葛飾北斎の富嶽三十六景の現場にやって来ました。門が閉まっていたので外から写真を撮っていたら、庭で作業をしていた男性が現れました。北斎が富嶽三十六景を描いた場所を教えて頂き、その後、「大したものはないけど」と言いながら、とても由緒あるものが保存されている話を聞きました。「もし許されるなら拝見したい」と申し出ると、「門脇の戸を開けてお入り下さい」と招き入れて頂きました。
先ず案内されたのが、浅野家の墓所です。そう、あの播州赤穂の浅野内匠頭の実家、広島浅野家です。ここが菩提寺なのです。
三基の立派な墓です。
へええ!
入門前に富嶽三十六景の現場を見に来たと言っていたので、あちらが富士山です。と指差して教えてくれます。鬱蒼としたお墓の向こうは青山のビル街です。
その後案内されたのが、広い庭の柿の木の手前の石碑です。
松尾芭蕉の句碑だそうです。「どういう謂われのものなんですか?」と聞くと、 「松尾芭蕉がここで詠んだのです」 「えっ!?」絶句しました。そして、「どういうことですか?上部が欠けているのは何故ですか?なんて書かれていたのですか?」と畳みかけます。「何度聞ても忘れてしまって・・・、ちょっと待って下さい」と住居へ行って誰かを呼ぼうとしています。「いや、突然やって来て失礼な話ですでので・・・」と言うそばから女性が現れました。
「石碑の上部の大半が無くなっているのは焼夷弾が直撃したからです。この庭には沢山の不発弾が埋まっています。近所には旧日本軍の施設が多くあったので何度も爆撃されました。この庭に茶室を建てた時に芭蕉が気に入って詠んだそうです。『春もやや景色ととのふ月と梅』と書かれていました。末尾に『芭蕉』と記載しています。気に入った場合に書いたそうです。その他のものは雅号を書いたそうです」
次に紹介されたのが紅葉の古木下にある石です。盆栽はやらないけど良い雰囲気の大木です。
「八幡太郎源義家が奥州征伐出発前に座った石です」 「えー!」
質問します。「随分歴史がありますね。何代目なんですか?」 「今の臨済宗になってから26代です。寺の歴史だと千年を超えます」 だから義家が座ったり、芭蕉が詠んだり、北斎が描いたわけですが、、、
話は続きます。「寺領は表参道からこっち、一万坪在りました」から始まって、土地が減っていった話、周辺の変遷の話、庭の手入れの話、上級国民の話、オリンピックの話、コロナ禍の話、夏蜜柑の話、やって来る鳥の話、檀家が少なくなった話等々。
吉良上野介の右筆が12月14日にここの句会中に脳卒中で死んだ話。生きていたとしても、翌年の討ち入りで死んだであろう話。子孫がその死んだ謂われを書いた書物を持って訪ねて来て、浅野家の墓に驚いた話。
「松の廊下」で浅野内匠頭を羽交い締めにして、ニの太刀を防いだ旗本梶川与惣兵衛の子孫が檀家の話。「あの時止めなければ内匠頭が本懐を遂げていたのに」と、ずっと檀家仲間に言われ続けていた話。その子孫がキリスト教に改宗して檀家でなくなった話。
庭の向こうの高層マンションの住民の話等々、庭の植物や周辺の高層マンションなどを眺めながら、立春を過ぎたとはいえ冷たい風の中で、小一時間立ち話をしました。ありがとうございました。お互い体が冷えました。
で、裏の丘から写真を撮った後、坂道でこんな説明板に出逢いました。
こんな日でした。