夕方六時に以下の文章を、終点に到着とさせました。 誤変換が残っていると思うので、それは、後で、直します。
私は、日吉から、結婚によって、1968年に、引っ越してしまうのです。しかし、両親が居ることと、母に、幼い子供を預けて、歯医者さんに行っていたことから、その後、2017年ごろまで、日吉をたびたび訪問することとなります。
副題1、『日吉の局番は、044であった。また、町の規模にそぐわぬりっぱな電電公社のビルがあった。で、それも、第二次大戦中の大日本帝国海軍の影響であったと、10年ぐらい前に、気が付いてくる』
10年ぐらい前に気が付いたのですが、日吉に、地下壕があり、それが、中原街道の東側、武蔵小杉あたりまで、ぽつぽつと伸びていて、元、軍事施設だったと、言う新聞記事にです。
今、グーグル検索をかけると、毎日、24時間公開をしているそうで、普通の人がそれを見ることが出来る模様です。
今、この件であれこれ、調べて居ると、「親からの伝言だけど、昔、横浜駅の西側で、道路を掘り返して、電話線を埋め込んでいた。日吉と、横須賀鎮守府を結ぶ電話線だった模様」と、書いて在りました。
昔の電話って、有線だったのです。大日本帝国海軍司令部って、麹町区霞が関にあったそうで、そこから、横須賀への電話線は、すでに、既設だった模様ですが、新しい電話線を大量に敷く必要があったのでした。
そういえば、日吉の局番044は川崎とは別物で、独立していたのです。ある時期から、横浜市の市外局番、045に統一をされました。
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副題2、『ところで、この一文を書くにあたって、横須賀市の猿島軍事遺構とか、観音崎軍事遺構をご覧になる事をお勧めしたいと書いて居た。それは、自然と軍事遺構が一体となっている、美しいレンガ造りの、洞門がある。それは、どうも、明治時代から、作り始めていて、戦争が無い時期に作っていたので、建築にあたって、時間、及び、金銭的に、余裕を持って居たとみなすことが出来る。で、栃木県の大谷石の採掘跡と同じ様に、テレビ番組の収録に利用をされたりしている。そこも不思議な空間だが猿島も、非常に不思議なムードを持って居るので、もし鎌倉に日帰りで、よくいらっしゃる人があるのだったら、五回に一回は猿島にいらっしゃった方がいいとお勧めしたい』
ところで、電車で、いらっしゃる場合は、猿島を見物するだけで、時間を使い切ってしまうと、思うけれど、車でいらっしゃったら、観音崎の軍事遺構も御覧になったらいい。ミサイルと、核弾頭の、時代に、大砲を撃っていた砲台を見るのも、歴史を学ぶこととなる。と、私は思う。
その際にオプションとして、稲川会二代目組長石井某の、お城みたいな、お屋敷を西側の丘の上に見ることとなる。
それをご覧になると、今話題となっている、ビッグモーターの社長もほとんどやくざに近いのだと、理解なさることだろう。ある個人の家に大量のコンクリートで、防壁を作る。その発想が、見事に同じなのだ。デザインは違っても発想が同じなのだ。よほど、復讐を恐れているのだと、見える。それほど、社員の正当な労働報酬を巻き上げて、自分の富としたのだった。やくざの方は、町の商店街から、みかじめ料というのを取っていると、聞いている。
また、防衛大学校も、その西側の丘の上にある。もし、ホーム頁を開いて、文化祭とか体育祭と、あなたが車で、観音崎に、いらっしゃる日が、重なると、一般人でも中に入れる。車ならとても簡単だ。防衛大学校は、今、あれに荒れているそうだが、50年前に見た棒倒しは、迫力があった。青年たちのエネルギーを感じたものだった。
こういうことは観光案内書には書いて居ないが、住んでいたからこそ、発見した事であり、皆様にもお伝えして置きたいと、思う。
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副題3、『日吉の軍事遺構は、訪問をしたことが無いのだけれど、今、見ると、写真等が、ネットに掲載されていて、人々の感想が多数載っている。私が、その写真を見て、感じたことは、・・・・・コンクリートでできているなあ。是では、猿島よりも、見かけが汚い・・・・・と言う事だった。』
コンクリートで、作っていると言う事は、猿島よりも、急造の工事だった事が判る。大日本帝国海軍司令部は、麹町区霞が関にあったのだが、それが、空襲に逢う事を恐れて、日吉の慶応普通部(旧制中学)の校舎とか、大蔵専門学校(のちに慶応の理工学部となる)の校舎を借りていたらしいのだが、
日吉には、丘陵地帯と、田んぼ地域が、混在していて、丘陵地を、横穴を掘って、洞窟を作ることが容易だったと、推察され、それで、帝国海軍司令部は、日吉の丘陵地に、南側、もしくは、東側の平坦地(戦前は、田んぼ。または、畑だったと推察される)から、横穴を掘っていったのだった。
