銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

国会図書館とは、文化・文明の、砦で、ある筈なのに + 引きこもりの母は、実は愛情がないのだ。 (石塚雅彦、大森実、その秘書のお杏さん、古村浩三)

2019-06-08 03:31:33 | 政治

 今、10日の午前零時ですが、以下の文章の推敲や、加筆へ入っています。加筆部分については、短いケースは、アンダーラインを敷いておきます。長い部分は、此処が加筆だと、語って、アンダーライン抜きで、語ります。

副題0、『私はなんで、40時間以上パソコンで、ブログを書かなかったのか?』

 急に暑くなったので、夏物と冬物の交換をしていました。こんなことは、10年前だったら、1日でできたことです。しかし、それと同時に、終活向けの整理もしているので、全く終わりません。私の場合、紙類が、もっとも、難儀な、ごみ【❔】です。捨てにくいのです。すべての紙に、心とか頭脳とかが、反映していて、乗り移って居て、捨てにくいのです。お若い方の中には、だったら、デジタル化して置けばいいでしょう?と、おっしゃる向きもあるでしょう。

 しかし、大切なものをデジタル化したら、それが、源泉となって、又、新たな攻撃が起きるでしょう。それが、繰り返されてきたので、紙のまま、デジタル化しないで、保存をして置いたのですが、驚くべきことが起きました。

 気が付かないで、いるうちにたくさんの大切な資料が盗まれていたのです。

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副題1、『もっとも、恐ろしい盗難品は、父・母の写真と、新聞記事の切り抜きだった。国会図書館まで、グルになっているし、国会図書館を訪問するたびに、パトカーなどの警察車両に脅かされることとなった。父が満州文展で、特選を取った記事は、11枚あったのが、紛失したことには、気が付いてはいたのだけれど、新聞記事だから、国会図書館に行けば、絶対に、あるはずだと、私は考えていた。しかし、委細は、全く異なっていて、したがって、この件からも、日本の警察は、悪人、瀬島龍三(& CIA Agent)の、支配下にあることを知った』

 父や母の写真を盗むという事は、私が戦前、戦中、戦後(多分、20年間は)萩の三大名家といわれた家の、子孫であることを証明する、写真だから、「いい家の育ちだと、いう事を外部へは、知らせさせないぞ」という敵の狙いに基づいて、盗んだという事でしょう。父は、次男ですが、若いころは、美形でした。し。

 そして、満鉄の、調査部中央試験所というシンクタンクで、石油を探索する仕事をしていました。雲崗(または、大同)の、石窟遺跡傍に、撫順炭鉱という露天掘りの炭鉱がありますが、そこで、今でいう、シェールオイル(当時の日本語で、頁油岩(けつゆがんと、読む)を、探していたのです。むろん、チームでですよ。上司は、カリフォルニア大学出身の博士(むろん、日本人)でした。

 あ、今、7時40分ですが、銚子を訪問しているブラタモリが、頁岩(頁岩)を、説明していたそうです。似ていますが、間に、石油が入っているか、入っていないかの違いです。

 ここで、初稿では、カリフォルニア大学というキーワードから、此処、鎌倉雪ノ下で、起きた大問題(アジサイ畑欺罔事件)の、主役、中谷共二氏に入って行ってしまって居ますが、次の日、10日に入って、推敲中に、国会図書館でどういう事があったかをまず、語るべきだと、考えました。その方が、政治的論文としては、より明快になります。し。なお、次の章は〇〇の挿入ですがアンダーラインを敷かないで、語ります。

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副題2、『国会図書館は、満州時代の、新聞を、マイクロソフト化したと、新聞が何度も報道をした。しかし、私は、それが、対・私弾圧の処置だとは、まるで、気が付かず、いつか、行こうと、思って居て、放っておいた。しかし、驚くべき罠が用意されていて、結局、資料回復は不可能になったのだった・・・・・その第一段階として、警察に関するコラムが、日経新聞に連載されたことを語らないといけない』

