CIAの愛顧先が、自民党から、小池都知事に、移動をしたが、それって、小沢一郎から、安倍総理へ移行したのの再現だけれど、大矛盾ですなあ! 2017-02-05 23:57:02 | 政治
の続きです。それで、副題7から始めたいところですが、1から始めましょう。
副題1、『大宅映子さんをここで、NHKに大々的に、登場させたのは、例の鎌倉エージェント(=CIA)達の失敗であろう。彼らの頭脳は相変わらず、トカゲの脳味噌だ』
独立させたわけは、この一文は書いても、世間へ、公開するという形では、表出しなくなるかもしれないからです。この前、高枝切りの部分を、再検討しているうちに、重要な章が、消滅している事に気が付きました。それは、無論のこと、伊藤玄二郎たち、鎌倉エージェントの、重要な悪というか、失敗を書いた部分です。
彼らは冨澤夫人という、上流階級出身者をその件で、利用しました。彼女は、我が家のご近所住まいの人間たちの中で、もっとも上品な人です。それを、自分たちの手下として、使役しました。それが2016年9月26日に行われた高枝切り事案というものです。安野家夫妻の、バカさ加減、柳沢昇・石川和子夫妻のバカさ加減を、最近、縷々書いてきていますが、それらの、おバカさんたちを助けるために、より社会的には、上位の位置に存在している、冨澤夫妻を、利用いたしました。学歴といい、出自といい、職歴と言い、圧倒的に上の存在を、自分たちの道具として利用しました。手下というか道具として、利用をしました。それほど、自分たちが、過去に行った悪が、積み重なっていて、しかも失敗続きだったので、そこまで、やらないと、逃げられない立場に追い込まれていると言えるでしょう。
でもね。冨澤夫妻を道具として利用する事は、彼等にとっても、もろ刃の剣であり、一種のバカげたことだったのですよ。やってはいけない事だったのです。それを証明した章が、書いて四か月後の、最近チェックしてみたら、消えておりました。その消し去り方は、非常に悪辣でした。どうしてそう言えるかというと、
下書きの段階で、文章が消えることも多々あるのですが、その章に関しては、一応完成して、ブログとしてアップできたはずで、その後、公に、だれでも見る事のできるブログとして、一週間ぐらいは、この地球上に、存在したはずなのです。が、4か月後に、チェックするとすでにないのでした。
これは、本当にダイレクトな言論弾圧です。が、それも、彼等は、平気で、やってくるのです。自分に都合の悪い事を書かれると、それをやってきます。
で、これから書く予定の、・・・・・大宅映子さんをここで、使役したのは、駄目なんですよ。あなた方の失敗なのですよ・・・・・と、言う事を説明する文章も消滅する可能性があるのです。それで、消滅してもいい様に、前半部分と、こちらを分割しました。
大宅映子さんを、自分たちが助かるための、道具して、使ってはいけない理由は、いくつもありますが、ここでは、今まで、書けなかった新しい事実を上げるつもりです。だからこそ、表出しないという形で、敵さんたちに消滅をさせられる可能性があるからです。
大宅映子さんを、使ってはいけないという最大の理由はスタップ細胞疑惑の真実・・・・・(=それが、作り上げられた謀略であり、主に国際基督教大学出身者が、作り出した謀略だった)・・・・・という事実が、ここで、徹底的に明らかにできるという・・・・・そういう部分が大きいのですが、それの説明に入る前に、もっと。小さなことを先に、書いておかないといけません。
そういう部分なので、書いても消滅するかもしれません。
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副題2、『でも、それに至る道程は、まず、渡辺幸子さんの、私に関する、2003年の、二月に発せられた讒言を説明しないと、語れない』
今の私の頭の中には、前報と、この章を、完成させたい思いで、いっぱいです。ここで書きたいことは、国際基督教大学の卒業生の間で、ひそかに、進行をしている私への弾圧策です。昔、【会議は踊る】という映画があったと思います。政治の影に人間関係や恋愛の問題があります。私が、現在74歳なので、もう、「ホテルへ一緒に行きましょう」と、言われたとか、「誰それと、ベッドインしましたよ」という類の恋愛は、無論のこと、私にもほかの人にも、見えないので、取り上げません。しかし、風にそよぐフェロモンの交換というのはあるわけです。表情を読み取り合う。相手の意味深長な言葉の裏側を解釈する。という形での恋愛はあるのです。
:::::::::ここで、二日目に挿入を入れます。それは、青で書きましょう。
副題2-α、『外人記者クラブでの、お食事会は、2002年までは、和気あいあいだった。その頃、私は皆さんから可愛がられていた。母からも、友人からも、<あんたは、かわいい人だ>と言われていた部分が全開だった』
今は、大宅映子さんが、NHKに突然登場したのは、どういう意味があるかと、言う事を問うているわけですが、彼女が、登場したのは、対・私への弾圧の意味があり、それは、どうして、必要であったかというと、
私の家の玄関先から、絵が二枚、昨年の末に盗まれており、そこに酒井忠康氏と、柄沢斉氏、伊藤玄二郎ら、と、大原光孝さん、安野忠彦氏らの、関与も推察され、そうなると一番取り上げて考察しなければならない人物として、酒井忠康氏が、浮かび上がり、その酒井氏と、密接に結びついている渡辺幸子さんが、浮かび上がるのです。
そして、渡辺幸子さんと、石塚雅彦さんと、石塚夫人と、大宅映子さんは、非常に数の少ない国際基督教だ学の、1960年入学の、同期生なので、そのラインで、大宅映子さんは、ここで使役をされわけだと、私は思って居ます。だから、大宅映子さんの登場は、絵が盗まれたことと直結しるので、私にとっては、ひどい弾圧の象徴として大宅映子さんは、存在をしているます。
でね。大宅映子さんを、取り上げる前に、渡辺幸子さんを、丁寧に考察しないといけないのですが、その渡辺幸子さんと、私と、石塚雅彦さんは、1999年ごろから、2003年2月まで、グループICU展という同窓会展を、一緒にやっておりました。
石塚雅彦さんは、私の小学校と、大学の先輩に当たり、又、美術部の先輩にも当たり、又、同窓会の会長を石塚さんがやっていたので、卒業後、何度も短い時間の会話は、交わしているのですが、この1999~2003年2月までは、今まで以上に、長い時間を共に過ごす(ただし、11人一緒の、機会と、20人が一緒の二つの機会があったが)間柄でした。
