銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

川名昭宣君が、そのCIAエージェントとしての特権を発揮する事は2001年にすでに私には見えたのだった

2023-09-01 05:06:59 | 政治

副題1、『本日のブログへの導入』

これは、前報

池内紀が、NHKのお金でドイツの蒸気機関車巡りをした番組の裏側をご存じですか?・・・・日本の左翼運動を総括する    2023-08-31 02:10:25 | 政治

の続きです。一般人の前には、まったく姿を現さず、かつ、wikipedia 等もたっていない人物こそ、CIAの大切にする相当大きな、権力を握っている人物であり、表の仕事以上の、力を持っているのです。川名昭宣君とは、典型的な、その種の人間の一人です。

 今は、ICUの力が落ちていますが、1960年代は、相当に大きな力を発揮していました。海外(特にアメリカ)と関係がある部署の部長とか、重役は、ほとんどICU出身者が占めていたと、いってよいでしょう。

 そういう300人を、自分が企画したクラス会に、招集する力が、川名昭宣君にどうしてあるのかは、いまだに、本当のところはわかりません。親や親せきに有名人がいるのか? それとも、フランス留学中に、何らかのコネを得て、CIA内で、大切な人間になれたのか? これは、刀剣協会の、事務局長の高田弘子さんのケースですが。。

 それは、また、シベリア抑留中の瀬島龍三と、同じ仕組みであろうが、ともかく、真実はわからないものの、

 彼は、桜井万理子・学芸大学教授を東大教授に送り込む力があるのです。その前に、学士会館の、広いお教室で桜井万理子さんの、研究発表会を開きました。これにも驚きましたが、次に、1998年に、ICU食堂の、パフォーマンススペース(700~800平米の間の広さだと思う)で、大勢の人間を招く、大クラス会を催し、その招待文句に、・・・・・入江多喜男君の、ICU復学を祝して・・・・・と、あったのです。

 それは、のちに古村浩三君(この人の奥様が、日大アメフト騒動と、いう謀略に大きな力を発揮したと、見ているので、一般の方が、その名前を知らなくても、政治的に重要な人物なのです。)が金曜日の夜開く、料亭でのクラス会とは、相当に違うもので、昼間12時ごろから、開かれ司会は、NHKアナ(夜7時のニュースを担当中の同期生)が、行うという、豪華というか正式なというか、の、ものでした。

 そこに、桜井万理子さんは、欠席でした。また、わたくしが、その人が大変素敵で、と、いつも言っている葉っぱちゃんは、欠席でした。これも何らかの意味があったかな?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『当時の学長は、慶応の司書科を卒業した、女性の方で、彼女が許可したのかどうかもわからなかったが、

 1967年に、ICUの入試を廃止に追い込んで、大変なダメージをICUに与え、退学処分を受けている、入江多喜男君の、退学処置をその35年後に、取り消して仲間として迎え入れ、みんなで祝福しようと、いう宣言を発することができる、川名君には、驚き入った。

 今のわたくしだったら、テリーと、逗子のアトリエで、夜電話を交わして、1966年に、D館の講堂で、佐藤忠一君が500人以上の学生に、たった一人の的として、つるし上げにあったことを聞いたから、川名君が、そういう企画を立てたと、考える。というのも、佐藤忠一君は、入江多喜男委員長がリーダーシップをとっている、学生集会で、たった一人だけ攻撃の的となって、つるし上げに会い、苦しさのあまり、千鳥ヶ淵で、にゅすい自殺未遂事件を起こして、・・・・・しかし、どうしてか、救われて、10日間以上、強制睡眠をさせられて、それで、精神状態が、普通に戻ったと、いう内容を話しテリーから聞いた。それが盗聴されていて、その結果、わたくしをいじめるために、入江多喜男君を持ち上げようと、CIAエージェントが、大きな計らいをして、入江君の復権を、大学当局に、許可させたと、考えると思う。

 しかし、20年前は、CIAエージェントの、本当の姿を、見破ることはまだできず、わたくしは変な企画だなあと思いながらも、その、一部分を、自分も、利用しようと考えた。