 父や母の写真は、個人的な資料です。だから、それが、国会図書館で見つかるはずはありません。ひどく、悲しい事だったし弟の家に置いておけばよかったと、後悔をしました。ところで、それは、ピアノの部屋と、私達が読んでいた、一階の、12畳の部屋に、新婚当時買った、上等なチェストに、いれてありました。したがって、毎日見るものでもないのです。一方で、北久里浜の公共用地をタダで、私有化した大事件に関する、ものは、段ボールに入れて、押し入れにおいてあって、それも、毎日見るものでもないのです。

 だから、いつ盗まれたかは、わからないのです。でも、気が付いたのは、日経新聞が、警察の様子に関するコラムを、連載していて、そこに、こういう記事があったから、『あれっ、変だぞ。これは、我が家に関する記事ではないかな?』と、思って、大切な、資料を点検したところ、全部なかったのです。

 で、その時から、警察が泥棒に入っていると、気が付きました。で、今では、警察も侵入してるかもしれませんが、何かのへまをして、大失敗を、再びしてはいけないという事で、合いかぎを、私の家から、半径、30メートル以内に住んでいる二軒の家に、渡して、自由に侵入させていると、思います。あまりにも、大きな自由を与えられているので、つい、本省が出てしまい、珍しい化粧品を欲しくなった女がいて、云々、カンヌンというのが、このブログの初稿・時の後半に書いたことですが、本日は、第一節を、展開していこうとしているところです。初稿時の、後半部分は、後で、整理して、再度公開をいたします。今は、この第一節だけでも、膨大な、字数を使うことになるので、その部分は、一旦、裏へ回して、非公開といたします。

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副題2、『ここで、私の友人の、お杏(きょう)さんが、大森実の、秘書になって渡米をした際に、ニューヨークの石塚夫妻の、家に、泊まらせてもらったというエピソードを語らないといけなくなった』

 なお、日経新聞が、警察の、この手の記事を連載させたのは石塚雅彦さんが、主導をしたのだと、思います。石塚雅彦さんとは、私にとっては、小学校の先輩にして、大学の先輩にして、アートクラブの先輩にして、2002年ごろまで、1999年から、3年間かな? 三回か、四回、銀座で、一緒にグループ展を行って居る男性です。その展覧会の、準備会は、外人記者クラブの食堂で、行われて、そこを、理事長だった時期がある石塚さんが、予約して、置いて、会員でもない私も、入所できたのでした。石塚さんは、日経新聞では、論説委員をしていて、その後、早稲田大学の、教授になりました。私立は、特に、CIAエージェントとして特権がある彼は、早稲田でも、定年がないのかもしれませんね。酒井忠康氏も、鎌倉近美の館長を定年で、やめた後で、世田谷美術館の館長になっています。だから、氏には、一般的な意味での、定年がないみたいだし。

 そういう人が、私を弾圧する為に、脅かし用の、警察関連コラムを連載させたのですから、後で、縮刷版で、其のコラムを見つければ、既に、その時点で、敵の、最先端、攻撃者であったことになります。

 尚、私は、自分の友達の、お杏さんという女性が、1966年か、1967年かに、国際キリスト教大学を卒業して、大森実さんの秘書に、選任されて、渡米をした時に、まず、ニューヨークで、石塚さんの家に、泊めてもらったと言いました。彼女本人から聞いています。それで、その時点から、石塚さんは、私の敵として、機能をしていたのだと、今では考えております。どうしてかというのは、時間と体力があったら、巻末で、語ります。もし、時間と体力がなかったら、将来、別の章で語ります。

 :::::::なお、大森実、という人物は、一世を風靡した、政治評論家です。毎日新聞出身で、その後渡米をしました。結局ね、頭のいい人は、日本が、被植民地国家であって、この国に住んでいる限り、表現の自由はないと、知っているのです。したがって、この国で、知名度が上がり、自分の文章が、贖いを得る、形になるのなら、ファックス等で、連絡を取ればいいと、考えて、海外へ逃げてしまうのです。アメリカは、ですね。一応大資本家の住んでいる国ですが、一般の、中流階級(特にインテリ)は、オープンマインドで、しかも、キリスト教精神をいまだに、キープしているので、隣人として、暮らしやすいのです。日本だと、私みたい二、四方八方から、敵が、もぐらたたきみたい二、発生して、攻撃をされきるので、このブログを書くこと一つでも、テーマ選びには、自由がないのですよ。ものすごい、レベルで、自主規制をしています。なお、1960年代は、ファックスの時代です。今は、違う通信手段が、数多くありますけれど。:::::::