これは、地上戦が展開した沖縄の、塹壕(人々が自決したとか聞いている)とは、違って、人口の手が加えらえれている壕である。ところで、この以降群を、労働者として誰が作ったのかが大問題なのだけれど、その前に、東京の、皇居が焼けたのかどうかが、私には、問題になって来る。
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副題4、『皇居というのが、江戸城無血開城後の、徳川幕府が、使用していた建物を使っていたのだと、推察しているが、それが、どういう風に消えたのかは、長年私にとっては、疑問の対象だった。
特に、新宮殿が落成して、披露をされたニュースを見て、長和殿(エリザベス女王をお迎えした、晩餐会が開かれた部屋)とか、各国代表と、二国間で懇談をされる石橋の間とかが、ニュースに出てくるたびに、不思議なことだと、考えて居た。その新宮殿とは、準備を重ねたうえで、1968年以降披露をされ、使われる様になったと、考えて居る。
:::::::::ここで、或るニュースをコピペして置こう。
皇居新宮殿が完成
35年の閣議で決定され、39年6月に着工された新宮殿が14日に落成式を挙げた。鉄骨鉄筋コンクリート造り、地上二階地下一部二階建て、高床式の正殿を中心とする床総面積22,949平方メートル、造園費を含めた総工費130億円(建物坪当り110万円余)。
登録日: 2014年04月14日 ::::::::::::
こういう記事を見ても、古い江戸城がどうなったのかの疑問は消えなかった。
ところが、2023年8月6日、つまり本日、とうとう、真実に到達した。中央区のホーム頁に、数値が明らかになっている空襲の記録が残っていたのだった。
1945年5月24日 東京にB29の大空襲、皇居炎上(5月24日から5月25日の空襲で都区内の大半焼失)
昭和20年(1945)5月24日は、東京の山の手地域と空襲で焼け残った町全体を目標として、525機のB29が渋谷・世田谷・杉並・目黒・大森・品川地域を爆撃した。さらに、翌日の25日深夜には、まだ焼夷弾による被害を受けていない東京の残存地域を目標として、470機が高性能焼夷弾3000トンを投下した。被害は、山の手方面を中心に南多摩・北多摩にまでくまなく及んだ。
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いや、本当にびっくりした。1945年3月10日に東京東北部の、いわゆる下町に、空襲があり、10万人が死んだと言う事は知っていた。
しかし、中央区の高台(いわゆる山の手)も、空襲の被害に出会い、皇居(当時は宮城と呼んでいた)も喪失していたとは、知らなかった。
中央区のサイトで、皇居も消失したことを知り、その後、
https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/ というサイトも見つけ、東京への空襲の実態を知った。
早乙女勝元という作家が1945年3月10日の悲惨さを、訴えているので、下町の空襲は、知っていたが、それ以外は、知らなかったのだ。
父が、賞に位の時に、東京見物に連れて行ってくれたのだけど、、霞が関、日比谷、大手町を、散策したので、空襲の影響は、見たことが無かった。
空襲の影響というと、横浜中区、関内牧場と、言う呼び名を覚えている。今の長者町を中心に、あたりは、建物は、一切、焼け焦げて残渣しか残っていない上に、金網で、接収地帯であることが明記されていたので、その惨状は、しっかりと覚えている。しかし、東京と同じく、もっとも高級な地域は、空襲に逢っていなかった。ホテルニューグランドを中心とした、山下町一体と、元街や、中華街、馬車道、住吉町、あたりは、空襲に出会っていなかった。
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副題5、『昭和天皇という方は、1945年5月24日と、25日に行われた東京大空襲の、被害を目の当たりになさったのに、と言う事は、同義として、ご自分の住居が空襲で燃え、中央区、銀座あたりまで、消失し、炎が、東京の空を真っ赤に染めたのにもかかわらず、終戦(敗戦)を宣言なさらなかった。どういう事だろうと、私は推測しかねる。天皇ご一家だけれども、平成天皇ご夫妻(幼名、明仁殿下)と、令和天皇ご夫妻(幼名、徳仁殿下)は、問題があっても、小さいと感じるけれど、昭和天皇は、どういうお考えを、この空襲に対して、お持ちだったのだろうか?
ポツダムで、「こういう形で、あなたが、以降、処理をするのだったら、戦争終結を認める」という宣言が、発せられたのは、7月26日だった。だが、それに対して、鈴木貫太郎内閣は、無視をしたので、広島に、8月6日、長崎に、9日に、原爆が落とされた。長崎は、少し、性能が違うと言われているが?
