私は、今、書きたいテーマと言うか、書く事が、非常にたくさんあるのです。
*1)、
でも、先ほど、前報の、中の蛇足2と言う部分を書き始めたら、60年前の事なのに、割と、きちんと整理できそうで、取り組むことにしました。
こういう行動に駆り立てているのは、この雪の下二丁目、真北に、住む、渡辺賢司・みか夫妻です。誰かかからの教唆命令でしょうが、12日の夜、対私攻撃を一手に引き受けて、夜の11:08分まで、シャルリーエブド事件以来始まったオレンジ色の(門灯、)玄関灯、(台所灯)を、つける攻撃を、やっていたので、いよいよ、・・・・・この山の連中の首根っこを押さえることができる話・・・・・に入ろうかなあ?と、思っているのですが、本日の私は、そのケースのさらに60年前、1960年の、京急生田駅近辺(今の北久里浜近辺)で、起きた、恐るべき、頭脳力、駆使・詐欺事件について、語りたいと思っているわけです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と言うのも、私が何の、真実を書いても、連中は反省しません。そして、その闘争を、勝負事ととして、とらえるのだったら、私は連戦連敗です。でね、この世界で、書く事が暗い事が多くなり、多くの善良な読者様を失ったと思います。しかし、或る時、心構えを変えたのです。・・・・・勝負事としては、とらえない。ただ、只記録をするに徹する・・・・と。
すると徹底的な逆転現象が起きたのです。意外な事でしたが、企ざる逆転現象が起きたのです。驚きました。神様っていらっしゃるのですよ。
埼玉県の陥没事故は、以前からちゃらちゃらと、伊藤玄二郎 +(いまだ生きている井上ひさし)発の (数多い)謀略事件に協力をしていた、大野知事へのお叱りでした。今、あの事故が起きてから20日目ですが、昨日20日(金曜日)の、NHKニュースで、やっと大野知事が、現場作業者(その監督れんちゅう)を集めて、慰労をしたと言うニュースが出てきました。
でもね、事故は1月28日に起きていて、私は、2月2日から、大野知事を叱るブログを書き始めています。
鎌倉の異様な擁護壁の建設で、CIA陣営内の誰かが死ぬ筈だと予言した相手は、大野埼玉県知事の怠慢で亡くなったトラック運転手であった 2025-02-02 23:14:03 | 政治
の *2)と*3)では、叱っています。それは、2月8日でした。NHKテレビが・・・・会議室に集めた現場差作業員たちを大野知事が、ねぎらった・・・・と言うニュースを流したのです。でも、それは、私のブログの一週間後です。まあ、それも含めて、この一件は、伊藤玄二郎達を、叱ると言う意味では、突出した事件でした。
これだけは、自然なことで、別にいまだ生きている井上ひさしが、企画した事でもないので私は、ほっとして、パソコン6台のメインテナンスを、2月4日から始めたのです。ところがバグを入れられて妨害を受けて、いまだに終わりません。でも、それを始めたと言う事は、どれほど、余裕を感じたかです。で、本日も余裕の発露として、60年前の北久里浜周辺に戻ります。
これを書く事は、日本有数のCIAエージェント達と、私とどっちが頭がいいか?と、言う比較なのです。だから、すさまじいレベルの、深い深い政治的文章でありながら、書く方の私としては、ゲームをしている感覚で、書いて行きます。ただし、お断りをしないといけないのは、或るところまでしか、書けないと言う事です。非常に複雑な話です。ゲームを解く、または、ミステリー小説を解く感覚で、お読みください。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
前報の蛇足2より、これをこの章の、*2)とする。
*2)、
私は、1984年にここ、鎌倉市雪ノ下に引っ越してきたのですが、驚くべきことに、ひとが住んでいるのにもかかわらず、東北の山を無断で崩されてしまったのでした。業者は、斎起業と言うとび職二人組で、南側の崖の上(敷地は我が家の物です)に生えている直径50cm以上のミズナラと、山桜を切ってもらったのです。私が電話帳で、探して、電話をかけて、大木の伐採を実行してもらったのです。ミズナラと言う樹木は、今、日本産のウィスキーの樽などに使用されている樹木です。
1984年には、自宅の木を切るのに、制限とかルールはありませんでした。で、その作業が、すごいことだったわけです。我が家は、日産自動車の、研究所の、同僚が、11人も手伝ってくれて、大変派手な引っ越しでした。
ただ、私は、ここに引っ越してきた目的は、創作に専念しようと言う事だったので、ご近所付き合いをいたしません。で、自分たちは、北久里浜の家を売らないで、ここに引っ越してきたので、中古の日当たりの悪い家(しかも、公簿上は、88坪あるものの、崖や、私道部分に、とられるので、40坪しかりようできない)で、建築素材も悪い家に、どうして、引っ越してきたのだろう?と、日産自動車の研究所の同僚は、みんな不思議に思ったのでしょう。
実は、是こそ、罠だったのですよ。横須賀市内では、相当の、大モノだった、元海軍参謀、益山重夫が、が、ここらあたりの、地形を熟知していて、山の一部を自分の私有地にしようと、考えたのです。そういう風に考えたのは、無論理由がありました。正妻(先妻と言うべきか)が、米軍横須賀基地内の、PX(スーパー)か、将校倶楽部に、勤務している時期に、アメリカ軍将校と、恋に陥り、米国へ逃げてしまったのです。それはね。夫が米軍によって、パージを受け(それは、排除という意味でいいところに就職できないと言う意味です)、収入が無くなったので、仕方がないことだったのですが、お嬢さんが生まれていたので、ショックはショックだったでしょう。お嬢さんは、五歳ぐらいだったのではないかなあ?