 お杏さんという、女性は、三鷹市大沢に在る、国際キリスト教大学から、歩いて、30分ぐらいのところに住んでいる、お母さんのところへ、私を連れて行ってくれたことがあるのです。それが、ベイカーさんという金髪碧眼の、CIAスパイに、知られて、『おお、この女性が友達か。それなら、彼女の方を出世させて、千恵子(雨宮舜の本名、姓が変わっているので、下の名前だけで、此処に置くが)、の方は、ありとあらゆるチャンスを奪って、出世できない様にしてやろうぜ』と考えたので、一生を通じて、ものすごいおいしい人生を送った女性です。

 もし、私に被害がさらに重なる様ですと、お杏さんのことを詳細に語りましょう。それからね。石塚さんの奥様って、とてもきれいな方です。で、私としては、こういう風な噂を、聞いています。父君は、某大手出版社の社長だったときがある人だと。ところが、奥様か、(というのも全体で、20人ぐらいで、お会いしたことが数回あるので、)違うと言われました。だけど、噂は、正しいのだろうと、思います。否定をされたことが、既に、石塚さんが、敵になっていたと、言う時期を指すのでしょう。でね、石塚さんからも、嘘をつかれたことがあります。「卒業後、初めての仕事は、最終紙面の、右上にある絵画のコラムだった」と。1990年代の、同窓会で、聞いています。ところが、2001年か2002年に、その小さな会合の、解散時の、道すがら、そのエピソードを出すと、石塚さんが、否定をします。変だなあと、思います。若い人が、最初は、小さくて、専門性がないことを担当することは、よくあることで、別に恥でもないのに、なぜ、否定をするのだろうと、思い始めます。

 こういう風に小さなエピソードが数多く重なって、ついに、2011年がやってきます。その時期に、突然、年上の石塚さんではなくて、同期の、古村浩三君が、パソコンのシステム破壊を行っている当人だと、いう事に、気が付きます。それは、榊原節子さんのフェイスブック紙上の頁が、私が、パソコンを、起動をした途端に、まだ、ログインをしてもいないのに、画面上に浮かんで、しかもフリーズしたからでした。

 意味は、瞬時にわかりました。これも、私が感じてもいないライバル意識を刺激して、「お前より、榊原節子の方が上なんだよ」といいたいわけです。私は、むろんの事、それは、知っていますよ。榊原節子さんは、上皇后、美智子様の、いとこです。そして、東大名誉教授にして、新日鉄の、研究所所長になった水島三一郎博士のお嬢様です。江戸時代は、ともかくとして、今現在では、圧倒的に上です。しかし、そういう上流階級のフェイスブック頁を道具として、勝手にいじっていいのは、警察の特殊部隊の人間ではなくて、同窓会で、いかにも、「好きですよ」というムードを満開にしている、同期の古村浩三君以外には、できないことです。良心の問題としてできないはずです。そして、古村浩三君は、日本の最初期のシステムエンジニアですからね。自分一人でもできるだろうし、若い人を使えば、何でもできるわけです。私は、1999年から、パソコンを使い始めて、その時点で、既に、15台は、外部からのシステム異常と、それに対する私の、よくない、対処方法のせいで、壊されていますが、今は、大部、対処方法も向上をしました。で、壊れる頻度も、少なくなっています。

 なお、此処で、榊原節子さんと、お杏さんの違いを言いましょう。榊原さんは、今は、太ってしまいましたが、若いころは、すらっとして、そして、お顔は、最上級の美女です。美智子様よりも、佳子様よりも美形だと、思います。ごめんねお杏さん。はっきり言って、お杏さんの方は、そうでもない。小さいころに、お母さんが、家を出てしまって、離婚に至ったので、そのころ、いわゆる母君からの、お世話が足りなかったから、脊椎カリエスを患って居ます。だから背が低い。榊原節子さんは、あまり、面と向かっては意地悪はしません。ただ、出版物の件で、政治的な意地悪を、古村浩三君など、大勢の、人間が絡んだうえで、私のことを劣等した人間として扱いました。でもね。それ以外は、全体として、礼儀正しくて明るいです。やはり、同じ高校(お茶大の付属)に高校からの転入生として入ったと、言う件での、一種の、認め方(頭がいい人間同士としてのそれ)が、あるからだと、思います。