 つまり、入江君に、「あなた、ひどいことをしたのじゃあないの?」と、叱責しようと考えたのだった。しかし、1966年のつるし上げが、入江君一人の力でできたわけではなくて、川名君も協力したであろうし、渡辺・某・君も、協力したはずだった。ワタナベ某は、朝日新聞に勤務し記者となった。背が高くて、歌がうまい。だから、女性にもてる方だったし、親が、朝日新聞の地方局勤務だったから、入社試験に有利だ。と、いっても、川名君の河出書房新社勤務といい、『新左翼学生運動・従事者特有の特権階級性が表れているなあ、学生運動は、彼らにとっては遊びなんだ。就職にも不利をもたらさないのだ』と、感じていた。

 ところで、川名君とは、私は学生時代には、言葉を一切交わしたことがなかった。が、この大クラス会の前に、葉っぱちゃん(仮名、だが、IU出身者ならだれのことかはわかるはずだから、それで、いい)の仲立ちで、仙川の画廊で出会っていた。

 :::::::::::ここで、長い挿入に入る。

 葉っぱちゃんは、どうも明治の元勲の子孫であるらしくて、1960年代、にすでに、イギリスに留学していた。帰国後の勤務先もイギリス関係の出版社であり、ICUで、当時学んでいた絢爛たる女性陣の、中でも、誇り高い方だったと思う。そして、葉っぱちゃんは、美術部でもあり、私のアーチストとしての才能をきちんと見抜いていた。

 そのうえ、葉っぱちゃんには、私は、自分の出自を告げていた。萩の名家の出自なのだ。一時期は、ご家老様、菊屋、礒部家という萩の三名家の扱いだった。特に叔父が、旧制萩中学の校長をしていた時代は、羽振りがよかった。江戸時代は、毛利藩の重臣で、財務を扱う人間だったので、祖父が、生きている時期は、裕福で、東萩に、山一つ買って、武家屋敷街の堀之内から、そこに引っ越して、東萩に小学校を一つ建てた人物だった。今は、礒部の代わりに、三名家には、梅屋が入っているのだろうか?。伊藤博文公についても「俊介は、重臣の間で、手紙を運ぶ役目だったが、はしこい子だった」と、いうような話が、家の中の居間で、すっと出てくる様な家だった。

 しかし、戦後、満鉄が無くなった父が、経済安定本部

 (のちに経済企画庁となり、私のブログゆえに、閉庁になってしまった華やかな役所)に勤務していて係長だった時代に、重油の配給を担当していた。統制経済といって、モノが自由に買えない時期だった。重油(石油)は、捕鯨船に、給付するほか・・・・・ここなのだ。シーシェパード運動は、私をいじめるために起こされていたと、考える。捕鯨禁止も同じこと。で、クジラが大発生して、浜辺に打ち上げられている始末だ。・・・・・各、企業にどういう割合で、制限のある石油を、分配するかを決定するやくしょだった。当時(終戦直後)は、霞が関で、最も華やかな役所だった。

 元へ戻ろう。朝ドラ【らんまん(爛漫)】で、宮沢エマが経営する新橋の料亭、【巳さと】が出てくる。政界・官界・財界・軍人の社交場だったと描かれている。そう言うところで、父は、企業重役から、接待を受けて、浮かれていた。先日、それだけが、スキャンしてあったといっている白いスーツ姿の父を見せたが、明治生まれとしては、背が高い。そして、まあ、まあ、の顔をしているし、陸上と水泳をやっていたので、ちゃんとした、筋肉のついた姿勢の良い肉体を持っていて、芸者に大変持てたそうだ。

 「新橋の、〇〇は、どうでこうで、柳橋の▽▽は、どうで、こうで」と話していたら、ちょうど出張してきた、母の叔父が『危ないなあ』と考えたそうだ。母の叔父は、長崎高商を出ているので、本来なら、もっと、華やかな職業についていておかしくないのだが、シベリア抑留の憂き目に出会ってしまったので、地方の財務局の吏員をしていた。父とは、同じ国家公務員だが、東京で、特に華やかな部署にいる父を、地方で、国有地の管理他の、実直な任務に就いている、母の叔父は、・・・とても危ない・・・と、見ていたそうだ。