5月24日と、25日の東京大空襲は、ほとんど、ニュースとなることが無い。NHKニュースが、記念日としての、人々の集会を、報道したこともない。
私は、もし、昭和天皇一家、及びごきょうだい一族がお堀内の、宮城にいらっしゃって江戸幕府以来の、高価な金箔張りのふすま等が、燃えて行くのをご覧になったうえで平気であり、何も動かれなかったというのが、もし本当なら、不思議極まりないのだ。
これから先は、例の見てきた様な嘘を言いの一つだけど天皇ご一家、及び、天皇ご一族は、すでに、那須御用邸、もしくは、葉山御用邸に避難あそばされており、5月24日と、25日の大空襲については、何の、情報もご存じなかったと、も、言える‥・・・のではないかと、感じている。
だからと言って、ポツダム宣言受諾を遅らせてしまい、広島と、長崎に原爆が落とされた責任から、昭和天皇が逃げることはできないと、思う。今、広島慰霊祭などが、大きくNHKで、報道をされているが、日本人の一人一人が、
戦争によって受けた被害は、広島、長崎の人人だけが、顕彰をされて、国家予算で、原爆症を直してもらえる事で、終わるとは思えない。
現代社会は、矛盾だらけだ。私は、ウクライナ戦争をNHKが、報道をするたびに、あの戦争で、武器製造業者は、儲けるのだろうなあ。5月24日と、25日は、ウクライナ戦争、特にプリゴジンの発言云々などは、報道をしないで、東京大空襲についての、報道をするべきだと、思っている。現代史を正しく、若者が学ぶことは必要だと、思っているし。
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副題6、『ここで、日吉台遺構にやっと戻る。私が、注目するのは、そのコンクリート製の長くて広い壕を掘ったのがだれか?ということだ。
それは、当時は、日本支配下の植民地だった、朝鮮半島からの、強制執行で、連れてこられた、労働者だったのでは無いかと、思っている。
それで、これから先は、具体的に、ある男の子と、その両親と、その一家、一族の、繁栄と没落を書いていきたい。ちょっと、小室圭さんにもつながっていくので、なかなか、大きなことだと、言わせていただきたい。
私は、日吉台小学校を、1955年に卒業をしているのだが、五年と六年の時期に同級生として、花村君という男の子がいて、乱暴で、クラス中が迷惑をしていた。私自身は、女の子だったので、彼から、狙われて、ぶたれたり、叩かれたりしたことはないのだけれど、同級生で、頭が良くて、顔が、きれいな男の子が狙われて、しつこく、いじめられていたし、それが原因だったか、転校していったので、花村君の事は、大きな印象に残っている。
ところで、これから先に書くことは、前報で登場する、北村充子さんが、1985年の夏にわざわざ、京急堀ノ内駅近くの自宅へ私を呼び、したたかにいじめた事を、機縁として語っている。彼女は音楽については、知識と才能があるが、文章を書くと言う事については、何も知らない。だから、自分が行ったことが、どれほどに、大きく発展をしていくかを知らない。彼女を出発点として、小室圭君 X 眞子様の結婚の真実にも触れて行く。
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副題7,『花村君というのは、現在、ニチモコーポラス1号棟から、五号棟までが、建っている、地域に住んでいた。ニチモコーポラスは、築50年だと聞く。その年数で、現代史上のいろいろな事が判って来る』
在日の出自を持つ人たちの内で、自分の資金をもって、ビジネスチャンスを求めて来日した人もあるだろうと、私は言っています。花村組の社長とは、そういう人の一人だったと、推察しています。で、戦前から、日本人を正妻として手広く事業を行っていました。仕事は、土木建築業・・・・・で、日吉の軍事遺構を、掘る作業員を手配していたと、考えます。だから、日吉の、軍事遺構を掘った人たちは、強制連行組ではなくて、ミスター花村が、半島より、募集してきた、男性たちだったのではないかと、推察しています。
とても頭がいいので、線路際の田圃を、2000坪ぐらい買ったのだと、推察しています。戦後すぐだったか、戦時中だったか、戦前だったかは知りません。そこは、日吉によくある低地でした。花村氏が、買ったころは田んぼだったと、推察しています。私の父が、東急の分譲地を、戦後1950年ごろ勝った際に、一坪600円で、ひと区画、100坪が、6万円だったと言っていました。(なお、2019年に売るころ、それは、一億円を超えていました)
その土地は、花村君の家よりも駅からの距離は、三倍ぐらいの遠さがあり、通勤のためには価値が低い土地でした。が、丘の上のひな壇だったので、ひと区画、5万円から、6万円で、売り出されていたのです。比較すると、花村氏が、買った土地は、低い場所だったので、駅から徒歩五分でしたが、2千坪で、5万円ぐらいだったと思います。