 お杏さんは、私に対する扱いが、ぞんざいに過ぎますよ。あなたが、最上級の人生を送ることができたのは、私に親切にした、1965年があるからです。だから、ライバル設定をされて、大出世をしました。それなのに、私を足蹴にします。こういうところに、人間研究が大好きな私としては、研究の種を見つけるのです。今は、まだ、語る、暇がないけれど、非常に面白いエピソードが連続して生起するでしょう。たとえば、お杏さんの、21枚のパンツというエピソードです。お杏さんは、「私は、洗濯は三週間に一度で、いいのよ」といったのです。寮での生活の中です。私が直接聞いたわけではないが、誰かが、それを聞いたのです。そして、大いにはやしました。うわさとして、それを聞いて、私は、お母さんが、小さいときに、家出をしていたので、生活の、基本部分で、清潔を保つ習慣がないのだと、思って痛々しく思いました。私だって、むろん欠点はありますよ。今、泥棒に入っている、連中は、我が家が散らかっていて、掃除ができていないと、言うでしょう。確かに私は、掃除が、嫌いです。女中さんとか、お手伝いさんとかが、家に居たので、掃除は、身についていないのです。榊原節子さんも、似ているみたいだけれど(笑い)。だけど、お杏さんの、21枚のパンツという笑い話には、笑えませんでした。私はとても、やさしいところがある人なのです。それは、地味な部分なので、誰も気が付かないでしょう。だけど、こういう際は、深く同情してしまいます。

 こういう部分では、私はいつもシェークスピアの、【リア王】を思い出すのです。リア王を本当に大切に、思って居たのは、三女でした。ところが、リア王は、甘言令色を尽くす、上の方の娘に財産をみんな与えてしまって、冷遇され、野原をさまよう結果になってしまいます。

 石塚さんが、古村君と組んで、又、栗田玲子さんやら、塩見和子さんと組んで、又、堤義明さんと組んで、鎌倉霊園に置いて、ひどいいじめを行ってきていますので、お杏さんの態度から、私は、1967年から、石塚さんが、裏切ってきている人だと、知っていたと、今、語るわけです。

 でも、何故、石塚さんが、私を裏切ってきているかというと、それは、ロックフェラー家まで、関係してくるので、今日は語りません。

 ここでは、日経新聞に警察のコラムが載ったのは、石塚さんの導入であろうと、言うに、とどめます。

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副題3、『警察のコラムで、下っ端警官が、探索から帰ってきて、ものすごくたくさんの、パソコンがあるので、驚いたと、言ったら、上司が、そういう時は、電源アダプターを調べろ、其の電源アダプターの数だけ、パソコンが備え付けてあるのだぞと、言ったので、部下(ブルーカラーとしての、警官たち)は、ああ、そうですかと、一つ利口になったと、言うエピソードがあった』

 それで、ピーンと来たのです。このコラムは、新聞とは言え、つい二、三日前のエピソードではないと、思います。このエピソードが、記事として、出る前に、私は、銀行の通帳が紛失したり、重要な書類が紛失したり、パソコンも紛失した様な、記憶があります。そして、確かに電源アダプターが盗まれた事もあると、思います。ただ、その時点では、私はブログを開始しておらず、というか、ブログを開始して居たとしても、穏便な、芸術とか心理学の事しか、書いておらず、こういう事は書けませんでした。で、すさまじい被害に出会って居たころです。今ね、上の方で、お杏(きょう)さんの、21枚のパンツなどというエピソードを書いています。それは、ね、50%は伏せているのです。彼女の夫がどういう職業の人であるかとか、そういう部分を伏せています。そして、彼女がどれほどに、私に被害を与えたかも伏せています。

 しかし、ご近所主婦、特に安野智紗夫人とか前田清子さんなど、35年間にわたって、すごいことをやり続けてきています。それをかろうじて、私の、他殺へは、至らない形で、とどめているのは、実名表記で、エピソードを書き始めてからです。しかし、妹は殺されています。

