはすばらしいブランド力のある仕事です。だけど、技術屋さんです。もちろん、技術屋とはもっとも安定した仕事であり、恵まれているほうです。しかし、東大の医学部の前身である学校へ実質11歳で、入学したという彼は、自分自身に相当なプライドがあり、軍医総監であることでさえ、最終のゴールとしては満足ができなかった可能性はあるのです
この件は、彼が散歩中に路傍の子供たちにであい「うわー、中将だ」といったんは大騒ぎで、囲まれたが、ある子供が、襟章をみて、その色から軍医であることを知り、「なんだ軍医か」といって去ったというエピソードを小堀あんぬさんが書いていると、WIKIPEDIAに出ていました。
森鴎外は、散歩をするとき、軍服を着ることが好んでいて、その際は、それ相応の尊敬を得ないと、怒りを示したともあります。
実は、長州の内部でさえ、明治政府の高官となっていった、もと、知り合いの、下級武士に対する、怨念というか、悔しさというのは、長らく語られてきました。それが、隣の津和野藩です。萩と自分たちの間に、さして人間としての質や格が違わないと思うのに、日本のトップを担えない、ということへの苛立ちも、文章を書くに向かわせた、・・・・・例の・・・・・よく言われる違和感を、構成していたのではないかしら。一部にしてもですが。
わかりませんが・・・・・
本当にふとですが、思いついたことです。そして、その苛立ちは、緩やかに、温和になっていったものの、最終的に遺言で、「森林太郎として、死して、それ以外の肩書きは何も添えないこと」という墓碑銘を残すこととなりました。そこも表向きの判断では、彼が地位に固執しなかったことを現すとなっています。しかし、むしろ、『宰相になれなかったからこそ、地位など書いてほしくない。軍医総監など、何ほどのものぞ』と思っていた可能性だってあるのです。
今現在の日本でも、鋭すぎる人は、生きにくいと思います。ところで、鴎外と比較してはご迷惑でしょうが、私も、十年ぐらい前は、鋭くて、それゆえに、悩みも多かったのです。今では、相当整理して、やることも少なくしていて、しかも目的や望みも少なくしていますので、割と悩みがないほうになりましたが、その時代に、優れた年上の人によく相談をしたものです。
すると、「上のはみだしだから(ある程度はしかたがない)」といわれたことがありました。なるほど、そうですか。ただ、私は女性だし、社会的な、肩書きが一切ないので、困ったときは相談するという形で、解消することができたわけですが、森鴎外ともなれば、誰にも相談できず、ストレスをためていっでしょうね。だからこそ、それを、解消するのは、現実の世界から一切が離れた、創作だったと思われるのです。
津和野と萩の関係をふとですが、思い出して、上を書きました。ところで、私は萩人間の、特に明治期に出世できなかった方の子孫ですが、私のおばは、津和野の名家の出身です。萩に来て、元から萩にいたおじと結婚をしましたが。
2010年5月30日 雨宮舜
私たちは森鴎外のことを考えるときに、文豪と規定していることもあって、とても偉い人だとのイメージがあります。しかし、そこをちょっと、違う観点で捉えてみたいと感じます。もちろん偉い人に変わりはないのですが、その執筆をし始めた動機が、他者との割り切れない違和感にあったと書けば、それは、森鴎外の人間が小さいということになり、森鴎外ファンからは、お叱りを受ける類のことかもしれないのです。別に森鴎外に対して、恨みやマイナスの感情があるわけでもないのですが、ものごとを、覆してみるのも、結構役に立つのですから。
人が、危険でもあり、しんどい作業でもある文章を書き始めるきっかけというか、動機は、外部に対する違和感にあると、誰かが言いました。極言すれば、適応障害が、ある程度自覚をせられるから、書き始めるのだ・・・・・ともいわれます。論文や翻訳はやや違うのですが、エッセイとか小説とか、どこかに作者のこころの投影が認められるようなものを書き始めるきっかけは、
外部から、自分の全体像を、正しく認められていないという感覚があって、それが、文章を書くことへ向かわせるという尺度です。私なんかも、「外部から見ると、結構幸せそうなのに、なぜ、(下品な仕業でもある)文章書きなどに、変化していくの?」と何度も、かつ複数の人から問われました。特に文学部とかを、卒業していないわけですし、ある程度、絵とか版画で認められているのに、なぜ、横道にそれるのか?」とは、質問をされました。「両方をやるほど、時間はないでしょう」とも言われました。
まあ、私の場合は、小説ではないので、文章としての完成度は低くて、数年前から「つぶやきなのです。自然にでてくるものなのです」と申し上げていますが、その裏に、いわゆる画壇、特に公募団体展のさまざまなルールに対する違和感があったことも事実です。「変だよ。あの世界って、本当の意味での芸術家運動では、すでになくなっているぞ」という思いです。
その原初の部分に関するものは、一種の下書きとして持っていますが、このブログとか、メルマガで、それを、出したことは、あまりないのですけれど。一応ですが、読者(個人的なつきあいのない人)の存在も想定していますので、ある程度の面白さがなければだめだろうということはわかっていますので。