場所として使ったのは2004年ごろまで、銀座の中心にあった望月画廊と、有楽町電気ビル内に、在った、人記者クラブの、レストランの二つでです。外人記者クラブでの、お食事は、それほど、おいしいというものでもないですが、高い位置(24階)から、眼下を見下ろせるという、地の利と、会員しか入れないという意味での、優越感を感じられる場所なので、それは、口には出さないでも、感謝しておりました。
自分たちが食事をしている傍で、外人たち(記者とその関係者たち)が何らかの打ち合わせを兼ねて、食事をしているのは、私達、非会員で、臨時の訪問者の、優越感を刺激するわけです。でも、それを口に出す人は居ませんよ。私達は、半年に一度、そこに入れるだけですが、石塚さんは、一週間に5度くらい、入れるわけですから、その人を前にして、はしゃいでは、田舎者、丸出しになってしまいますから(苦笑)
石塚さんが、そのクラブの最高メンバーだったことがあるからです。理事長と言うのか、委員長というのか、位階の正式な名称は、知りませんが、ともかくトップだったことがあり、その会員資格は、永遠に失わないでしょう。彼は、日経新聞の、外信部の、記者であり、論説委員まで上り詰めた人です。
その場所で、そのお食事会(正式な名称は、グループICU展の、準備会)で、私は2003年までは、一番若いメンバーでした。私は一時期、自分は、年上の人にかわいがられる傾向があり、年上キラーであると、気が付いていて、『ああ、日傘雅水さんが、言って居たことも当たっているかも』と、思ったり、母が、「あんたは、かわいいところがあるからね。社交ダンスは、絶対に、やってはだめよ」と言っていたことを思い出したりしていました。なお、日傘雅水さんとは、文化人とか、芸能界に、顧客を持っている日大芸術学部出身の、手相を観る女性です。
私の父と母は、戦前から社交ダンスをやっていて、引退後は、夫婦で、一緒にやっていて、家の中にブルース用の、足跡ステップの紙が、部屋の敷居を超えて、廊下にまでつながる形で、10mぐらいの長さで、床に、貼ってあるぐらいでありました。父は、パーキンソン氏病のリハビリを兼ねて、週に5日は、別々のスタジオに通っており、母はそのうちの二つに、父と一緒に通っていました。妹も一時期、仕事を辞めていた時期があり、その時は、横浜馬車道まで、ラテン専門の先生に教わりに行っているとのことでした。その先生に倣う為に、一か月に、10万円を使うとの事でした。つまり、実家のメンバーとは、社交ダンス大好きな一家だったのです。父が亡くなった後でも、ホテルでの、発表会に、母は招かれていたみたいです。が、私には「やってはだめ!」といっておりました。「トラブルが起きるからね」と、言って居ました。
その、かわいいところが、将来、災いを招くとは、思ってもいない事だったのです。60歳になるまで、それが問題になるとは、夢にも思っておりませんでした。
で、そのことを説明する前に、その会で、五歳年上の女の人・B夫人が、「私たちの世代では、美大に、進学するなど、考えもしなかったわね」と、言われたことも添えないといけません。それは、ですね。経済的な問題よりも、誰もが、小学校時代は、クラスで3番以内というほどの、偏差値の高い人間であって、そういう人は、自動的に、偏差値の高い大学に入るモノだと、言う時代だったのです。個性云々などというよりも、社会で、中央官庁の、官僚になるか、大会社の、部長以上になるのが、コースだと、言う認識でした。私は、よく「親が美大へ、進学するのを阻止した」と、言って居ますが、親のせいだけではなくて、偏差値が高い方の人間として、自分自身も、将来社会の中で、エリートとして機能できるために、ある程度以上の有名大学へ入るのは、当然だと、思っておりました。親が反対したというのは、一種の方便的、表現であり、その日のB夫人のお話には深く共感をしました。読者の皆様におかれましては、『嫌味だ。威張り過ぎだ』などとは、思わないでくださいね。そういうコミュニティの中での、これは、お話なのです。だから、その小さい、しかし、エリートたちだけの、社会の中で、大宅映子さんが、私をいじめるために、使役をされるのですよ。
ただし、外人記者クラブでの、和気あいあいの、語らいという、この種の経験があるから、長谷川智恵子さんが、茨城県教育委員として、「妊娠中の、検査で、障害児を発見して堕胎をさせてしまいましょう。そうすると、茨城県は、余計な出費が少なくなります」と、発言した、現象(=謀略)も、この外人記者クラブでの懇談で、成立したと考えているのです。出席者は、長谷川智恵子さん(+ご主人)、塩見和子さん、渡辺幸子さん、栗田玲子さん、石塚雅彦さん、伊藤玄二郎などだったと、思います。(後注2)
さて、長谷川智恵子・問題は、単純な方の挿入であり、元へ戻ります。B夫人がその種の慨嘆をしたのは、それは、2001年か、2002年の食事会(=グループ展の準備会)だったと、思います。その同じ時に、B夫人とは、同期生であり、かつ、姻戚上のきょうだいでもある、A夫人が、こう提案してくださったのです。「あなた、アドビ・イラストレーターを習いたいの? それだったら、うちの主人ができるから、教えてあげますよ。我が家へ遊びに来なさい」と。
2001年か、2002年の事です。私は最初の本を、2004年だったかな、たった一人で、データを作り上げるのですが、それ以前ですから、この提案は、天にも昇るほどに嬉しいお話でした。それで、ご親切を受けることとして、鎌倉では、有目なお菓子屋である、鳩サブレーの豊島屋・本店で、珍しい和菓子系統のお菓子をあれこれ買って、訪問をしたのです。
これは、本当は素晴らしい助け合いの仕組みだったのです。その筈でした。しかもアドビイラストレーアーって、マスターするのが難しいソフト(または、アプリ)です。上に言って居る様に、偏差値優秀者の集まりだから、友達の間柄でも、教え合えるだろうと、言う見込みがあったわけです。
リカレントという学校では、アドビの、基本だけを教えるのに、他の事(=フォトショップなども)を含めてですが、一学期で、50万円の学費を取ると聞いている話ですから、この提案は、心底、ありがたいお話でした。
ところが、レッスンが始まると、思いがけない事が起こりました。レッスンの合い間、合い間に挟まれる言葉が、「あなたは、かわいい人ですねえ」というニュアンスが添えられているのです。ミスターAは、別に肩を抱くわけでもないし、髪の毛を触るわけでもないから、問題ないと考えておられるらしいのですが、私と奥様(=ミセスA)にとっては、薄氷を踏むような会話の連続でありました。もっとはっきり言えば、奥様にとっては煉獄の苦しみであり、私にとっては、地獄の針の山を歩くような二時間でした。
