おにぎり2個の里みち歩き 農山漁村の今昔物語

おにぎりを2個持って農村・山村・漁村を歩き、撮り、聞き、調べて紹介。身辺事象もとりあげます。写真・文章等の無断転載禁止

ウダツは上がりましたか?

2013年02月24日 00時00分00秒 | 施設等

写真1 住宅2階の両端に張り出す袖壁型ウダツ。ウダツの屋根は鬼瓦がのる本瓦葺き寄棟型。住宅の屋根も寄棟型


写真2 屋根2つのウダツ。1階から2階へ続いている。


写真3 ウダツ続く家並み


写真4 家により、ウダツの姿、形、瓦は違う、競う。


写真5 往時、藍商家近くを吉野川が流れ、川湊へ搬出入路が直接した。今、流路は南側へ移り、旧流路の一部は写真のように公園。


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1.脇町のウダツ
 2006年12月15日、四国三郎・吉野川の中流域、
 脇町(現美馬市)の南町に残るウダツ家並みを歩く。
  “なかなかウダツが上がらない”と云う、あのウダツ。
 南町のウダツは、建物の両端、1階屋根と2階屋根の間から張り出す袖壁型が多い。
 白漆喰の厚壁に本瓦や鬼瓦などを葺く小さな屋根がつく。

2.防火壁から財力誇示装飾壁へ
 そもそも、ウダツは防火壁として造られた。
 脇町は、1829年(文政12)、170軒ほどを焼く大火に遭った。
 その後、ウダツが増え、多くは藍商人が造った。
 藍商人は吉野川流域の徳島藩奨励の阿波藍を集め、
 海運拠点の撫養(現鳴門市)などへ送り各地へ販売した。
 藍流通に使われたのが、吉野川の川舟(帆を張る平田舟)と舟着き場・川湊(かわみなと)、
 あるいは撫養街道や伊予街道など陸運。
 当時、藍、塩、繭など物資の流通拠点となった川湊の一つが脇町の南町にあった。
 南町の藍商人は、江戸時代後期や明治時代に財力を増し、
 それを誇示するために、競って豪華なウダツを造った。
 すなわち、ウダツが上がった。
 しかし、1914年(大正3)3月、徳島~阿波池田の徳島本線が吉野川南岸に開通し、
 その後北岸の脇町は勢いを失う。

  *撫養街道は鳴門~脇町~阿波池田~川之江。
  *脇町と吉野川を挟む対岸、南岸には伊予街道(徳島~阿波池田~川之江)が通っていた。
  *吉野川の主な川湊:下流から第十、川島、岩津、脇町、貞光、半田、辻、池田。
   なかでも、川島、岩津、池田は良港で、宿屋、料理屋などが並んだ。

 執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影年月日:2006年12月15日 撮影地:徳島県美馬郡脇町(現美馬市脇町)

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