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さて、森鴎外が、世間との違和感を持っていたと仮定して、どこにそれがあるかですが、もしかして、津和野の出身であるから、その地域と、萩(長州藩)との出世競争に対する違和感が、大もとにあったのではないかと、感じるのです。地域の問題を『すめば都』と言う副題で、書いて来たここ、数日があるからこそ、突然にそれを、思い出しました。
今NHKで、龍馬伝をやっています。結構リアル(?)に描きこんであって、驚きます。
龍馬は暗殺をされてしまって、立派な人だったのに、明治政府で重用をされませんでした。だからこそ、愛されるわけです。でも、明治の元勲という人々を、ある意味で、忌々しい思いで見つめていた人もたくさんいたはずなのです。たとえば、徳川家に連なる人々とか。
仏教関係者とか。お寺は廃仏毀釈運動で、大変な思いをしたのですし。
ここで、突然の挿入ですが、本日の日曜日に、そのNHK大河ドラマないで、おりょうさんが初めて出て来ました。昨日、こちらのブログ内で、久里浜の山道を歩くのが私は好きだったといいましたが、子供たちが通った小学校(大津小学校)の前に、おりょうさんの墓があります。そういえば久里浜には、ペルリ来航記念碑がありますし。
さて、元に戻ります。津和野の藩医の一族の子孫だった、森鴎外は、祖父母の代で、とり子とり嫁といって、いったん先祖の血が絶えたのですが、それゆえに、そこで養子に入った祖父母は多分特別優秀だったはずで、その孫の鴎外も優秀で、現在の東大医学部の第一回卒業生として、19歳で学業を終えたそうです。しかし、芸術への志向もあった模様です。ベルリン留学中は演劇をよく見ていたとありますし。
その演劇の世界やら、医学の世界でも、しょっちゅう他者と論争を起こしていたと、あります。その論争を起こすがゆえに、解決できないわだかまりができてきて、それが、文章を書かせたとも思わせます。
森鴎外の心の奥底など、ここに、書いた短い文章では、とても計りきれないのですが、そのいらいらというか、焦燥感を、生んだひとつの、原因として、国の根幹を担う政治家には、自分はなれないことへの苛立ちが、あったのではないかと感じます。今の日本ではあまり考えられないことですが、当時は、薩長土肥にその高官の位置は、占められていたのです。優秀な自分が、医者としては最高のランクである軍医総監になった。といえども、それは、一種の技術屋です。一国のリーダーではない。『萩の出身である伊藤博文より、自分の方が優秀であるのに』と思っていたとしたら、文章の世界、芸術の世界へ向かうのもありうる発想だと思えるのです。
お医者様というのはすばらしいブランド力のある仕事です。だけど、技術屋さんです。もちろん、技術屋とはもっとも安定した仕事であり、恵まれているほうです。しかし、東大の医学部の前身である学校へ実質11歳で、入学したという彼は、自分自身に相当なプライドがあり、軍医総監であることでさえ、最終のゴールとしては満足ができなかった可能性はあるのです
この件は、彼が散歩中に路傍の子供たちにであい「うわー、中将だ」といったんは大騒ぎで、囲まれたが、ある子供が、襟章をみて、その色から軍医であることを知り、「なんだ軍医か」といって去ったというエピソードを小堀あんぬさんが書いていると、WIKIPEDIAに出ていました。
森鴎外は、散歩をするとき、軍服を着ることが好んでいて、その際は、それ相応の尊敬を得ないと、怒りを示したともあります。
実は、長州の内部でさえ、明治政府の高官となっていった、もと、知り合いの、下級武士に対する、怨念というか、悔しさというのは、長らく語られてきました。それが、隣の津和野藩です。萩と自分たちの間に、さして人間としての質や格が違わないと思うのに、日本のトップを担えない、ということへの苛立ちも、文章を書くに向かわせた、・・・・・例の・・・・・よく言われる違和感を、構成していたのではないかしら。一部にしてもですが。
わかりませんが・・・・・
本当にふとですが、思いついたことです。そして、その苛立ちは、緩やかに、温和になっていったものの、最終的に遺言で、「森林太郎として、死して、それ以外の肩書きは何も添えないこと」という墓碑銘を残すこととなりました。そこも表向きの判断では、彼が地位に固執しなかったことを現すとなっています。しかし、むしろ、『宰相になれなかったからこそ、地位など書いてほしくない。軍医総監など、何ほどのものぞ』と思っていた可能性だってあるのです。
今現在の日本でも、鋭すぎる人は、生きにくいと思います。ところで、鴎外と比較してはご迷惑でしょうが、私も、十年ぐらい前は、鋭くて、それゆえに、悩みも多かったのです。今では、相当整理して、やることも少なくしていて、しかも目的や望みも少なくしていますので、割と悩みがないほうになりましたが、その時代に、優れた年上の人によく相談をしたものです。
すると、「上のはみだしだから(ある程度はしかたがない)」といわれたことがありました。なるほど、そうですか。ただ、私は女性だし、社会的な、肩書きが一切ないので、困ったときは相談するという形で、解消することができたわけですが、森鴎外ともなれば、誰にも相談できず、ストレスをためていっでしょうね。だからこそ、それを、解消するのは、現実の世界から一切が離れた、創作だったと思われるのです。
津和野と萩の関係をふとですが、思い出して、上を書きました。ところで、私は萩人間の、特に明治期に出世できなかった方の子孫ですが、私のおばは、津和野の名家の出身です。萩に来て、元から萩にいたおじと結婚をしましたが。
2010年5月30日 雨宮舜
おまんこ、おまんこ!!!!
憂国者