 あの頃はホテルを利用するという習慣がないうえに、母は、おもてなし上手で、奉仕家だったので、我が家には、本当に多くの親せきが泊まっていった。その大人同士の、会話を聞きかじったので、私が学業優秀になったのだと、考えている。勉強しなさいとか言われたことはなかった。

 父の上司は、ピアノを買ってもらい、家も建ててもらったそうだ。それで、逮捕された。で、父は連座した。だが、幸いなことに、現金をもらっていなかった。で、牢屋に入れられることはなかったが、チョコレート(プラリネというタイプ、もちろん外国製だろう)とか、マロングラッセとかマグロの胴体をぶつ切りしたものなどが、お土産とか、贈答品として、我が家に届いたのは、覚えている。

 この事件が起きた時、私は、小学校一年生だったが、そりゃあ大変だった。で、父と母は商売を始めて、お金がたまると、貯金替わりに、土地を買った。その土地が値上がりして、やっと安心するほどの富裕度に達したのだった。1986年に父が亡くなり、辻堂の100坪の土地を売ったのだが、一億円で売れたそうだ。バブルの最中だから、そういうこととなった。

 日吉の土地は、100坪、6万円で、1951年に東急から買ったのだったが、70年後に、弟は、一億一千万円程度で、売ったみたいだ。その後、建てうり住宅を、ある会社が建てたのだが、7800万円で、三戸だと聞く。二億円以上の、値上がりだった。

 もう、笑ってしまうが、いったんどん底に落ちた父と母の必死の人生をいとおしく思う。わたくしは、自分では、お金の稼げない人生だが、パソコンが壊されると買いなおすことのできるぐらいの、お金を遺産としてもらっているので、一種の二代目人生を送っていると、思っている。高等遊民だが、でも、社会階層のことをしょっちゅう書くのは、自分が恵まれた階層から、いったん下層階級に落っこちて、お金の力で、再浮上できた・・・かなあ?・・・という人生を送っているので、日本の現状、特に階層社会のありさまを、身に染みて、思うのだった。

 わたくしの長男が私立中学二校を不合格にされたのは、横須賀市の水道山を、るね北久里浜(売り出し時の名前、そらヒルズ)にしていった過程(実質的大詐欺事件・・・・ただし、地積変更届という仕組みを利用しているので、犯罪として、起訴できない)の、真実を知っているからの瀬島龍三からの復讐だけど、そういうことをされるとは、夢にも思わなかった。しかし、ブログを書くのをやめたらもっと激しい復讐行為にさらされるだろう。悪人たちは、莫大な利益を手中にしているのに、その裏側を知ってる人間を心理学を駆使して、殺そうとしているのだった。

 葉っぱちゃんから大切にしてもらっていると、いうことを書くために、ここまでの、告白をしてしまった。だが、覚悟の上だからそれで、いい。

 ::::::ここで、やっと挿入を終わり、

 仙川の画廊で、葉っぱっちゃんの紹介で、生涯で初めて、川名昭宣君と会話を交わした日に戻る。その時に、川名君がワイン収集家であることを聞いた。後で、奥様がAFP(フランス系外信会社)出身であることを、知り、そのせいで、ワイン通だとわかるのだが、彼が、リヨン大学留学をしていたとは、まだ知らなかった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3、『川名昭宣君と、私との関係は、紆余曲折があるが、上下関係という意味でも、動きがある。下に見られ、次に、あれっと、思われて、相当に、意識させられたと思うが、と、同時に、伊藤玄二郎からの讒言により、また、下手に置かれた。

 しかし、今、こういう文章を書いていて、これが将来、河出書房新社が、出しているムックに近い、作家特集号などになってごらん。そのときは、私は、彼と対等になると思う。・・・・・と、こういうことを書くので、さらに弾圧をされて、作家としての、要望が通らなくなるのだけれど、預言者として言っておきたい。編集者は、死んだら、おしまいでしょう。一応、本は残りますけれどね。わたくしの今の文章は、まだ、紙の本には、なっていませんが、誰かが、ストックして、自分のパソコンには入れていると思いますよ。で、死後の復活はありです。

