まだ、完全復活をしていないので、思い出しては、加筆をしています。
愛知で思ったのですが、所謂、田舎の家の作り・・・というか、
大きい作りの家とは、人々を包み込むようにできているのですね。
臣さんとも話していたのですが、最大限、人が集まった時のことを
想定した作りになっています。友人の福岡の実家もそうでした。
いわく、冠婚葬祭が自宅で充分にできる広さの家です。
私自身は、両親が分れ家の家で、その上、父は転勤族でしたので、
大きい家とは縁がありませんでした。
言われてみれば、母方の葬式の時に、行っている(帰っているという
感覚はなく)間中、がめ煮(筑前煮ー根菜類の煮物)の鍋の番を近所
の婦人部の方々とさせられました。母の実家での記憶はそのこと
のみしか、不思議にも残っていません。
そして、ご近所の家族の方たちがそれを食べに来られてましたね。
臣さんはそれが当たり前の子供時代を過ごしたそうです。
ご飯を作ってくれるお母さんは、炊き出しへ出ていて、自分の家の
ご飯は作られないから、炊き出しが行われているお宅へ食べに
行く。そうやって、お互いが助け合いながら地区の共同体が成り
立っているのです。
今の家は、ほとんどが核家族の為か、最低限使う作りでしか間取りを
考えていませんね。
無駄を省き、ある種、人との関わりを拒んでいる作りになっています。
そうやって、無駄を省き、人との関わりを絶っていった結果が、今の
子供たちや、親子の関わりに如実に現れていますね。
その土地の神社や寺が結ぶ、縁。
新年、歳神を迎え、竈の神、水の神たちに、豊穣を祈る。
そのようにして、行事を通じることで、そこの土地に生きる、
関わる人たちとの交流ができ、包み込む発想が、まだ、
続いていることをすばらしいことだと思います。
そんな共同体が、人が変わっても、代々続いていくことを祈って
止みません。
感謝 天卜占
加筆 修正しました。