副題1、『私は、本当にUSスチール買収劇には怒っている。それとともに、2024年10月5日に発覚した内田竜生医師と、関東労災病院放射線科を使った、偽の肺結核を使った私自身への暗殺未遂事件にも起こっている。その前から、起きている、8月2日発生の全財産盗難事件、および、カードや、通帳の再発行願いを、拒否し、あまつさえ、取引を、銀行側から拒否しますと、言った、MS 柴田、と、その前段階のいじめを行っている、Ms 今野、+ 後で、名前を入れる、威張りかえった、30代の、Ms X、に対しても怒っている。そして、このような異常な状態を引き起こした、材木座在住の元富士銀行勤務の MR 八尾(後で下の名前を入れます)に対しても怒っている。その人は2024年の1月に亡くなったそうだが、たぶん東大卒であり、10年以上前から、私の悪口を、みずほ銀行鎌倉支店支店長に、いっているはずだ。(これは、まだ、最後まで、書いていない。が、2024年10月26日の八尾未亡人=お茶大付属高校同期生=の銀座のレストラン内での」態度で、ほぼ推定が正しかったと確信している。・・・・・これも文章としては、未完だが)
最近の謀略事件としては、猪口家大火災があったがあれはご主人も長女様も死んでいない。(これも未完)
本日、2025-1-16のNHKニュースでは、北九州、中三女子刺殺事件を蒸し返していたが、これも嘘ですよ。そういう少女はいないのです。(ただし、まだ、文章は、未完です)
ウーム。これでも、百分の一ぐらいの話しか、していないのですよ。ただ、もう、心臓がどきどき、激しく脈打ってきました。
私自身の健康に悪いのです。
でも、次から、次へと、嘘と謀略を重ねる、鎌倉エージェントの悪を書かないと、この世界が、完結しません。でね。鎌倉エージェント(=CIAの、日本人側代理人、)のうち、伊藤玄二郎は、純粋日本人でしょう。彼は、従五位を、拝受した、伊藤整の婚外子だと推察していますが、伊藤整は、一応チャタレー裁判で、国家をおちょくったので、CIAに大切にされたのですが、それでも、純粋な日本人だと思っています。
その伊藤玄二郎が、強い影響力を駆使して、対・私への攻撃者として、仕立て上げた。大物が、もう一人います。
この人は東大閥には所属せず、慶応閥に所属している人ですが、だから、水沢勉氏などとは、超親しい間柄です。水沢勉氏のおっちょこちょい言動は、むろん、この美術界の大物が裏にいて、彼の教唆で、行われたものでしょう。
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副題2, 『この人と距離一メートル以内で、一時間半接したのは、1992年か1993年のことだったと思う。または、1884年か1995ねんだっただろうか? まだ、文化庁の在外研修でパリにも行っていない時期であり、ニューヨーク二回の私費による版画研修も行っていない時期であり、アーチストとしては、ぺいぺいだった。自分でも自分が無名の存在であることはよく知っていた。
場所は、プリンスホテル(湘南七里ガ浜の大宴会場)、テーブルは、六人掛けで、主催者は、鶴岡八幡宮様、白井宮司様の退任を、慰労し、新宮司、吉田茂穂さまのお披露目とお祝いの回だった。
::::::::::ところで、ここで、挿入に入る。鶴岡八幡宮様が、現在の鶯吟亭の土地(川口順子元外相の実家)をお買いになる際に、地境確認にいらっしゃった。池田正宏・権宮司様を頂点とする有力神官たちが、5,6人が我が家の南側の庭にいらっしゃった。金襴緞子の袴をはいてだ。
玄関のベルを押されたと思われるが、それは、庭で絵を描いていると聞こえない。で、神官たちは、だれもいないと思って、はいっていらっしゃったのだが、庭(誰からも見えない・・・・東京圏では、ありえない環境の庭だが)で、大きな絵=100号から120号までを、7枚ぐらい描いている私をご覧になって、びっくりなさった模様だ。私の方も、本当にびっくりした。
私は版画の小品と油絵の小品を見せただけで、ニューヨークの美大の大学院へ入学許可を受けるほど、本当は美術の才能がある。父は満鉄総裁室、甘粕満映理事長の部屋、ラストエンペラーの宮殿を飾るほどのサラリーマン絵描きだった。満鉄所属の石油技師だったが、運賃がただなので、週末は母と一緒に北京あたりまで、遠征していたらしい。安井曽太郎先生に激賞されていた。それを証明する新聞の切り抜きも写真類も全部我が家から盗まれている。
そういう泥棒たちのトップにいる警察とか伊藤玄二郎の言うなりに動いて、警察のスパイとしての、金田祐子さんを、私のもとへ送り込もうとし、かつそれが失敗した後で、テレカクシなのか何なのかは知らないけれど、卑猥な冗談を、私に読み取れる形で、ネット(今のメタ)で、金田裕子さんと交わし、公開した瓜南直子さんを、徹底的に嫌い、軽蔑しているのは当たり前の話だった。
ところで、私は、水沢勉氏には、いい作品を見せていない。で、彼は、私の本当の姿を知らない。また、今日の文章の主役(大物美術評論家)も、私の作品を知らない。
京橋三丁目にあったギャラリー山口のオーナーみつ子さんと私は、目だけで、会話するほど、深い仲だった。だが、画廊を閉鎖する予定があった、2010年1月31日の、画廊閉鎖の二週間前に、彼女は、殺されてしまった。
これは、つらいつらい事だったが、詳細に、理由やいきさつを書いている。ここでは繰り返さないが、CIA連中が、山口みつ子さんを殺したからこそ、CIAのいう事を聞いている鶴岡八幡宮の、吉田茂穂宮司様を叱るために、天が、大イチョウを投下させたと、考えている私は、2010年、または、やむを得ず、奉書紙が来た、2011年を最後として、ぼんぼりの献灯をやめてしまった。
実は、美術界で有名人でもない私は、ぼんぼりの献灯へ、まねかれる立場でもないのだが、池田正宏さまが、私が国展(連続入選している)とか、女流展(これも連続入選をしている)に出すために準備中の絵を見てびっくりなさって(実はアーチストとして、実力は高いのですよ、あ、は、は。」)招いてくださったのだ。だが、そのせいか、池田さまは鶴岡八幡宮の宮司になることができなかったのではないかと、ひそかに、悩んでいた。年若い、吉田茂穂宮司に追い抜かれてしまったと思って、これも、山口みつ子さん他殺と同じく、私が、大物であるが故の苦しみだった。
ところが、池田さまは、横浜野毛山の、県立音楽堂近辺にある伊勢山皇大神宮の宮司に任官あそばされて、よこはま市民から厚い崇敬を受けていると知った。その神社は、前の宮司一族が、投資(ホテル等)に失敗して破産宣告を受けていたのに、池田さまが就任して、すっかりきれいになさったそうだ。池田さまが白井宮司の跡を継がれたら、鶴岡八幡宮にも、今ほど無残なことは起こらなかったと思う。
一番無残なこととは、参拝客の質が落ちたという事。数も少なくなっている。今の八幡宮様は、しっかりした中産階級の、シルバー世代の崇敬を受けていない。それは、神奈川県(立)近代美術館を葉山に移転をさせてしまったことにも大きな原因があるだろう。
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副題3、『実は葉山の美術館の前の持ち主は、関東大震災の時に、ある思想家を殺しているという噂がある。都市伝説の一種として片付けられているが、わたくしは、本当だっただろうと思っている。どうして、本当だったと思うかというと、代理の犯人を名乗り出たのが甘粕大尉だったからだ。
当時甘粕大尉は、大船に住んでいたのだろうと、私は判断しているし、殺害は、葉山の有名な料亭で行われたので、大船、葉山、三ガ浜と、三点を結んで、甘粕大尉が、諸事、うまく始末して、一般庶民の目からは、本当の殺人者を隠したのだった。どうしてこういう風に判断をするかというと、甘粕大尉が終戦時、ヒ素か、何かを呑んで、自決したからだった。
甘粕大尉は、もし自分が軍事裁判にかけられると、真犯人の名前を自白せねばならない。その料亭で、働いていた従業員とか、真犯人の家来、甘粕大尉の部下(例えば運転手)などは、真犯人を知っているから、軍事裁判が始まれば、彼らが、真実を語るかもしれない。となると、それは、甘粕大尉の美意識に反することなのだ。自分はあるえらい方(まあ、普通はやんごとなき方と、いうが)を守るのが使命であると、いう美意識だ。まあ、そういう風に演繹を重ねると、三ガ浜の美術館とは戦前から呪われた地だったと、なってしまう。
美術館の三ガ浜への移転は、美術館にとっても、鶴岡八幡宮にとっても、一般市民にとっても大損失だったのだ。代替策としては、我が家の東側を削って、地上五階建て、地下二階建ての建造物を新しく建てれば、すべての人々がラッキーだったのだ。だけど、瀬島隆三は、美術家として、私が伸びていくことさえ嫌ったのだった。
この移転計画は、瀬島龍三、今日の主役、吉田茂穂氏の三者の懇談で決まったのだが、今日の主役は、なんて、物を考えない、ダメ人間だろうかと、思う私は、はっきり批判をしておこう。
で、なぜ、実名で書かないかというと、誹謗中傷を、SNSですると逮捕されるという法律ができたからだ。
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副題4、『今日の主人公は名家の出身である。戦前だったら華族様だった。江戸時代だったら、お殿様だった。しかも譜代大名として、徳川幕府の信任が厚く、全国五か所に、分封をされて五か所で、お殿様をやっていたのだった。江戸時代、長男ではなかった人は有名な画家になっている。
で、名家の人だから遠慮をしていますか? いいえ、全然違う。じゃあ、美術界に未練があるので、有名美術評論家を敵に回したくないのですか? いや、それも違うって。
彼の欠点は、女を好きだという事です。見境なくセックスをする人だという事です。ただし、芸能人だったら、それを・・・・特に目撃談を・・・・・SNSで書いても許されるでしょうが、文化人とか首相となると、許されないらしいですよ。それを踏まえて、冒頭から、実名を伏せています。
ある日、小町通りを歩いていると、目の前を件の、有名人が歩いていました。30年前は、プリンスホテル七里が浜で、完璧に無視された私ですが、その後、メルマガ、ブログ、紙の本の出版と、続けてきていて、「すごく筆力が高い。彼女に失礼なことをすると後で、書かれてしまう」という事が、浸透をしているらしくて、その一時間前、葉山の美術館で、会話を交わしたばかりでした。で、その時と同じ調子で、話しかけたのに、まったく無視をされました。だが、その無視は、その時のさらに、10年前に当たった、プリンスホテルでの無視とは、まったく違う雰囲気でした。「えっ。どうしたんだろう」と思って、なおも見つめ続けていると、彼は、小町通りから、西側の小路に入っていきました。すると、後ろから、50代と思える、女性が付いていこうとして、こうじに入っていきました。しかし、後ろの女性のほぅは、ちらっと振り帰って、えも言われぬ、微妙な顔をしました。
その時に、『なあんだ。そうだったの』と、すべてがわかりました。彼が分け入った小路の先に、有名な喫茶店、ミルクホールがあります。その隣に、地味な和風旅館がありました。素泊まり3000円ですって。どうして、それを知っているかというと、そのころ、自宅では、パソコンを使えない時期で、私は安全に、マイクロソフトワードの仕事が、できる場所を探しぬいていたのです。紙の本への編集を邪魔されぬいていた時代です。正座がすでに膝には、きつい時期でしたが、それでも、外から、ファイルが壊されることに比べると、ラッキーな場所です。しかし、インターネット環境はないという事で、使うのをやめておきました。でも、・・・・えっ、ここって、ラブホテル代わりに、鎌倉の人は使っているのだ。まったく宣伝も、広告もないのだから、観光客は気が付かないでしょうしね…‥と、理解しました。
その時に、私は、この人がすでに、離婚をした人であると知っていました。そしてある事情から、現在の奥様(つまり、彼が新しい恋愛で、見つけた相手のこと)も、知っていました。非常に驚きました。病的にセックスが好きな人で、またそれに応じる女性もいるのだと、気が付きました。
これが、宮沢みきおさん一家、惨殺事件に結びついていくのですが、すでに、午前五時になったので、ここで、筆をおきます。なぜ、あの陰惨な事件と結びつくのかは、また将来に語りましょう。
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