 さて、仙川の画廊で出会ったときにした手に置かれていたのは、葉っぱちゃんに話している、出自のことは川名君には、話していないし、在学時には、前歯に金冠をはめていたし、もし、川名君が、すでに、CIAエージェントだったら、1965年に、ベイカーさんというアメリカ人イエール大学の学生から、一回殺されそうになっているので、すでに、CIAエージェントの敵と化していたので、低く見られていたのかもしれない。ベイカーさんとの関係は、すでに何度も詳しく書いているが、この章でも与力があったら、蛇足というところで、また、書いておきたい。

 しかし、川名君が、大クラス会を、開いた2001年ごろ、私は満開の桜みたいな華やかさを持つ、自信に満ちていた。それは、パリやニューヨークで、色彩感覚に優れたアーチストであるという高い評価を受けていたからだった。それは、直木賞を受けましたとか、安井賞を受けましたと、いう様な評価ではないが、自覚している才能が、やっと、外に出てきたのだと、いう満足感があって、押しも押されぬ人としての、自信も出てきた。また、1999年から、AOLを使ったメルマガを配信していて、そこにもライターとして高い評価をもらっていた。少数が相手の仕事だったが、インテリで、上層階級の人が相手だったので、満足感が強かったのだ。

 で、川名昭宣君に臆せず、電話を掛けた。「ねえ、川名君、私自身は、そこにいなったのですけれど、あなたは、1966年の、ICU学生集会にいたんでしょう? 入江君が、自治会委員長をしていた時ですけれど」と。すると彼は、「えっ。僕いなかったよ。だって、フランスへ留学していたんだもの」と、答えた。それは、まったく知らなかった。当時のICUは、同期の学生は、300人程度しか良かったが、少数精鋭主義で、二年以降は、非常に細分化される、教授陣の下につくのだから、ちょっと、選考が違うとまるで、知りませんと、いう形になるのだった。

 ただし、仙川の画廊での、初対面の時よりも明らかい、軟化していた。で、私は、上の方で、紫色のフォントで、書いたことが正しかったと、今では思う。

 だけど、クラス会、直前に電話を掛けた時の、私は、そこまでは、気が付かず、これは、最近の自信満々のわたくしに対して、川名君が折れてきてくれていると、考えた。

 で、クラス会に出る前に、すでに、計画を練っていて、ともかくとても、大物になっていると、いう姿を見せないといけないので、おしゃれにも大いに気を使った。高いものではないが、赤い地紋のウールのスカーフ(これは、母にもらったもので、エルメスほど高くはないが、パリでもニューヨークでも大活躍をしてくれたもので、黒で締めた細身の体をパッと華やかにしてくれるだっアイテムだった。それと、パリで、買ってきた中ヒール(37サイズ)非常に掃きやすくて、姿勢をピンとさせてくれるものだった。

 そして、当時NHK 7時のニュースの、たった一人の報道者だった、有名人さん(ただし同期生でもある)から、マイクを受け取って、舞台真ん中で、ハバネラを歌いだした。わたくしの表現力って、言葉の劇でもすごかったのだけれど、歌もまた、すごいのだった。幼稚園のPTA会長だった時の打ち上げかいなんて、平役員さんからの、盛大な、オマージュを受けた。「川崎さんが、何で会長なのか、今まで、わからなかったけれど、今日やっとわかった。普通の人じゃあないんだ。全然違うんだ」と、言われた。狭い階段で、エレベーターもエスカレーターもない二階のホールから、一階への階段を下りながら、私の肩、背中、腰に、平役員のお母さんがたが、彼女たちの、それぞれの、手のひらを押し当てながら、半分抱かんばかりに、なついてくれて、「素敵!」、「素敵!」と言ってくれた。

 だから、川名君の、大同窓会でだって。ハバネラの歌詞を覚えていないし、(実際に、フランス語科、イタリア語かも、いまだにわかっていない。ソプラノ用の楽譜集は、たくさん持っているが、メッゾゾプラノ用の楽譜集は持っていないからだ。)メロディーだって、あっちこっち、自分の歌いたいように、くっつけてつぎはぎしているのに、聴衆を魅了していることには、絶対の自信があった。