ニチモコープラスは、日吉駅から、徒歩五分以内なので、賃貸やら、売り出し用物件が出ていて、築50年と、書いてあります。すると、ミスター花村が、自分の事業を終わらせ、ニチモにその土地を売ったのが、1970年ごろだと、なります。花村君の母親は、継母でしたが、すでに、1954年ごろに、50代だったので、父親も、60代に達していたと、推察され、ニチモに、その土地を売ったころには、すでに、75歳を超えていたと、推察されます。
しかし、高齢ゆえに事業をたたんだと、言いうよりは、花村君がやくざ組織に入り、かつ殺されてしまったと、言われる年が、そのころだったのではないかしら。1970年というと、私が、28歳です。やくざに入って、殺されてしまったと言う花村君も、28歳。なんだか、当たっている様な気がしてきます。
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副題8,『花村君の不幸とは、継母が、自分の地位を守る為に、「この子は、自分が育てます」と、旦那さんに宣言した日から、始まったと、私は、考えて居る。継母は、日本人なので、書類を作ったりすることが出来て、ミスター花村の事業展開に、相当に貢献したと、考えられる。役所の許可が、必要な仕事も(し尿処理業など)手広く、かつ、数多くやっていたからだ。でも、ミスター花村は、金持ち男性の例にもれず、どこかの繁華街で、遊んでいたので、新しい女性との間に、子供が出来た。ミスター花村は、当然、糟糠の妻を離婚して、この新しい女性と彼女の生んだ男の子といっしょのあたらしい婚姻関係に入りたいと、願ったはずだ。ただ、1942年生まれの花村君は、戦時中に生まれたお子様なので、彼の継母(日本人妻)は、自分がどれほどにミスター花村を助けているかと言う事を強調し、
かつ、子供は、自分が育てますと、宣言をしたのだろう。何がどう違うのかは、説明ができないが、私にも、すぐ、花村夫人が、”だめ、お母さんだ”とは、わかった。週に三回ぐらい学校に来て、担任の先生と話し合うのだけれど、それは、歌舞伎を見物に行きますと、同じ類のミセス花村の趣味であって、花村君をかわいいと思うからすることではなかった。
結局、花村組が消えていったのは、後継者が、やくざになって殺されたと言う事がショックとなり、事業を継承していく意欲を社長が失ったのだと思う。
私は前報で、捜査対象となるべきで、逮捕されるべきなのに、逮捕されない悪人、または、悪女が居ると、言っている。それを発言した裏には、飯島愛が居たのだけれど、この花村家の悲劇を見ていると、妻(日本人)が、一番悪女だと、なる。
花村君は、見事にも自分とは、正反対の位置にいるお子さんをいじめていた。・・・・・社宅に住んでいるけれど、お父さんは、東大卒で、三菱重工勤務、お母さんはきっと東京女子大卒でしょう・・・・・と、そういう感じの、顔のきれいな男の子を捕まえては、殴ったり、たたいたりしていたのだった。
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副題10、『小室圭君が、突然に浮上した時に、いろいろな、情報も付随して出て来た。中に母方の祖父が、日吉の製缶工場に努めていたというのが出て来た。私は、日吉という街を相当に広く散歩をしているつもりがある。日吉には、東西に細長い二つの丘があって、それが、東では、慶応大学あたりで、突然、切れているし、西では、サンヴァリエという公団住宅が建っているあたりで、突然すとんと、落ちている。その二つの丘の間は、昔は田んぼだった。今は、すべて、住宅街になっている。その田んぼの中に、大塚製靴の工場があって、時々開放して、靴を安く販売してくれると、言ううわさがあった。
しかし、それ以外に工場などないと、思う。製缶工場など昔からなかった。で、それこそ、花村組の庭を、見た、お母さんが、誤解したのだと、推察している。花村組は、社長が、2000坪を買ったのだと、推察している。が、二千坪に建物は一棟だけだから、広い庭があって、そこに使用済みの一斗缶が、山積みになっていた。1950年代というのは、プラスチックというものが無かったので、液体を入れて運ぶのは、食料用油も灯油類などの、燃料系(石油系)も、一斗缶に入れて運んだのだった。その使用済みのものが大量に花村組の庭に置いてあった。
それを見た幼い日の小室君の母が、誤解をしたのではないかなあ? 花村組は、1970年までは、活発に事業展開をしていたと仮定すると、時制も合致して来る。
私は、小室圭君とは、皇室を、壊していくために選ばれた、男子だと、思っていて、困ったことだと思うけれど、女子高育ちで、男性に対して、免疫のない眞子様は、小室君の、ちょっかいに、まいってしまったのだから、二人は結婚をした方がいい。あそこで、別れさせるのは、良くない。しかし、眞子様が、将来離婚をしたいと願う日もやって来る可能性がある。そうしたら、自分の心に従って、行動なさったらいい。
私には、皇室を守ろうなどという義務は、負わせないで、いただきたい。もう、自分の事で、精いっぱいだ。
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