 単純に、10億円の被害がありますと、言って居ますが、本当は、お金に換えられない被害が、大きいのです。前田清子さんなんて、昨日も、光を用いて、私を苦しめているので、「ああ、そうですか、それなら、石塚さんと、警察との、エピソードをつまびらかに書きますわよ」となるわけです。だって、全部同じ穴のムジナだからです。

 心理的に分析すれば、やっていることを白日の下にさらしたら、本当に、恥ずかしい女と、恥ずかしい男の、集団なのです。立派な社会的肩書を持っているけれど、やっていることは、ひどい事ばかりです。安倍総理大臣は、最も高い肩書を持っているのですが、例の化粧品を盗む女の為に、舞鶴へ行ったり、呉へ行ったりしています。恥ずかしい、立場です。驚くべき総理大臣です。これは、後で、詳細に語るでしょう。明日ではありませんよ。もっと将来にです。法治国家ですと、か、よくおっしゃるけれど、嘘ばっかりです。どうして、私が両親の写真を盗まれないといけないのですか?それから、あるべき資料が国会図書館から消えているのは何故ですか?

 伊藤玄二郎と谷垣禎一さんの結びつき、又、其の陰にいる、公的には、自分を死んだことにしているが、実際には生きていてやまゆり園事件等の、謀略を考え出し続けている井上ひさしが、日本を、こういうひどい国家にしてしまったのです。ひどく劣化した国にしてしまったのです。

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副題4、『私達、寮仲間は、1980年代ころから、活発に、再交流を始めていた。それ以前は、子供が小さかったり、海外にいるお友達が多かったりしたので、付き合って居なかった。お杏さんと、私と、それから、8050-1号ママと、ここで、仮名をつける女性は、その同じ仲間の友達だった。ところで、8050-1号ママとは、私は、1985年に、一旦、大喧嘩をしている。私が彼女を叱り飛ばしている。こんなことは、生涯で初めての事だった。しかし、彼女の方の、お子さんを正しく、そして、幸せに育てるためには、ママが、その当時、行って居ることは、間違って居るという確信があったので、叱り飛ばしているのだった。そのために、8050-1号ママは、私がけむったいのだった。それで、私には言わないこと====坊ちゃまが、自殺未遂をしたという事====を、お杏さんにはいったのだった。そして、軽い、軽い、人格のお杏さんは、其れを私にペロッといってしまうのだった。その結果、私が大変な苦労をすることとなってしまう』

 私が、1985年に、8050-1号ママに言ったことは、以下の様な事だった。「PTAの副会長になったんですって、やめなさい。すぐに。私もね。今年の四月、広報委員長に選ばれたけれど、鎌倉に地の利がないので、ほかのお母さんが、実力を認めてくれないので、うまくいきそうにないので、辞退をしたのよ。辞退をするのも、大変ですが、決心が固ければ、辞退できます。すぐ、返上をしなさい」と、言って居ます。

 しかし、彼女が、「ええ、そうね」とは言わないので、私は、「彼は、成績がいいの?」と聞きました。すると、一瞬、逡巡して、「うーん、無気力なの」と、答えました。私はその答えを聞く前から、其の坊やが、無気力なのは、知っていたのです。だから、お成績はいいの?と、婉曲に、質問をしたわけです。礼儀は、守っています。

 なぜ、それ(=無気力)を知っていたかというと、私が、昔、彼女に向かって、電話内で「ご近所づきあいが、大変だから、あなたに愚痴を言いたい。聞いてもらいたい。そういう風にして乗り切りたい」といったのです。すると、彼女は、「そんな話は、聞きたくないわ。私はご近所づきあいは、しないことにして居るから」と、答えたのです。

 私はその時、本当にびっくりしました。で、此処に引きこもりになる家の特徴が、一つ出てきていると、確信をします。つまり、子供が小さいときに、母親が、近所づきあいをしないのです。まあ、お出かけはあるかもしれない。今だったら、お受験塾に行くとかね。だけど、子供が、最初に出会い、友達になる人は、自分で、とことこ、歩いていかれる距離の幼児でないといけないのです。そして、子供同士が、友達となって、と、同時に、ママも仲良くするという形で、社会を形成してあげないといけないのです。

