先日北千住の旧日光街道「宿場町通り商店街」の看板が「富嶽三十六景」に変わっているのを見上げました。その時、この絵の現場を見たいと思いました。
調べていたらこんな説明がありましたので転写します。理解が深まると思います。
武州千住(ぶしゅうせんじゅ)
東京都足立区千住桜木
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宿場町・千住は、農村地帯でした。手前の水門は田んぼや畑へ水を引き入れ、調節するためのものです。
水門の間から富士が見えます。
千住のねぎを積んだ馬の頭は地面に近く、馬のひずめを保護する藁靴と農夫の引く手綱を結んで逆三角形を作り、富士と対応させています。
農夫と左の釣り人は、笠に手をやり富士を仰いで います。
千住宿は、日光道中(奥州道中)と水戸・佐倉道の最初の宿駅で品川・板橋・内藤新宿とともに江戸四宿に数えら、商家や料亭が並んで、人馬の往来も途絶えなかったといいます。
そしてやって来ました。この場所は「千住のお化け煙突」跡地を探しに来て以来、散策路として普段に通るルートになりました。従って、まずここから始めようとやって来ました。
宿場町通り商店街で見上げたのと同じ絵があって、葛飾北斎が画いて以降の景色の変遷も紹介されています。「お化け煙突」の跡地散策にもこの説明板が役立ちました。
説明板を読みます。ラッキーなことに、富嶽三十六景の千住地区に於ける他の2点の場所も紹介されていました。
元々水はけの悪い地に土を盛り続けて、その上のアスファルトを敷いたのでこのようになったのでしょう。「弘法大師道」までしか読めなくなった道標脇に下る石段が在ります。
その先は原っぱというほどの大きさも無い叢が続いています。ここが北斎が画いた「本宿圦」跡のようです。
反対(隅田川)側から見た風景です。
こんな場所です。ここから隅田川(旧荒川)に向かって堀が延びていたんですね。葛飾北斎はここから画いたようです。下り坂のアスファルト道路の先の建物は「帝京科学大学」です。あの向こうに富士山が見えた訳ですね。北斎から遥かに時代が下がって、同じ場所から見る景色です。・・・感慨深いです。
この場所にはまだ見所が在ります。この話、続きます。