今の私だったら、はるかにおばさん度が、高くなっているので、「あら、いやだ。A様、それって、セクハラめいて、います・こ・と・よ。・・・・あ、は、は」と、かか大笑して、その場にある、ピンク色の気配を振り払ったと、思います。
しかし、これが、起きたのは、2002年ごろの話であって、優に、15年は前の事でした。私は世間の平均よりも、ずっと、ネンネだとも、親しい人に、言われています。人間観察は、非常に深いのですが、リアルな世界では、他人に、もまれていないのです。つまり頭は、敏感なのですが、リアルな世界では、敏感には、動かない方です。受け身で、過ごす方です。で、純真なままで、60歳まで来てしまったのですが、芸能人や、タレントに顧客の多い日傘さんに言わせると、「金星帯が、くっきりと有るので、芸術家であって、良かった。もし、専業主婦だったら、事件を起こしますよ」と言われていました。
それを、ごく、簡単な言葉に換言すると、私が過去によく使ってきた、そして、「酒井忠康氏の奥さんも、まさしく、そういう女性だった」と言っている・水・も・滴る・い・い・女・というのは、私も含まれるカテゴリーだったのです。しかし、一般の人は、それには気が付きません。私はニューヨークでの、アーチストの定番スタイルである、セーターと、スニーカーで歩き、顔は、ほとんどの場合、すっぴんで出歩く人ですから。銀座でも、それで、通している様な、人ですから。
ミスターAというのは、そういうカテゴリーに入る女を見つけるのが、上手だったのでしょうね。そして、ミスターAにとっては、「これは、単なる言葉遊びなのだから、問題がない」という認識だったと思います。が、私と奥さまの二人にとっては、ひやひやを通り越すほどの経験だったのです。
そのうち、奥様はたまらなくなって、二階へ逃げて行ってしまわれました。夏だったので、すべてのドアは、開け放たれてありました。だから、一階の声はすべて、二階に届くのです。それでも、一階に、ミスターAと、私の二人だけが、居る時間帯ができては、ミセスAを、更に悪い方へ苦しめることとなるだろうと、思って、私も二階へ上がっていきました。ご主人の方には、「ちょっと、お手洗いを貸してください」と断って置いたと、思います。
二階に上がったのは、無論のこと、奥様を、慰めたいと思って居たからです。ところが、奥様は、毅然として背を向けて、「あなたが、何をおっしゃっても無駄ですよ」と、背中が言って居ました。取り付く島がないとは、このことでした。私は呆然としながら、いろいろ、ものを考えて、五分ぐらい立ち尽くしました。『ここで、帰るべきだろうか? だけど、今、帰っちゃうと、私の方が、<ご主人を、批判した>ということになる。つまり、ご主人様の、過剰な女隙を固定化することとなる。無かったことにできなくなる。だから、帰るべきではない。だけど、奥様は、異様に傷ついておられる。本当に困った。でも、ここでは、ご主人の、女好き傾向には、気が付かないふりをするのが、ベストで、帰るべきではないのだろう』と、思いました。
そして、続けて、『世の中には、いろいろな、ご家庭があり、いろいろな、違った悩みがあるものだ』とも、思いました。それから、奥様が、ご主人に、文句を言えないという事にもびっくりしました。ただ、夫婦の間で、真実を語り合えないというのは、まま、有るのです。そして、私にも一部には、そういう傾向もあるとは、思いました。それはですね。隠しているというよりも、主人が、理解しようとは、しない部分があるからですが。・・・・・頑固なのです。柔軟ではない。
私の場合は、2016年、4月7日に、主人が心筋梗塞で倒れて、死ぬかもしれないという局面に達してからは、以前にもまして、猛然と、口喧嘩をしています。できるだけ、判ってもらおうと思って。病気見舞いに、主人の兄弟が来てくれたので、いろいろ、話し合ってみると、小さいころから、彼は、、非常に頑固だったという事はわかって、『何だ。私だけが、それに、参っているわけでもないのだ』と、明瞭になり、それ以降は、できるだけ、彼に、判ってもらいたくて、私側の真実の気持ちとか、真実の事情とかを、告げております。
ところがね。我が家には特殊な事情があります。盗聴をされて居るという事です。それで、夫婦が口喧嘩をしている話題は、必ず、狙われます。LED電球の問題など、まさしくそれで、青色ダイオードが、ノーベル賞になったのもそこから発してますし、
小池都知事が、LED電球を推奨する為に、白熱電球を二つ持ってきたら、取り替えると、言い始めたのも、今般の大宅映子さんの利用と全く同じ趣旨で、同じ人物たち(主に、石塚雅彦さんと、伊藤玄二郎と、成岡庸司君の三人だろうが)が、小池都知事を動かしたとみています。
さて、2003年の、現場に戻ると、このご主人のことは、本当に困った問題でした。というのもその後、ミセスAは、ことごとく、態度を硬化させたからです。それだけ、彼女が傷ついたということはわかりますが、彼女も苦労知らずの、ネンネだったと言えますね。だって、私は他人です。いざとなると、ここまで、書くわけです。というのも例の鎌倉エージェントは、ひどい事を続けてやってきています。この大宅映子を利用した後でも、4つか5つ、これをさらにフォローして、自分たちが勝つためのニュースが連続して、作り上げ、NHKに報道をさせて居ます。だから、私も対抗上、ここまで書かないといけません。残念ながら、そうせざるを得ないのです。
この霞が関ゴルフ場の女性会員拒否問題が、ニュースになり始めたのは、2日でしたね。その後、私が問題をゆっくり書いているせいもあるのですが、いじめてやろうとするニュースは陸続と作られているのです。だから、とうとう、ここまではっきりと書いてしまいました。
ミセスAは、私の能力の高さを知らないのです。工業生産し、工業的に、製本をした、私のホンも上げているのだから、私が、書き手として、または、思考者として、非常に高い能力があるのだから、私の方を他人として、警戒しないといけません。ご主人を上に立てて、他人である私の方を、無視してはいけません。私の方こそ、手当をして置かないといけないのです。
後日、私を誘い出し、私と2人だけで、お茶をして、委細を丁寧に、落としどころまで、持って行っておかないといけなかったのですよ。もう、間に合わないですね。でも、遅ればせながらでも、言っておこう。他人とは、そういうモノでしょう? だけど、世の中の人って、芥川賞をもらって居たり、直樹作法をもらって居たりする人の本は読んでも、身近な人で、社会的に無名だと、軽蔑するのでしょうね。だから、私の真実の能力はわかっていないのです。