   終わった時に、数人が声がけをしてくれた。館野ひろおちゃん(後註1)も「酔っているんでしょう」とこえをかけてくれたが、「は、はい」という程度の対応で、こころのすべては、入江君に集中をしていた。ところで、会場に入場した時に左側に、体格の大きな川名君がいて、その後ろに朝日新聞記者の渡辺君がいて、その後ろに入江君がいた。お歌を歌い始める前、10分間ぐらい入江君の後ろに黙って立っていたところ、彼が振り返って、私を気にする様なそぶりを見せた。なんとなく、変だと思った。また、終わった後でも、こちらを見た。私は、こんな会場内で、入江君に、佐藤君を追い詰めたのでしょう。彼って千鳥ヶ淵で、飛び込んだって聞いたわよと、言う様なことを言うつもりはない。だけど、歌を歌った後では、彼が、気にしてくれたのは、自分の目論見が成功したと思って、うれしかった。

 しかし、今、思うと川名君が、すでに、私の意図を言ってあったので、入江君は、私を気にしたのだった。

 ともかく、入江君が、ひるんだようなおびえた様な表情をしたのには、驚いた。テリーからの電話によると、1966年の入江君って、当たるを幸いなぎ倒すという感じで、すごかったらしい。その勢いの結果は、結婚にも表れていた。活動家の中で、最も目立つ女の子が二人いた。その二人は下級生だったが、その二人がとても、目立っているのは、私の方は、1966年3月に、自分が卒業する前に、すでに、気がついていた。

 その二人の内、よりおとなしい感じの女の子が、朝日新聞の記者である渡辺君の妻となり、より勝気そうで、しかも、医者の娘ですと、喧伝をされていて、音に聞こえた方のお嬢さんが、入江君の奥さんとなっていた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題4、『その日、二次会にも出席したが、35年前と違って、気弱そうな入江君が、二次会にいたかどうかも覚えていない。私は、誰に、入江君の、後日談を聞いたのだろう。話してくれた人が誰だったのかについては、全然覚えていないが、入江君が、その最初の奥さんとは、離婚をしていて、二度目の奥様とは、仲良くやっていると言う事を聞いた。

 ああ、それって、典型的なケースですねと、私は思った。恋愛の対象を、勝負事と同じ様に考える人が居るのだ。自分では、気が付いていないかもしれないが、集団の中で、目立つ、優位に立つ異性を結婚相手に選ぶ人が居るのだ。入江君の結婚は、男性の方も、女性の方もそれを目指して選んだのだったが、

 入江君がその後、収入の面で、医者のお嬢さんの欲求を下回ったのだと思う。

 これは、本当に悲しいケースだ。だけど、結婚に関して、どういう奥様を選ぶかは、その男性のこころの成熟度を示す。ある人が、別の人のお子様の結婚の相手の選択をほめていた。結婚式に招かれたので、その後、教えてくれたのだけれど、坊ちゃんは、(有名大学に進学していて)、そこでの「同級生を選んだのよ。でも、あまり美人ではなかった。だけど、それが、ものすごく賢いと思ったわ」と、彼女は言った。

 私は、結婚式には招かれてはいなかったが、話をしてくれるお友達と同意見だった。というのは、坊ちゃまのお母さまを知っているからだった。ものすごい美人で、しかもお嬢様育ちだった。しかも、おばさんであり、実母ではなかった。もう、戦後は遠く過ぎ、母親が亡くなったから、おばさんが、次の母として、お嫁に来るという時代ではなかった。だけど、おばさんが、母親となっていたのは、富裕だったからだ。お母さん(+お父さん)の財産を守り、お母さんと、その夫である人(養)の老後の面倒を見ると、言う、言葉に出さない、要求がある事を、お坊ちゃんはわかっていた。実の両親だったら、その扶養義務がいい加減でもいい。でも、養母で、しかもおばさんだから、絶対にお世話をしないといけないと、坊ちゃんは、考えて居て、お母さんに対して、負けてくれる、お嫁さんを選んだのだった。

 ご近所住人で、いろいろな攻撃を私に対してやって来る、大原光孝家が、全く似ているケースだが、お嫁さんは、10年以上前に、家出をしてしまっている。まあ、夫の養母さんと争いがあると言うよりは、夫に不満があるからだと思うけれど、私は、その一家に、見える無理や、隠しごとには、ずっと前から、気が付いており、特に大原光孝さんが、他者に示す嘘にも気が付いていた。盗聴なんてしていませんよ。でも、わかるのだった。だから、大原光孝さんが、攻撃をしてきたときに、すぐさま【ワインが割れて】というエッセーを書き、実存的部分の根本まで下がって分析した。

 ご近所の人間を攻撃して来るなんて、あほ中のあほですよ。でも、やるんだねえ。酒井忠康氏に、間に誰かを挟んでだろうが、勧められているんでしょう。だから、これも、例のCIAエージェント=鎌倉エージェントの攻撃の一つだから、すぐさま戦います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題5、『ここから先、本当に書きにくいのだが、なぜ、入江君が、大クラス会で、復学を祝福されながら、その後、一年以内に死んでしまい、それを、川名君は、私のせいだと、思っているのだが、川名君が、想像している様な、理由が原因ではないと、書いて置きたい。絶対にその誤解を解いて置きたい』

 私はその大クラス会での、おびえた様な入江君の表情を見て、佐藤忠一君を、彼が追い詰めた事は問いたださなかった。もう、いい。反省していると考えた・・・・・・・・・・500人という力を糾合して、一人をいじめるなんて、ずるいでしょう。キリスト教を標榜する大学に学んでいる学生の摺る事ではないわ・・・・・とは、言いたかった。だが、言わなかった。

 で、その時以来、全く連絡を取らなかったら、川名君が、誤解をすることもなかったと思う。だけど、私は、入江家に三回ぐらい、電話をかけた。それは、奥さんが、とても、いい人だわよと、聞いていたので、電話をかけやすかったと言う事があるし、

 この時期以降に、例の【トカゲのミイラ】(後註1)の金子美都子、聖心女子大元教授(聖心も名誉教授というのですか?)の裏切りに出会うとか、2014年には、【豆腐屋うかい】における、

 宇都宮和代、中島加奈子、坂本きっこ、小山庸子、山本トシさんなどが、組んで、お歌を使った辱めを、主な目的とした罠

 メンターとして、慕って、尊敬していた、時枝ひろ子さん(旧姓・西大寺・)したがって、安倍晋三総理大臣が奈良県西大寺駅前で、殺されたのは、例のエージェント達、特に時枝裕子さんをカソリックの信仰仲間を利用して、私から、裏切らせた、いまだ、生きている井上ひさしが、私を脅かすために、作り上げた謀略ですよ。

 山口みつ子さんが殺されることとなった、秋山祐徳太子と、保坂航子さんが組んだ、恐ろしい裏切り、

 腸詰屋、鎌倉店が、まだ、ARKAMAKと、名乗っていたころの、主人の裏切り、

 時制的には、順不同ですが、これ以外にも数多い裏切り行為に出会うのです。入江君に電話をかけたころは、まだ、上にあげた様な、事前に計画が立てられており、非常に大勢の人が、協力した裏切りは起きていません。

 でね。私は、このことを入江君に相談することにしたのです。なぜかと言うと、いくつも理由があるのですが、もっとも、大きな理由は、入江君の弱みを握っていて、しかも、それを責めていないというポイントです。だから、私は、許していると言う事で、『一点、自分の方がプラス点を持って居ると考えたのです。だから、少しぐらい負担をかけてもいいでしょう?』と思っていました。

 二番目の理由は、絶対にラブアフェアには、発展をしないので、お互いに安全だと、言う事です。だって、彼は、離婚と再婚を経験していて、今の奥様は、とても性格の良い人ですよね。私は、昔から、ICUの平均的な学生と比較をすると硬いのです。上に言っているでしょう? 父の事件があるので、それ以上後ろ指はさされたくないという思いがあります。そして、何よりも住んでいる場所が、大変、遠いという事実です。「話の続きはカフェで、やりましょうよ」なんては、絶対に、申し出でられない関係です。