 しかし、ICU (1960年代は、東大に入学するよりも難しいと言われていた)を卒業した様な女性が、一般社会で、気の合う人を見つけるのは、大変です。だから、近所の人とは、付き合いたくないと、言う彼女をいさめることはできませんでした。他人の選択をこの時点で、だめよと、言っても、そこの、察知力がない人に対しては、無駄な鉄砲になるからです。

 この・・・・母親が、子供の小さいころに、ご近所づきあいをしない・・・・・という事も、子供を、将来引きこもりにしてしまう、大きな原因の一つです。自分では、選択ができない様な、階層と、ママが、付き合う事で、子供が多種多様な人と、付き合える様になるので、それが、とても、大切です。また、バックグラウンドが違うので、話も合わない様な女性と付き合う、そういう忍耐が、母親には求められていると、私は思います。子供を愛していると、当然のごとく、それが、必要だと、気が付きます。彼女に拒否された後で、小学校に、入学している段階の、お子さんを具体的に見る機会があって、ああ、弊害がすでに表れているなあと、感じた日があるのです。しかし、その時は、ほかの友人も居たし、中には、子供のいない人もいるので、私は、自分の気付きを述べませんでした。

 で、1985年に、久しぶりに電話を交換したのは、神奈川県の、高校受験の制度と、彼女が住んでいる別の県とが、どういう風に、違うかを聞きたかったのです。これは、個人的な、ケースを探りたいという事ではなくて、純粋に、制度間の、違いを聞きたかったのでした。ところが、ここで、「PTAの副会長になった」と、聞いたので、びっくり仰天をしてしまうのです。子供が中学生の時代に、母親が学校で、目立ってはいけないというのは、どんな書物にも書いてありません。週刊誌でも、月刊誌でも、取り上げていません。それは、そういう真実に気が付いて、親が、PTA三役を引き受けてくれなくなったら、学校側が、困るからです。都市伝説としても広まっていませんね。だけど、観察が鋭い親で、しかも、本当の、友人を持っている親なら、当然に、気が付く真実です。私は、鎌倉に引っ越してくる前に、それをすでに知っていました。

 その後も、此処には、書きませんが、それって、間違って居るよと、言う方向で、彼女は、選択をし続けるのでした。そして、25歳ぐらいの時に、自殺未遂をするのです。私は、即座に次のステップは、正しいことを選んでほしいと、思って電話をかけました。しかし、その電話がとんでもない方向へ進むのでした。

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副題5、『ここで、お杏さんに戻らないといけない。彼女は、私をへこますために、CIAから、大・出世を、準備されていた。そのために、未熟な人格のまま、50代を迎えていた。だから、8050-1号ママが、お杏さんと、自分の条件が違うから、重大なことを、打ち明けてもらったという事を、大事には、していなかった。そして、その8050-1号ママが、同じ年齢の男の子を持っていて、しかも、いつの間にか、こどもの、成長の度合いとしてすごく異なってきている、私には、知られたくないと、思って居ることも重要視していなかった

 それで、ペロッと、状況も語ってしまう。坊やは、25歳にして、舞台で、石の役をやったそうだ。それで、直後、自殺未遂を起こした』

 坊やは、両親ともに、当時の、優秀極まりない時代の、ICU卒だから、ご本人として、馬鹿ではない。しかし、高校受験の時に、無残なる、劣等感を味わわされた。それは、母親のせいだった。母親がPTAの副会長だから、地域で、一番校に入学しないと、笑われると、いう事となる。したがって、公立ではない私立の、しかも、遠くに在って、近在の人が誰も知らない高校を受験をさせた。しかも演劇科があるという事で、演劇なら、大丈夫という勝手な思い込みが、母親の方にあった。それは、母親が卒業をした中高一貫教育の私立学園の、同期生に、20代から、有名な俳優になった人間が居た。ただし、その子は、二代目しかも、兄が居るので、自身でも控えめでも、コネと、ヒキがある。そこが違うのだけれど、この、8050-1号ママには、それは、見えない。あの地味目の男の子が大成功をしているのだから、うちの子も同じ程度に、地味だけど、きっと成功する。ほかの道は駄目だけれど、演劇なら大丈夫と、思いこんでいるのだった。

 だけど、私に言わせると、其の坊やほど、無気力だと、演劇など、全く向いていなかった。で、やめなさいと、言いたかった。しかし、「その受験は、不合格になるよ」と、不吉なことを、言うみたいなので、黙っていた。その後、何とか、別の高校を、手配をしてもらって、高校には、行くことができた。しかし、大学を受験したくないと、坊やは、言う。15歳の時に、どれほどに、傷つけたかが、明白だった。それで、私は、「我が家に遊びに来させなさい」と、言った。うちの子は、活発に母親批判をする。それで、一晩でも、泊まって、語りあかせばいいのだ。

 問題は、母親の方に、正しい意味での愛情が、無い事だった。私に対して、子供たちは、批判をする。活発に批判をする。それは、母親の、態度とか、愛情について、安心しているからだ。そちらの坊やは、普通ならそれが、始まる、中学時代に、母親が、活発に、外の活動をしていて、とうとう、地域社会、随一のスターである、PTA副会長にまで、なってしまった。それで、母親を批判できない。偉い人なので、批判ができない。それで、問題点が明白になっていない。子供の方にも、問題点がどこに在るのかについては、訳が分からないうちに、引きこもりになってしまって居るし、母親の方にも、どこが、悪かったのかの、認識が、其の25歳の時点でも、まだ、根付いていなかった。

 そういう、訳が分からないままに、さまよって居る心が、うちの子と、話し合う事によって、ベルリンの壁崩壊という現象が起き、すっかり、きれいになると、私は、思った。そうなると、私は信じていた。星占い的に見ても、二人の男の子は、あうタイプだった。で、この提案は、相当な、親切なのに、8050-1号ママは、拒否するのだった。

 あれは、19歳の時だった。あの時点で、坊やを鎌倉によこしていれば、坊やは、できることをやってみようと、化身をし直して、大学受験をしたかもしれないし、就職もしたかもしれなかった。で、そうなれば、母親の方が、其の六年後に、坊やを、劇団に送りこむ必要もないし、石の役をやらされて、坊やが、自分の無能ぶりに、絶望することもなかった。

 私が反対の立場だったら、飛びついてありがとうと、言うだろう。自分のメンツなど、どっちでもいいのだ。子供に、状況打破の決壊点が、見つかる可能性があったら、飛びつくのに。しかも、自分が計画したことではないので、上等なのだ。今まで、彼女の計画したことが、ことごとく、失敗しているのだから、他人の提言も受け入れた方がよかった。

 しかし、時枝ひろ子さんという超・聡明な人が、私に、2003年の初夏に言ってくれた通りに、このケースもなった。時枝さんは、憐憫の情を見せながら、『予言者は、世に入れられずだわね」と、言ってくれたのだった。トロイの、王女カッサンドラは、予言の能力があったが、誰も、聞く耳を持たなかったので、トロイは、ギリシャに滅ぼされた・・・・・と、言うのが、ギリシャ神話の、一つである。

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副題6、『しかし、この時点でも、私は、自分は、もっとできる事があるのではないかと、思った。そして、常に自分の思って居る通りに進行するのだから今度だけは、いう事を聞いてねと、言う前置きを置いて、

「500万円を上げなさい。そして、アパートを用意するところまでは、支援をしなさい。それ以降は、どんなことがあっても、あなたの方から、訪問を、しては、だめよ」といいたいと、思った。

 これは、まだ、まだ続きます。しかし、瞼が下がって来たので、寝ますね」。

 

 

 

@@@@@@@ここが書きかけ中の最先端です。以下はメモです。

 

この続きは、此処で、明日書くか、または、別の章を起こして、別の日に書くかは、お約束ができませんが、私が、書いていることは、すべて、壮大な一つのミステリーの断片ですから、何を書いても、同じところへ、帰結する話です。したがって、時々、お約束を違えますが、自分としては、主テーマからは、離れてはいないつもりなので、ご容赦くださいませ。

 

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