私は長い間、このエピソードを書かないでいたのです。しかし、黒岩知事が「やまゆり園事件の風化を阻止するために、来年の、7月に、共生を目指す記念週間を置きます」と、発表をしたので、このエピソードを書き表してもいいのだと、思って居ます。何度も言って居る様に、やまゆり園事件で、19人死んだというのは嘘なんですよ。だけど、それがあたかも真実であるかのごとき、報道を、再燃するのは、このブログを潰したい連中の、策略的ニュースなのです。このブログの方が、嘘を言っているのだと言いたい連中(=鎌倉エージェント)の流すニュースなのです。
もちろんのこと、松沢成文氏時代から、神奈川県知事は、伊藤玄二郎の言うなりの状態ですから、単純にかつ、スピード感あふれて、このブログに対応してくるのです。
さて、ここで、8日に書いた、副題2-αという節を終わります。それは、一種の説明的挿入だったので、元へ戻ります。そして、これ以下は、初稿ですから、これ以降は、ミセスAも、ミスターAも、そのミスターAの実妹たる、ミセスBも、記号としてのイニシャルさえつけていない書き方となって居ます。
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しかし、他方で、他人の恋愛感情(この場合は、ミスターAのそれ)を、攻撃用の武器とする人物もいるのです。ここで、はっきり言うと、恋愛をしているのは、私ではありません。恋愛感情を示したのは、私より、7歳ぐらい年上の男性でした。そのことで、その男性の奥様(五歳年上の、国際基督教大学の卒業生)をひどく傷つけてしまいました。今より15年以上は前の事だったので、私も純真で、その奥様の感情を、緩めたくて悩んだのです。
で、新制作協会に当時、出品を重ねて居た、渡辺幸子さんという、一歳年上の画家に、相談をしたのでした。どうしてそういう事をしたかというと、彼女側も、私に対して、どうしようもない悩みというのを、いくつか打ち明けていたからです。だから、あいみ互いだと、思ったのです。
彼女の方の話ですが、一つは出世が難しいという事でした。美大の出身ではないので、公募団体展(=新制作)の中で、出世できないという悩みです。もう一つあって、それは、田沢茂氏の支配力への、悩みでした。
新制作の会員であり、彼女が絵を描く際に、指導をしてもらっている田沢氏は美大を出ていないのです。これは、年齢的に、第二次世界大戦に、青春時代が引っかかったので、仕方がない事ですが、学歴が無いので、どこかの学校に先生として、勤務するという事が、不可能でした。それで、給料が入らないので、収入の面で、不安定な方でした。一応故郷の、自治体から作品を買い上げるという形で、年間三百万円程度の収入は、あったとは、思うのですが、それと同時並行的に、閨秀画家を集めて、指導をする、レッスン料も、重要な収入源だったと思います。
田沢先生のお教室のグループは、湘南地方では、【アマゾネス軍団】と言われて、超有名でした。肩で風を切って歩いている集団でした。皆さん、美形の女性で、かつ背が高かったのです。つまり、戦中戦後の食糧難の時代に育っていながら、背が高いというのは、裕福な家庭の子女であって、わがままでもあるから、そういう女性たちを束ねて、指導をして行くのは、なかなかの苦労があったと、思います。で、小さな世界での政治力を駆使する人物でした。
渡辺幸子さんは、しし座の女なので、(私も同じですよ。苦笑)人がいいところもあるのです。その上、その集団に、一番新しい存在として加入をしていました。弟子としては、最も下っ端であり、新米です。それで、そこに目をつけられて、彼女をスケープゴートとして、振り回すことで、他の女性たちをも支配をするという構図だったと、思います。で、私は人間観察が鋭い人なので、田沢先生のそういう方針は読めるから、「そこはやめて、一人で、独立して、絵を描きなさい」と忠告をしておりました。しかし、彼女は蟻地獄に落ちた人みたいに、田沢氏の呪縛から、抜け出られなくて、堂々巡りをしているのでした。
その愚痴の電話を聞きながら、『ご主人様は、よく、できている人だなあ』と、感心しました。そのご主人様が、ゴルフ用品の会社の社長なので、今般の、大宅映子さんの、・・・・・霞が関カントリークラブでは、五輪競技を催すのは、止めなさいという、NHKニュースができた・・・・・のは、既に語っている事です。
大宅さん問題から離れて、渡辺幸子さんに戻ると、お子様方は外で、独立して暮らしているので、20年ぐらい前から、ご主人の世話をするだけでいいのですが、夜の10時でも絵を描いているのだから、物理的にもご主人の世話はしていないし、心理的にもご主人の事なんか放ったらかしで、田沢先生の事ばかり考えているから、それでも我慢をして、文句ひとつ言わず、喧嘩一つ持ち掛けてこない、ご主人とは、神様みたいな人だろうと考えたのでした。
そういう夫に対してさえ、自己中心的な、わがままを貫いている、渡辺幸子さんに、この、微妙極まりない話を解決してもらいたいと、思ったのが、そもそも、間違いだったのです。が、それが当時は、やむを得ない選択だったのです。2003年、当時、ICU同窓会展には、女性が4人しか所属しておらず、問題の、気の毒な奥様と、彼女の義理の妹しか、私達以外には、所属していないのでした。義理の妹の、ご主人こそ、その無神経極まりない男性だったので、この困った件を相談する人材が、渡辺さん以外には、いなかったのです。
その上、渡辺さんと、私は、他の男性やら、女性メンバーをすべて合わせた中で、突出した技量を示していたので・・・・・(というのは、私は、国展、女流展、神奈川女流展、神奈川県美展、などに、すでに、連続入選していたし、毎日展、上野の森大賞展などにもぼちぼちという形で、入選していたし、銀座での個展も三回、経験して居たので)・・・・・どうしても、渡辺幸子さんと、私が・対・で、他のメンバーからは、格上と、見なされる立場にあったからです。
しかし、渡辺幸子さんは、私の大作(100号S)を、初めて見た途端に、大きな動揺に駆られて、しかも、私が、彼女を出し抜いて、彼女より、上に立ちたがっていると、誤解をして、大変なレベルで、いじめてきたのでした。(後注1)の、副題3にその詳細を記述済みですが、彼女が裏に回って、電話を駆使して、私をいじめているというのは、芳名帳のコピーをこの会の時(2003年の2月)だけ、もらえないという事実を、突き付けられて、判りました。ここから先は、このブログの世界で、初めて書く話です。
そういう措置で、困る人間は、会の中で、私だけだったので、裏側が理解できたのです。今でも、その傾向は些少は、残っているのですが、私の主人は、私が夜にかけて、外出をするのを非常に嫌がります。それは、広島県の、呉という、造船の街(しかし、海軍が、無くなった今は、一種の田舎となって居る)で育っていて、父親が、造船所を、退社後、まっすぐ、5時20分には、家へ帰ってくる人だったからでしょう。