今は15日の午後三時ですが、ここを少し加筆します。小説みたいなところがあるので、書くのが楽しいですしね。
さて私は子供を幼稚園に入れます。そこで、ママ友の一人として、杉本正子さんと知り合います。この人の夫が、当時横須賀市土木課長でした。しかし、新しい事実として、この人の実父滋氏が、なかなか重要だと、最近では考え始めています。横須賀で、大正生まれの老人としては、上品な面立ちの人でした。で、この人が、益山重夫氏の、戦時中は部下であり、戦後ひたすらに益山氏を助けたと、考えると、いろいろ、符丁があってきます。
益山氏は、京急横須賀中央の近所で、まず、不動産屋を始めました。これは、益山氏にとっては、つまらない、恥ずかしい業務です。しかし、どういうコネであったのか、部下に智恵子さんを雇い入れました。智恵子さんは、ある面で純真で、しかも、原節子似の、モダンな感じの美女で、しかもご本人から私が直接聞いたのですが、戦時中男子払底の時代(戦死、徴兵等で)都立大学の土木工学科を出て居るのです。で、土地開発の設計ができる女性でした。そして、日産グロリアハードトップ(2ドア)白を察そうと、乗廻し、後部座席は、窓を開けてシェパードが、風に吹かれており、お買い物は、必ず元街ユニオンの紙袋を入れて帰ってきている人でした。
元街ユニオンは、京浜急行に、吸収されたので、各地に支店が、できています。ところが昔は、明治屋、紀ノ伊国屋と並ぶ、輸入品も扱う高級店だったのです。
この女性が今の言葉でいうスペックが高いうえに、30歳以上年下で、しかも、自分に尽くしてくれます。母親に捨てられたお嬢さんもフェリスを卒業させ(多分大学も卒業させ)結婚をさせ、独立をさせて、その後、自分に尽くしてくれています。で、ご近所の、老人=10歳ぐらい年若い男性(横須賀市の地の人で、悪気はないのでしょうが、今、芸人が素人を、TV画面内で、お母さんとか、お父さんと呼ぶ、あれと同じ感覚で)が、「おじいさん、お爺さん」と、呼びかけたら、「どうか、その呼び方はやめてください。家内が、若いので、その呼び方で、他人から、呼ばれるのは、困ります」と、抗議していたのを、私は実際に聞いていました。
その会話を聞く前から、彼ら夫妻の日常生活を見ていて、絶対に、ご近所人間とは付き合わない事、や、或る台風の日、珍しく、平作川が氾濫して、京急(当時は、この今の本線は久里浜線と呼ばれていて浦賀へ向かう方が本線だったのです)周辺が、細長い湖になっていた時に、この益山氏と、私は、並んで、高いところから下を眺めていました。顔は、和風で、寝間着は浴衣ですから、上流階級かどうかは、分からなかったのです。が、実は、1945年8月15日までは、横須賀一偉い人だった模様です。
杉本滋氏が、1946年から、部下として、勤務し、智恵子夫人を入れて三人で、不動産屋をやっていた時期があると、仮定すると、息子の俊一氏が、当時、住んでいた敷地50坪、建坪、28坪ぐらいの住宅は、益山夫妻の、ただでプレゼントだったと、考えます。登記をされていない幽霊屋敷ですから。外には絶対に出してはいなかったけれど、杉本滋氏を、通じて、もともとは、国家の土地だった(途中で、横須賀市の水道山となり、その後、そらヒルズ=ルネ北久里浜と言う美麗マンションが建設される)を、京急に大開発させて、インフラ整備をさせて自分がお金儲けをする、土地をもっとも駅に近いところに生み出したわけですが・・・・・・
この池田分譲地は、立派なwikipedia が、立って居て、京急の土地開発の中でも、突出して価値が高く、駅前ロータリーも整備されているので、東急における二子玉川程度の重みを持って居ると思います。
駅名も、【生田】と言うどうってこともない名前だったのを、北久里浜駅と改名し、池田分譲地には、新たに参入する、新住民がいて、駐車場には、外車が並んでいると、言う状況です。
上皇后、美智子様のご成婚がかなったころ、美智子様の、おじにあたる、水島三一郎博士の為に、八幡製鉄は、日吉の、わが実家から、徒歩20分程度西北にあたる、麦畑を買収して、研究所を作りました。しかし、水島博士が、亡くなると、そこは、廃棄され、別のところに、新たな、研究所が開発され、その跡地はセキスイハイムが開発する、結構有名な住宅団地となりました。
::::::ウィキペディアから、池田分譲地も、アイザック日吉も消えてしまいましたが、これは、私が、ブログに登場させているからです。しかし、そのブログを完成させると、大・実質的・・・犯罪へ結びついてしまうので、アイザック日吉も、京急池田分譲地に関する立派で、長文だったwikipedia が、消えてしまいました。今、かろうじて、アイザック日吉の方だけ、見つけました。ここにコピペします。
さくらが丘は、新日本製鉄(新日鐵)の先端技術研究所の巨大な跡地(約7万平方メートル=アピタなど一連の跡地5万6000平方メートルよりさらに広い)を活用した345戸の分譲地で、2003年から分譲を始め、2009年に全面完成しています。::::::::::
京急池田分譲地も、まあ、似た様な規模です。でもね。実質的に言うと、京急池田分譲地の方が、暮らしやすいです。駅から徒歩圏内に、すべての家があり、平坦な丘の上で、車は来ないし、日当たり良好で、京急は、交通費は、かかるけれど、時間と言う意味では、アイザック日吉から、東京丸の内へ向かうのと、京急池田分譲地から、丸の内へ向かうのは、同じくらいでしょう。
特に下に写真を置いているこの美麗なマンションに、地上から五階分を一気に上がるエレベーターが出来ていて、マンションの住民以外も、パス代を支払うと、使えるのです。時間の短縮には役立ちませんが、体力を使わないと言う意味では、80を過ぎても、住める一帯となっているのでした。
そして、このマンションからは、西は伊豆半島やら富士山、東は、房総半島まで、北は、横浜ランドマークタワーまで、見張らせるのでした。しかしブランド力と言う差があります。別に京急は、東急をライバル視ししていないでしょうが、しかし、地価が、数倍程度アイザック日吉の方が高いでしょう。?????
~~~~~~~~~~~~~~~~~
*3)、「青地問題」
1960年ごろまで、ここは、一種の里山でした。山の地主と、畑の地主の間に、日当たりの、面で、争いが起きない様に、江戸時代、両者の間には、幅一間程度の、緩衝地帯が、設けられていて、畑として利用しても、いけないし、樹木を植えて、山林として利用してもいけないと、言う決まりがあったそうです。いやあ、今の雪の下二丁目のご近所様の、無法ぶりを考えると、江戸時代、幕府直轄領地であったであろう、この三浦半島は、意外なほどの文明の地だったのですよ。
ところで、私は、父が見つけて来た、この北久里浜の丘の上の土地を生協から買ったのです。主人名義で、30坪。しかし、父が、「30坪では、いい家が出来ないね。隣の30坪は、母に買ってもらえ。そうしたら、60坪の長方形になるので、自由自在に設計できる」と、言って、母に西隣の30坪を買わせました。
この土地の半分が母の名義だったと言う事が、大・実質的詐欺事件の謎を解くカギになるのです。本当に、この世は不思議と言うか? 神様は、いらっしゃるのでした。処で、益山重夫・智恵子夫妻は、この近辺、2000坪を、いつの間にか自分のものにして行ったのです。私自身が住んでいた土地もこれまた、戦時中は、国家の戦後は、横須賀市の土地だったのでしょう。
しかし、1960年代は、まだ、峻嶮な、崖の上で、東北の登山口、京急、新大津側、現在三菱地所が、四季の街と言うマンション8棟を作っている一帯【ただし、そのマンションは、当時は、まだできていなかった】からしか上がれない山ですから、秘密は如何様にも、作り上げることが出来たのでした。
ああ、ここで、突然に飛んでしまいますが、この山の西南の山すそで育った方が、故・野島稔、東京音大学長です。今、一時間以上をかけて、野島稔さんの両親がどういう職業であるかを知りたいと思いました。大変上品な方達でした。で、所謂先生、特に大学教授ではないかと思いますが、どうして、ああいう隠れ家みたいなところにご両親がお住まいだったかを知りたいのですが、今は、ネットではわかりませんでした。」
元へ戻ります。
全くの山だった、この丘を、益山重夫さんは、536平米買ったのです。その後、90平米の建売住宅を、13戸。それから、進入路を、莫大に取るのですよ。計算が合わないです。
こういう所、すべて、登記所で、登記簿謄本や、公図をとっているので、それが、残っていれば、証明できるのです。
大詐欺事件が、1978年に私に発覚する前に、すでに、益山夫妻は1500平米も、売り払っていたのです。そして、総仕上げとして、当時は横須賀市の水道山として、変化していた山へ、開墾に入り、
その山の全面積、4200坪が、実は、私の土地だったのです。しかし、法務局では、127平米しか残っておりません。法務局の方が間違っています。訂正してください」と、申し出でたのです。
ああ、胸がドキドキするほどの、大・実質的、詐欺事件なのです。
これが、どうして、可能だったのか、私には詳細にわかっています。しかし、書くのがあまりにも複雑なので、今日は詳細を書きません。
ただね。これほどの、大・実質的悪事を、なぜ、益山重夫氏が、実行したかですが、お金が欲しかったのです。
何のためのお金、・・・・・と、問えば、愛する妻、智恵子さんの為に、高額の遺産を残しておきたかったからでしょう。30歳以上若い。しかし、特に、苦境にある自分を助けてくれたのです。
ウーム、この悪事って、すさまじいものなのですよ。土師淳君が殺された酒鬼薔薇聖斗=少年Aの、自伝(?)『絶歌』も、ここに関係して来るし、私は、1977年(もしくは1978年)10月11日、智恵子さんに、例の白い大型車で、轢き殺されそうになるのです。
それをまず、公園の公衆電話で、青山敦子弁護士に知らせ、その次に、自宅の電話で、同じ事を伝えました。
と言うのも自宅の電話は、盗聴されていることが確実なので、きっと悪いことが起きると思ったのです。
しかし、この時点では、悪いことは、私の方には起きず、益山夫妻に起きたのです。その夜、益山氏は、急死したのでした。
これは、私を殺すことが、ミスター益山の、案であり、それが、失敗したから絶望して、青酸カリ(偉い人は、必ず、持って居たと思います。自殺用にですね)で、自決したか? または、ショックのあまり、循環器系に、血管破裂とかが起きたか?
それとも、車で、轢き殺そうとしたのは、単純に智恵子さんのアイデアであり、そこまで、愛する妻を追い詰めた・・・・・と言う事に絶望をして青酸カリを使った・・・・・または、晋三か、脳に急な大出血が起きた・・・・・
のどちらかは、分かりません。
だが、この三回分で、私は、優しさをもって、文章を終わらせたいのです。
だから、元、帝国海軍参謀にして、戦後CIAの大エージェント瀬島龍三と大親友だと、自分でいい、その後、
60年にわたって、警察を部下としていて、ありとあらゆる、私の知己を、私から、引っ剥がし、種々様々な苦しみを与えているのです。
でもね。今週、12日、チェックしたのは、夜の11時8ッ分でしたが、その時点でも、脅かし行為を続けて来た渡辺賢司・みか夫人に言いたい。私に苦しみを与える人間は、その量が、限界を超えると、必ず、死、、心理的失敗、または、経済的失敗に陥るのですよ。
まあ、私のブログを読んでいないみたいなので、平気みたいですが・・・・・神様は、必ず、すべてを、御覧になっていると、感じています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます