つっかです。
今、私が住んでいる夜光という場所は、
まさしく京浜工業地帯のど真ん中みたいな場所でして、
歴史なんて感じさせないのですが、
実は由緒正しいかったりするっていうのが、
前回の話でした。
川崎大師の起源かかわる場所だったんです。
んで、
川崎大師の起源には、こんな話もあります。
空海上人の生涯には、
空白の約7年間と言われる23~29歳の時期の足跡が解っていないそうです。
その時期には、こんなことが…。
空海上人23歳の時、
武蔵の国・橘郡(たちばなごおり)平間村、
今の神奈川県川崎に来た時、
名主の源左衛門宅に宿をとって布教をしました。
しだいに、
美しく学徳もあり、若い空海には信者も増えていきました。
そんな折、
村きっての美人の宿屋の娘「おもよ」さんが、
最近痩せてきました。
婆やさんが話を聞いてみると、
「御上人(空海上人)様のことが好きで・・・」と
恋の病をうち明けました。
そこで、宿屋のご主人の源左衛門が、
空海上人に掛け合って当家に入って欲しいと懇願しました。
しかし、
仏道の修行中の身だからと言って断られてしまいました。
この事を娘に言う訳にもゆかないので、
おもよさんに、
「若い僧なので今夜、彼の寝床に忍び込んできなさい」とけしかけました。
おもよさんが寝室に忍び込むと、
部屋の中はもぬけの殻。
布団に手を入れてみると、
餅つきの杵(きね)が置いてありました。
一人娘と出家の身だから「想い杵(キレ)」ということか、
はたまた、
「(もちだけに)ついてこい。(付いて来い)」ということか、
おもよさんには解りませんでした。
しかし惚れた弱み、おもよさんは上人を追いかけました。
六郷の渡しに来てみると、
一刻前には船頭が上人を渡したらしい。
今の時間で2時間前。
女の身では追いつく事も出来ません。
おもよさんは悲観のあまり多摩川に身を投げてしまいました。
空海上人は、何やら変な胸騒ぎがするので、
引き返してみると、
夜も白々と明ける頃、
村人に囲まれた冷たいおもよさんの骸(むくろ)に対面しました。
上人は、
その死を悲しみ、名主の源左衛門宅に戻り、おもよさんの菩提を毎日弔いました。
近隣の人がそれを見て庵を造り、その名を「おもよ堂」といい。
それが徐々に大きくなって、今の川崎大師になった。
伝説では、川崎大師の大師堂の奥には
今も「弘法身代わりの杵」が安置されているそうです。
しかし、
その真偽を確かめに川崎大師で尋ねると、「その話は臼(うす)だ!」。
お後がよろしいようで(笑)
落語 大師の杵 春風亭小朝