一方の私ですが、小学校四年時から、受験体制に入っていて、高校にも受験があり、大学にも受験があったので、子供のころから、夜更かしの夜型人間です。その上、父親がだいたい夜の11時過ぎに帰宅をする人でした。戦前から夫婦で、モボとモガを気どり、歌舞伎や浅草オペラ、宝塚などを見に行っていた、夫婦なので、夜遊び型なのです。街で過ごすのが好きな人なのです。そして、日吉の街自体も、夜の12時ごろまで、煌々と、している様な街ですから、親世代と、自分たち夫婦世代では、生活スタイルが、全く違っていました。私と、夫の間で、時間の、感覚が全然違うのです。
それで、海外へ行く自由など、この雪ノ下の家には、まったくないので、その海外修業のために、逗子のアトリエで、夜も寝るという一人暮らしをしていたのです。それは、1998年の12月から、2002年の初夏まででしたが、一人暮らしだから、海外にも研修に行けたし、逗子でも、長電話もできたし、夜の外出もできたので、ICU同窓会展の、会合や、活動に余裕をもって、参加ができたのです。
が、2003年は、違ってきていました。2002年の春に患った頚椎内神経損傷(猛烈に痛いもの)を、・・・・晩年は、職業を、サラリーマンから、鍼灸医に鞍替えをしていた・・・・主人に治してもらったので、それに感謝して、また、神様の啓示も感じて、大アーチストになることをあきらめて、すでに、雪の下の、自宅に帰って、主婦業を再開している時期だったので、不自由さがさらに増して居たのです。その上、渡辺家とは違って、当時は、子供が家にまだ同居するという形で、住んでいました。
この子供ですが、「母親が、逗子で、一人暮らしをするなど、勝手なことをするのは、絵があるからだ」という考えの、持ち主で、絵に関することで、夜にかけて外出をするのなど、大反対で、無理中の無理の行動だったのです。で、画廊の搬入と搬出は、土曜日が常ですし、午後五時から始まって、そのあとで、銀座から鎌倉へ帰るわけで、搬入も搬出も夜にかかります。だから、それに関しては、業者さんにお願いをしていました。
全部で、10人ぐらいが参加しているグループ展内で、土曜日に、銀座の望月画廊に、行かれないのは、私だけだったのです。で、当時の事務長さん(男性。一部上場企業を退社後の、人材)に、電話をかけて、「郵送料も含めて、費用は、私が、現金書留で、送りますので、コピーを送っていただけないでしょうか?」というと、駄目だとの事。で次に、「それでは、後日、お宅を訪問します。玄関先で、失礼をいたします。で、その時に、一時間程度、芳名帳を貸してくださいませんか? 近所のコンビニで、コピーを取って帰ってきます」というと、それも、駄目だとの事でした。
その言葉まで行って、『ああ、そうなのか、この発言の裏には、渡辺幸子さんの、讒言があり、それをこの人は信じているのだわ』と、感じました。と、言うのも、その困った男性をご主人として持つ、女性メンバー(8日に入ってからミセスAというイニシャルで呼ぶようになっている)と、この事務長さんは、同い年で、同じ学年だったからです。当時のICUは、250人ぐらいの学生を入学させましたが、帰国子女やら、AFS経験者は、英語の授業を免除されていて、別コースだったので、クラスは、24人程度で、しかも、50人単位とか、20人単位で、行動することが多かったので、同期入学者って、本当に仲良しなのですよ。しかも、渡辺さんのご主人は、学年はわかりませんが、そちら側に近い年齢で、しかも、国際基督教大学の卒業生なので、もう、この件では、『自分の立場と、尊厳の、挽回は、無理だなあ』と、感じて、私は、「では、仕方がないので、この会を脱退します」といいました。
私は瞬間的に、すべての裏側が理解ができるので、従って、自分の、身の振り方についても、非常に簡単なのです。その上、損得の、計算をしない人間なので、よりシンプルです。ただ、渡辺幸子さんにとって、この会など、屁でもない会なのですが、2003年の私は、来る四月末から始まる国展への出品を止めようと、決意していたので、画家仲間に、二月時点で、開催されている「ここに来てください」というお誘いをかけていました。木曜日までに、上條陽子さんが、見えていることは確認をしてありました。それ以降、土曜日までに、誰が、見えているかを知りたかったのです。礼状を出したいと、思って居ました。それを阻止されたのですから、渡辺幸子さんが、何を、他の人に言いふらしたのか? 想像に余りある出来事でした。
ところで、ここで、加筆をしますが、事務長さんは、私が辞めると言ったとたんに、「それじゃあ、もう、僕に電話をかけては、駄目ですよ」と、言いました。これはね。もう一つのトラブルに起因をしています。福田さんという別の女性会員が居て、この人と、事務長さんが喧嘩をしていました。
福田さんは問題のA夫人やその義兄弟とも同じ学年の女性でした。が、病弱な傾向があり、心身ともに不健康な感じでした。でもね、みすず書房か白水社のどちらからか、絵と文章の両方が入ったエッセイ集を既に、発刊をしている人であり、プライドは、非常に高い人でした。
ただ、純粋すぎるし、詩人でもあるので、やはり、わがままな傾向はあって、私も、事務長さんほどではないが、時には持て余すこともありました。福田さんからは、渡辺幸子さん以上に、堂々巡りの同じ話を聞かされていて、参ってはいたのです。大原麗子さんも電話魔だったそうですが、逗子で、一人暮らしをしている私に対して、電話を掛けやすいという事で、福田さんは、真夜中にも長電話をかけてきました。
その内容ですが、特に、事務長さんの悪口でした。事務長さんよりも、自分の方が先輩で、望月画廊も自分のコネで、紹介したのに、自分に対する尊敬の念が少ないという事で、不満があるのでした。それを、聞かされていて、かつ、取りなしてもらいたいという趣きも感じていたので、私の方が、動いたのです。というのも福田さんの父君は、戦死を、なさっていてね。それが、病弱の原因だと、ご本人もおっしゃるし、私もそうだと思ったので、取りなしてあげたいと、思ったのです。ICUって、恵まれたご家庭の出身者が多いので、片親で、戦争の、遺族だという事は、相当に、孤立化した方の、劣等感を感じがちな、立場だと、思ったので、気の毒にも思ったのでした。
で、そこから事務長さんと、私の間に、電話による会話が始まって、社会の事をいろいろ教えてもらったのですよ。これは、セクハラではなくて、一種のメンターという趣きであり、事務長さんは、後輩にいろいろ教えてやるという事には、喜びを感じておられたと思います。そういう風にして、人間は、書物以外の部分で、人を引き上げるものですから。・・・・
福田さんのお名前をここで、明記するのは、すでに、亡くなっているからです。病弱は、甘えるための口実ではなかったのでした。私が電話であれこれ、聞いてあげて、慰めてあげた、一年後ぐらいに亡くなっています。食事会や、展覧会そのものにも、参加なさっていなかった模様です。ただ、絵の才能はある方みたいでしたよ。詩の才能もあって、自分の方が、事務長さんよりも、芸術性は高いのだとは、信じて居て、そこに誇りはある方でした。
事務長さんが、「(あなたがこの会を)やめるのなら、もう僕に電話をかけて来てはだめですよ」と、言われるので、『あれ、ミスターAの件では、私の大悪口を渡辺幸子さんから、聞いていて、それを信じていて、芳名帳のコピーをくれないのだけれど、絵描きとしては、または、モノを理解するレベルの高さという点では、私の事は、依然、高く評価してくれているのかなあ。だから、あの会話は、事務長さんの方にとっても、楽しみだったのだわ』と、ちょっと、嬉しく思いましたよ。でも、その時点で、すべては終わりです。もう、撤回はありません。再び、会に入ることはないのです。
ただ、どんな絵が発表をされて居るかは、見たいと思って居て、銀座で、そのグループ展に、気がつけば、顔を出していました。が、神田の文房堂に移ってからは、ほとんど、見に行っていません。
芳名帳のコピーをもらえなかったという件では、どうしようもなかったのです。ただ、私はものを考える人間という範疇では、自分は、渡辺幸子さんよりはるかに上だと、言う自負はあります。彼女は画家として出世することに、全力を注入しているのですが、出世に役立つこと以外は、考えない人です。
さすが、元、スチュワーデスです。リアルな世界での、お金や名誉に結びつかない事は、無駄なこととして、捨て去る人なのでした。、
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副題3、『その後、鎌倉駅のトイレで、銀座の有名画廊、ガレリアグラフィカのオーナー栗田玲子さんに偶然に出会った。彼女は、私に向かって、<渡辺幸子さんが言って居たけれど、あなたって怖い人なんですってね>という。その時、瞬時に・・・・・不思議なことを渡辺幸子さんは、言うもんだ。2003年には、あれほど、自分の方が上に立って、激しく、いじめて来たではないか? その時は、彼女の方が、よっぽど怖い人だった。
その後、数年がたっているが、読売大賞展の、大賞も、幸子さんの方は、もらっている。それで、どうして私が怖いんだろう。後で、丁寧に考え直さないといけない・・・・・と、思った。
しかし、と、同時に、<おや、おや、栗田玲子さんって、浅薄だなあ。「あなたは、怖い」っていう価値観で、私の事を劣等な人間だと、決めつけ得て、へこませ得ると、考えているみたいだ。へえ、彼女の処世術って、この程度なのですか? 笑っちゃいますね>とも思った。<<<<<お抱え版画家、山本容子をNHKなどの、大メディアに売り込んでいる(これは、アンガールズの一人も出席したトーク番組で、ホテルで収録された、アガサクリスティー特集番組の事、・・・・・山本容子がイタリアから帰国したばかりだ・・・・・と、言う事を強調する番組だった)みたいだけれど、その裏にある手練手管って、この程度のものだったのですか?>>>>>と思い、非常に驚いた。
そのセリフを聞く直前だったけれど、私がJR鎌倉駅のトイレの個室を出た途端に、彼女が、大きな部屋自体に入ってきたので、その瞬間に、裏に何があるかが、私にはわかった。伊藤玄二郎と、銀座で、私に関して話し合って来たのだと、推察された。伊藤玄二郎は、すでに、柴田悦子画廊というところを、手中に収めていたが、そこだけだと、出入りする人間が、日本画系統が多いので、私をいじめるのに不十分だと、考えているみたいだった。で、栗田玲子さんに手を伸ばしたのだと、顔を見た途端に、判っていた。
というのも、私が美術専門の、ライターとしても、華やかだったころ、彼女自身が私に対して、にこにこしながら、こういったことがある。「主人が食事に誘ってくれたので、今から出かけるのですよ」と。これも策略上のセリフだったのかもしれない。というのも上に言っている通り、田舎で育った私の主人には、銀座で、特に夜、一緒に食事をしようと妻にいう様な発想はない。せいぜい別の親戚を交えて、銀座三越の、10階と11階に出かけるぐらいである。栗田玲子さんが、夫と出かける場所だと、ワインを込みで、二万円を下らない隠れ家的レストランだろう。しかし、別の人間から、こういう話も聞いていた。「栗田玲子って、一度離婚をしているんですよ。しかも相手から、捨てられたという形で」と。
私は付属中学とか付属高校という小さな定員の学校だけを卒業していて、大学も定員、250人以内だったから、一生を通じての同期卒業生が、小学校以来650人程度しかいないのだが、聞いている限り、離婚をした人は、4人しかいない。しかも、再婚をしたのは、その中のたった一人であって、しかも男性だ。しかも、これが、非常に重要な事なのだが、再婚後の連れ合いは、前の人よりも従順で家庭的な人なのだった。より地味で、思いやりの深い女性と再婚している。前の奥さんは、医者の娘で、しかも、才気煥発な人で、大学紛争時の、フリーセックスの挙句に、結婚をしたが、熱がさめたら、『しまった。この男より、いい男は、世の中には、いっぱい他にいるのだ』と、気が付いて、自分から去って行ったと、見ている。だから、この再婚は許したい。よく糟糠の妻と言うが、二度目の奥さんの方が、そちらのタイプで、一度目の奥さんの方が派手なタイプだったのだ。
しかし、栗田さんの場合は、一度目も、派手な、しかもモダンな男性だったと推察され、二度目も、そういうタイプだろう。そうすると一度逃げられたのだから、二度目は、相当に気を付けないといけない。相手に不満を抱かせてはいけない。それなのに、葉山に自宅がある人が、夜の10時半に、鎌倉駅に途中下車するのだ。おかしい。これは、決定的に、伊藤玄二郎と、会ってきたのだろう。話が銀座と、グリーン車内だけでは終わらなかったのだろう。
ああ、私は、ここで、伊藤玄二郎が、ひとたらし術を駆使している現場を見る事となるのだ。しかも、彼が、栗田さんをリクルートをするのは、対、私攻撃の為なのは、確実だ。この時点までに、栗田さんは、私を頻繁に攻撃して来ている。北鎌倉の画廊【ポラリス】の態度変化を思い出せ。あれは、無論のこと、栗田さんの指図だろう。
それが、これからは、更に頻繁になるのだ。しかし、自分が間違って居るといけないので、ここは、待っていて、個室から出て来る彼女の顔を見てみよう・・・・・と、思って待っていた。で、出てきた彼女の顔は、ぎょっとしていたので、自分の想像は当たっていた。彼女は出てくる前に、3分から五分程度、個室で、頑張っていたので、その間に、私の方を、先に自宅方向へ向かわせるつもりだっただろう。いわゆる「まいてしまおう」という行為だ。TV朝日の、警察ものの二時間ミステリーに、良く出てくるキーワードだ。それを彼女は使った。だが、それも、こちらは、読みこみ済み、想定済みだから、ずっと個室のドア外で、待っていたのだが・・・・
彼女がぎょっとした顔をしているのを見た途端に、私は、『自分の方が上だ』と、感じた。その上だと、言う思いのもとに、トイレの大きな部屋内で、何か言ったと思う。だが、その詳細は覚えていない。元来、リアルな世界では、喧嘩をしない主義の私だから、あたりさわりのない事を言ったはずだ。
特に自分の方が上だと、思って居るので、こちらからは、攻撃をするはずもなく、また、自分が真実考えていることも、言う筈もない。それは、大量の事であって、二、三分で、語れる様なことでも、ないから。
で、その短いやり取りの後で、二人で一緒にトイレの大部屋を出たら、長い廊下の先、20mぐらいを走って逃げるやせ型の、麻のスーツを着た男性を見つけた。夏の男性の服装として、麻が最も贅沢なものなので、伊藤玄二郎だと直感をして、人たらしの際は、最高のおしゃれをするのだと、考えた。その時、右側を歩いていた栗田さんが、この節の冒頭に置いた、せりふを発したのだった。
「あなたって、怖い人なのですってね。渡辺幸子さんが言って居たわ」と。私は内心で、本当に笑ってしまった。だけど、そういう笑い顔で、余裕をもって答えたわけではなくて、ただ、単純に、かつ、ぶっきらぼうに、「あら、人生経験をいろいろ、重ねているのだから、当然でしょう」と言い放った。栗田さんは、そのぶっきらぼうさと、ためぐちぶりに驚いたみたいだった。私には彼女の驚きと、不満が判ったが、フォローせず、改札を出て、黙って、小町通りに入る、鳥居をくぐった。
本当は、急に逃げ出した、伊藤玄二郎に対して、栗田さんが、どう出るのかを見たい気持ちもあった。彼女がどういう風に、伊藤玄二郎を責めるのか、また、伊藤玄二郎は、それに対して、どういう風に謝罪をするのか?が、知りたかった。
だが、過剰はだめだ。欲張りはいけない。トイレで、夜の10時半に、伊藤玄二郎と、栗田玲子さんが、同時に入っていたのを見ただけでも、天の、ご支援があったのだ。だから、それ以上、欲張ってはいけない。この事実を知ったことで、これから、先、物事の分析が、しっかりと、できる。推察ではなくて、事実として、伊藤玄二郎が、CIAのエージェントであることがはっきりしたのだからと、思った』
非常に長い福題でした。今からこれを、更に解説をして行きます。冒頭にあげた渡辺幸子さんの、「彼女って怖い人なのよ」という断言ですが、それがもたらす社会的効果に関しては、「別に、気にしませんね」というところです。だが、どうして、彼女がそういうのかを、哲学的に、考察する必要があるとは思いました。
で、彼女は、私を2003年の2月にいじめたわけですが、その際に、「じゃあ、やめます。身を引きます」と、言ったことが、衝撃だったのではないかと、考えました。つまり、私が身を引くことで、いじめたという事実が、固定化するのです。彼女にしてみれば、女性同士で、いじめたりいじめられたりするのは、スチュワーデスの世界では、当たり前のことだったのでしょう。いじめや、いじめられがあっても、やめられない事情が、それぞれのお嬢さんにあって、しがみついているわけです。だから、いじめは固定化されないわけですね。「あら、そういう事って、昨日は、あったかしら? でも、今日は今日よね」と流していく事案なのです。
しかし、私の方は、違うのです。どうも、非常に過保護に育ったらしくて、そういう風ないじめには出会った過去がないのですね。だから、流しません。非常にこたえます。で、逃げ出します。
ただ、単純に、弱いから逃げ出すというよりも、精神の、自由が、常に必要で、そのためには、我慢は大敵だからです。何かを我慢をすると、そこで、多大なエネルギーを取られます。
それでね、自分がやりたいことができないのです。何をやりたいかというと、考えることです。考えることが、自分にとって、一番やりたいことです。それを守るために、精神の自由が必要であり、その自由を確保するために、自分にとって、ここは悪い環境だと、思う処からは、さっさと逃げ出します。
グループICU展というのは、当時は私と、渡辺さんを除いて、趣味で、絵を描いている人の集まりでした。もっと、プロの段階である国展や、女流展さえ、やめようと思って居る、私にっては、やめることが損だとか、得だとか言う、判断がないのです。
一方で、【石にかじりついても三ねん】とか、【転石、苔を結ばず】ということわざもあります。確かに、私はどの分野にしても、お金は、儲けられないのですから、プロではなくて、何物でもないと、言えるでしょう。74歳にして、まだ、何物でもないのです。肩書は一切ないです。だから、今般、大宅映子さんを使役してきた石塚雅彦さんや、伊藤玄二郎が「どうだ、まったく格が違うんだよ。おまえが何を書いても、勝てないんだよ。それは滑稽なんだよ。おまえは大宅映子に比較をするとピエロなんだ」と、言って高笑いしていることも理解できます。
だけど、私は、この時、或る特別な事に気が付いたのでした。それは、勝ちは負けであり、負けは勝ちであるという事を。強さはもろさの、裏側であり、弱さは、ある種の強さであると。
そういう意識を最大限に、利用し生かしたのはガンジーです。私は別に政治運動をするつもりは、ない。だけど、栗田玲子、酒井忠康、石塚雅彦、古村浩三、塩見和子、大宅映子、秋山豊寛などの、人物が、本当にやった事、および、今、やっていることを頭に思い浮かべて、じっと静かに、考えると、
・・・・・何だろう。あの人達って、自分たちだけで、偉いと思い込んでいるのだけれど、スタップ細胞疑惑一つとってみても、・・・・・ばかばかしい事で、日本人を、低劣化する事に、引きこんでいるのに、・・・・・・そういうひどい事を、やっています。ばれないと思ってやっていますね。それは、私には見えているので、嘘をばらして、真実を書いて行っている最中ですが、やることなすこと、子供っぽく、すぐ裏が判る様に、やっています。
大宅健一郎、三輪喜久代、伊藤玄二郎らの、関係は、みんな私には、分かっているのに、『ばれていない』と思って、シャーシャーと、偉そうにして、テレビ画面を占拠して・・・・・と、思ってしまうのです。
まったく・・・・・今回の大宅映子さんの、「霞が関カントリークラブでの、五輪競技は止めなさい」は、ならず者の殴り込み・・・・・といった体たらくです。
だから、高枝切り事案で助かろうとした、鎌倉人士が、また、裏で、発案した事ではないかなあ? とも思います。周南事件や、やまゆり園事件の、乱雑さや乱暴さと、今回の流れも、そっくりです。フィールドはゴルフだったが、やっている事と、やり方は、恐れ入るほど、下品で野蛮です。そんな発案に乗って、霞が関カントリークラブをいじめる、大宅映子さんにも、特に言いたいのですが・・・・・成り上がり者めいて、見えますよ。おやめなさい。二代目でしょう。もっと、お上品になさって。・・・・・と。
だけど、このブログなど、大宅映子さんは読みもしないでしょうから、また、また、私を弾圧する為に、将来使役されることもあるでしょう。で、私の方は、また、また、将来、ここで、開示したことに似た様な事を書くでしょう。しかも、もっと、深く掘り下げて、取り上げることにもなるでしょう。
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副題4、『蛇足、大田区あたりで、ちょちょいのチョイ』
今、書き終わった途端に、思い出したことがあります。このグループICU展の初期には、本当に、私の五歳上のメンバー(=1957年入学組)が多かったのですね。イノセント(無辜)の人と思われる人は、イニシャル(といっても、Aとか、Bは、純粋なイニシャルではなくて、分別用の、単なる記号としての、命名なのですが)で、書いて居ます。政治的に、動き、謀略を用意し、または、その謀略に乗って、攻撃を与えてk他ひとは、実名で表記しています。それらの多数の登場人物の中で、もっとも、上品な性格と、風貌を持つ人は、B夫人なのです。
彼女は眼鏡をかけて居ますし、ファウンデーションを塗ったり、メイキャップをしたりしないので、一見すると地味に見えます。が、私には、一頭、他(地)を抜いて美しいと、思われる人です。そして、彼女が他言する述懐も美しいものばかりだと、記憶しています。
その彼女が、いつか、どこかで、「男の人の中には、病的に女好きな人がいるのよね」と言っていたのですが、それ、実のお兄さんの事だったのですよね。だから、A夫人は、私のアドビ・イラストレーター・レッスンの日以上の修羅場に、過去に面したことがあるのかもしれません。そういう過去の思い出の中の恨みが、一気に、まとめて、私に向かったとも思われるのです。
だってね、私はね。軽く接しているだけだと、「生活臭がない人ね。羊みたい」とか、「白兎みたい」と、言われている人なのです。弱く見える人なのです。それに、実際に、リアルな世界では、喧嘩をしない人だから。
ただ、今般の、エピソードでは、どうしようもなかったという部分があるのですね。A夫人も、私も、・・・・・どういう風に、ご主人をコントロールして、うまく、解決していくべきか?・・・・・がわからなかったというところがある現象でした。
しかし、今から語ることは、違う種類の事です。「これは、嫌なことを、おやりになりましたわね」という事が、B夫人に関してあるのです。彼女のお住まいの近所に、私の友達C夫人が住んでいるのですね。二人の間には、五歳の年の差があり、しかも卒業大学は違うのですが、どういうわけか、二人の間には、交流があるのです。PTA、または、地域内ボランティア活動、または、公民館などで行われるサークルで、ご縁があったのか?
そして、C夫人は私から去っていきました。
これは、残念なことです。ただ、『あんなにきれいで、上品に見えるB夫人も、単純な、うわさ話好きな、おばさんなのかしら? 本当は兄君の恥なのに、どういう風に、C夫人に、あの事案を伝えているのかしら?』と、怪訝に思います。そして、私の方が、B夫人のファンだっただけに、裏切られた様にも思います。が、交流の密度が、私と、C夫人との間よりも、B夫人と、C夫人との間の方が、地理的に近いので、必然的に、強くなります。ので、覆すことができません。だから、これも、常々言って居る五億円の被害がありますの、一環となって居ます。
CIAエージェントを相手にしていると、嫌な事ばかりですが、私は違う方法で、自らの楽しみを見つけています。そして、心を癒しておりますよ。ただ、その楽しみについては、どういう事を指すのかは、語らないで、置かせてくださいませ。すぐ狙われて、また、今度は、それを奪われますので。
ああ、蛇足として言いたいことは、もう一つあります。あのレッスンは、何の役にも立たなかったという事です。必死になってノートは取りましたが、ミスターAは、せっかちな方で、複雑な、アドビ・イラストレーターを教えるのには、不向きな方でした。いや、教えること、そのものが不向きだったかも。これは、頭がいい人に、固有の現象です。エリートさんであることは間違いがないです。
ただね、教え方が悪かったうえに、その日は、言葉によるセクハラが重なったわけですから、二時間過ぎても、頭の中には何も残っていませんでした。後日、別のところで、プロの先生に、少しずつ、分けて、教えてもらって、マスターしていったものです。
蛇足の3、・・・・・もう、間に合わないけれど、A夫人にも、「こうして、ほしかった」と言いう事はあります。私が二階に追いかけて行った時に、振り返って、小さな声で、「ごめんなさい。主人って、病的に、おんなの人が、好きなのよ」と説明をしてくださったら、よかったのですよ。そうしたら、私も小さな声で、「じゃあ、演技で、このままを続けた方が、いいんですね。奥さんは、すべてを判っておられるのね。だから、このままを続けて行っても、奥さんは、後で、怒らないわよね。私の気持ちも、判ってくださるわね。ともかく、私は、誘惑していませんからね」といったでしょう。そうしたら、その場で解決するから、渡辺幸子さんに悩みを相談することもなかったのです。A夫人も世慣れていらっしゃらない方だったのかなあ?
後で、ここに大量のリンク先を引っ付けます。それが、終わり、推敲も終わったら、書いた日付と、署名を入れます。なお、このブログの、2010年より、数え始めた延べ訪問回数は、3891293です。
ところで、今は、10日の午前、零時、03分です。やっと、推敲が終わりました。まだ、リンク先を見つけては居りませんが、推敲が終わったので、恒例の△印を、総タイトル横に付けておきます。
なお、このブログの、2010年より数え始めた延べ訪問回数は、3892762です。
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