いつもと違う方向から眺めました。
穏やかな冬の江戸川です。水面に写します。
通り過ぎます。
向こうには三角屋根の給水塔です。
円屋根を振り返ります。
三角屋根へ行きます。
円屋根を振り返ります。
三角屋根へ行きます。
配水管を潜ります。
通り過ぎます。
いつものアングルです。
青い空と白い雲と江戸川です。
世相もこのように穏やかになって貰いたい。
いつもと違う方向から眺めました。
穏やかな冬の江戸川です。水面に写します。
通り過ぎます。
向こうには三角屋根の給水塔です。
円屋根を振り返ります。
三角屋根へ行きます。
円屋根を振り返ります。
三角屋根へ行きます。
配水管を潜ります。
通り過ぎます。
いつものアングルです。
青い空と白い雲と江戸川です。
世相もこのように穏やかになって貰いたい。
コンクリートの階段を上がります。
江戸川が見えました。
一気に視界が開けます。
下町ロケットの土手です。
階段に腰掛けます。
冬枯れています。白い雲が浮かんでいます。
ず~っと向こうまで冬枯れています。
穏やかな冬の午後ではあります。
冬の陽射しに照らされたモニュメントに出会いました。
こんな場所です。前後に走るのは国道4号線(新日光街道)、左右は墨堤通りの大きな交差点です。
千住宮元町の交差点脇です。
これは驚きました!ここは何度も通る場所ですが、このような物は在りませんでした。
どうやら最近できた物のようです。
ここに千葉サナが営む灸治院が在ったようです。
説明板があります。「千葉佐那 千葉灸治院跡 千葉佐那(さな子)と千住中組の千葉灸治院 坂本龍馬の婚約者、千葉佐那が千住中組(現千住仲町)に明治維新後の明治19(1886)年から暮らす。学習院女子部の舎監となり、この地で千葉灸治院を開業、生業とした。
千葉佐那 『天保9(1838)年生・明治29(1896)年10月15日59才病没』 北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟・千葉定吉の二女。 小太刀に優れ、10代の頃に早くも北辰一刀流小太刀免許皆伝。龍馬より3才年下である。 16歳の頃、北辰一刀流桶町千葉道場に学びに来ていた龍馬と知り合う。文久3(1863)年、龍馬は千葉佐那の事を姉の乙女に紹介している。そのころ二人は婚約したらしいが、結婚には至らず、龍馬の死を知った後も龍馬の事を思い続け、一生独身で過ごしたと伝えられている。 平成22(2010)年4月 NPO法人 千住文化普及会」
「千住の心温き人に伝わる歴史の一頁。 坂本龍馬の心の華"千葉さな" 坂本龍馬青雲の志をもって江戸千葉道場で修業 千葉道場の娘"千葉さな"と運命の出会い 二人の恋愛も維新の荒波に流される 龍馬の死後悲しい運命とともに縁あって千住で生き千住仲町で生涯を終えた"さな" 生前龍馬の形見の羽織を抱いて"私が坂本龍馬の妻です"と叫び続けた声を聞いた人幾多あり あわれ千住仲町にて没す "千葉さな"の子孫は今も千住仲町3-7にて存在『千住の灸 千葉灸治院』の看板今もあり 作家『阿井景子氏』(足立区中央町在中によれば"千葉さな"の遺骨は入桂霊園に埋葬されているという 明治大正昭和を過ぎ平成の世に今二人を天空に結ばせてやりたい 甲府清延寺に分骨『坂本龍馬室』とす 企画 せぬま剛」
また、小説「龍馬のもう一人の妻」の記述があります。こちらも読みます。「北辰一刀流千葉定吉道場の女剣士佐那には、心に決めた男性がいた。土佐から入門した坂本龍馬だったが彼は勤王思想にめざめて江戸を去り、おりょうと結婚してしまう。そしてその不慮の死。だが明治になっても、佐那は言い続けた。『私は坂本龍馬の婚約者でした』薄幸な女性の生涯を掘り起こした長編歴史小説。」(一部推測)
こんな場所です。