 で、私は、小学生時代の、同じ塾の男の子に話しかける様に、ひどく気さくに、「ね、入江君、私って、どうしてか、はしごを外されるの? いい関係が築けたと、信じているのに、どうしてか、相手が、急に不親切になるのよ。こういうことにどう対処したらいいの?」と、聞きました。ずっと、クラスで、リーダーとして引っ張って行っていたし、お寺の息子さんだから、人間関係の事も仏教的解析を持って居るかもしれないと、思ったのです。入江君はもぞもぞしていて、何も答えませんでした。

 で、だめなんだ。彼に期待をしてもとは思うものの、でも、期待できるかもしれない。相談相手としてと、思ってある日、もう一回、電話をかけてみると、二回目の事として、奥様が出て、ご主人が亡くなったという事で、その件の詳細とか、ご主人の思い出をお話になったのです。一回目にもそれを感じたが、すごく素朴な方です。で、ご主人は、大雨の日に、道路と川(農業用水とか、側溝と呼ばれる程度の小川だと思うのだが)の間が、境目が無くなる日があるでしょう。ああいう日に川に落っこちて亡くなったのだそうです。ただ、茨城県なので、私には、NHKニュースとしては、届きませんでした。だけど、茨城県だと、下妻物語という有名な映画があります。入江君の住んでいる街は、もっと都会ですが、あの映画を思い出すと、田んぼがあったから、農業用水もあるだろうと、思い、『そうか、入江君は、水の事故で亡くなったのだと、思いました。それで、それ以降あまり、気を使わなかったのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題6,『ところが、ほとんど出てこない、古村浩三君主催の、クラス会に、突然、出て来た川名君が、他の人からは、見えないテーブルで、私の手のひらを固定して、爪で、ちびりちびりとねじり上げた時以来、どうして、川名昭宣は、ああいう事をし他の?と、考える様に、結局、川名君は、

 私が、佐藤忠一君リンチ事件(ただ、言論によるものですよ。でも、500対1だから、すさまじいけれど)の責任を入江君に問うて、それによって、入江君が、つらくなって、自殺をしたと考えて居るという結論に達しました。

 私は、葉っぱちゃんに相談をしました。葉っぱちゃんは、私の事もよく知っているし、同時代に、イギリスとフランスに留学した仲間として、川名君とは、お互いに、一目を置いている存在だから、川名君が葉っぱちゃんに何かを語っているとも推察されるからでした。「川奈君があんなひどいことをしたのは、入江君が、自殺だと考えて居るからでしょう。葉っぱちゃんは、このケースをどういう風に考える?」というと、葉っぱちゃんは、「ううん、わからないわ」と答えました。しかし、葉っぱちゃんが、真実を言わなかったケースもあると考えます。

 私は川名君の、肉体への暴力にあまりにびっくりして、その日、レストランに、スカーフを忘れて帰ってきてしまったのです。これが、このシリーズの主要なところです。その日、私は、渋谷で、気が付いて、幹事だった、古村君の家に電話をかけました。形態を持ち歩かない主義ですが、IT的に進み過ぎた、手法で、同窓会の、記念写真などを配布する古村君には、何回も電話をかけて、利用法を教えてくださいと、言って居たりしたので、電話番号を覚えていたのです。で、西東京市までは、帰りついて居ない川名君に代わって、奥様が出たのです。

 奥さまについて電話だけだけど、いろいろな、タイプがある事には気が付いていて、大体は、善良な人が多いのですが、古村夫人は、善良というよりも・・・頭の良い人・・・という直感的感想を得たのです。そこから、林真理子分析に入っていくのですよ。私は宮川泰介、紗江両選手は、古村夫人の英語塾の生徒だったと、言う説をとっています。

 そう言う風に進んでいくつもりで、それが、当初の予定でした。そして、そこから、政治分析に入っていくという予定でした。

 しかし、入江多喜男君の死という大変複雑な、現象に遭遇すると、これから先、文学的な、解釈に入りたくなってしまいます。テーマは、秘めたる恋心というもので、私小説(実名で、登場人物が登場するドキュメンタリー恋愛もの)と成って行き、私自身が、強い批判の対象としている林真理子の、【奇跡】とおんなじになってしまいます。

 でも、大きな違いはあるのです。それは、ワギナと、ペニスは、登場しないと言う事。あくまでも、心の中での話です。しかも秘めたる話です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題7,『1962年の10月、三鷹発、ICU行きのバスの中で、私は入江君が、自分を好きなのではないかと、気が付いてしまった。夫となる少年とバスの中で、はしゃいでいると、乗ろうとした入江君が、入り口で、急に背を向けて、とどまり、中に入ってこなくなったのだ。シャイだと言っても、「ああ、こんにちわ」と、私に言ってから、中へ入って空いている席に座るのが、普通だ。そのころ、まだ、ベイカーさんとの遭遇事件は、起きていなかったので、私は、誰からも、警戒される、人間ではなかったはずだ。「どうしたの? 入江君?」とは、考えたが、私は、運転手のそばに背を向けて立っている入江君には、近づかず、ICUに到着したのちに、その少年と一緒に、裏側の人のいないところを散策して歩いた。武蔵野のケヤキ林などだ。入江君が、びっくりして、逃げたのは、のちに夫となる少年が、美少年に見えたので、そうしたと考えたので、彼(少年の方)をほかのICU学生に見せたくなくなったのだ。

 私は別に勝気ではない。ほかの人に優越するためにボーイフレンドを見せびらかして歩く様な、人間ではない。

 なお、このバス便は廃止されて、武蔵境からICU行きというバスに変更となっている。だから、私が嘘を言っているわけではない。

 のちに夫となる少年は、駿台四谷予備校の、生徒番号が、722番で、私が、723番という間柄だった。2学期から、そこへ入校したいと、言う生徒は、一晩徹夜で、番号を取る。長机に二人ずつ座って、徹夜で、待っておく。自動販売機もコンビニもない、1961年だったので、とても大変だったけれど、若いから我慢が出来た。

 なお、この経験は、小室圭君と眞子様の出会いにも応用をされているので、こちらの恋愛は、CIAエージェントが、皇室を壊していくための謀略だったと、考えて居る。留学の案内を聴く機会を得るために、順番を待つときに、番号が前後だったと、聞いている。

 駿台予備校四谷校の、1961年8月31日に戻ろう。朝、5時になると、番号札が配られ、自由行動を許された。

 それで、外へ出て、四谷の陸橋から下の中央線を見ていた。始発が、走っていたかどうかという早朝。すると、なぜか背中に視線を感じた。振り返ると、先ほどまで、6時間ぐらい一緒に話をしていた四人の中で、その後主人となる、少年が一人立っていて、じっと、私を見ていた。なぜか、ひどく恥ずかしくなって、私は視線をずらした。が、内心で、うれしかった。自分に対するあこがれみたいなものを彼の眼の中に発見して、うれしかった。しかし、私は、おっちょこちょいではない。1961年の九月から、1962年の二月までの間に、一緒にお茶飲みに行ったこともなかったし、住所を教えることもなかった。

 しかし、一年後の、1962年九月、彼から手紙が来た。これは、単純に彼の下宿に、使える電話がなかったかららしいが、私としてみると、非常にうれしかった。生涯で、初めて、男の子から手紙をもらったからだった。で、一回ぐらい、横浜で、お茶のみをして、ICU祭に招いたのが、二回目のデートだった。どういう方法かはわからないものの、わざわざ住所を探して、手紙をくれたんだ。絶対に私を好きなんだと、いう自信がわいた。だから、はしゃいでいたのだった。だが、いつのことだったか、その秘密が解けた。彼は、野村證券、伊勢佐木町支店(今は存在しない)でアルバイトをしたら、我が家の家族構成を書いた、資料があったそうだ。苗字が、ギイソ(石辺に義と書く)だったのと、子供がお茶大付属高校を、1961年卒だという項目を見て、あ、あの子だと、思って手紙をくれたそうで、それほど、私に執着していたわけでもないそうだった。(苦笑)

 本当に世の中は不思議だ。ただ、ただ、思い込みで、成り立っているというべきか?

 わたくしは今の主人と、縁があり、これで、いいと思ってきた。だけど、だけど、入江君の死が、わからないものをもたらす。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする