前回の話で、嘘をつくことは、よくあることじゃないか、
と、お考えの方もいるだろう。
誰でも、していることだから、構わないんじゃないか、
などと、思われるかもしれないが、
それは、それで、構わない。
そう、思う瞬間が、今のあなたを作っているのだ。
ただ、嘘をつくことで生ずる歪みが、あなたに
不調和なあなたを形成していく、それだけのことだから。
不調和なあなたが選択することから、さらなる不調和が
形成され、連鎖していく。
それは、周囲に影響をあたえる。
不調和を放つ人のまわりには、不調和を放つ人のみが
集う。
それもまた、必要なことなのだ。
孤独を恐れるあまり、集団を形成する。
その引き寄せるもととなっているのが、不調和という、
同等のもの、というだけのことだ。
これは、逆もありだ。
調和するひとのまわりには、調和するひとが集う。
調和を奏でる。
ささいな選択の積み重ねに見えて、結果と言う、今のあなた
は、どうだろう。
どんな困難も、勇気を持って臨めば、たやすく事は運び、
意に介さずとも、楽々と、こなしていける。
困難を迂回していけば、また、同じようなめぐり合わせが
やってきて、あなたは、混乱する。
一度もしたことがないことに、あなたは、怖れ、
また、その怖れが怖れを連れてくる。
少し、がんばって挑戦してみれば、
なんのことはなかったな、と、すぐに安堵する。
そんなことの積み重ねが、今のあなたを作り、
今のあなたの判断基準を作っている。
お話しをしていくなかで、辻褄が合わないことを聞くことがある。
また、そのことに対して、見当違いに怒り出すひともいる。
辻褄の合わない話とは、そのひとが自分の都合にいいように
話をしている場合。または、自分で編集して話している場合だ。
本人的には嘘ではないのかもしれないが、原因からみれば、
それは実際に起きたできごとー結果からは、程遠い。
だからなのか、時に師匠は依頼者よりも、依頼者が非難している
相手のことをどうなんだろうか、と言う時がある。
なぜなら、
問題とは、問題を抱えているひとの中にあるのであって、
相手は無関係なことが多いものなのだ。
そして、相手といえば、案外、意に介していなかったりして、
よけいに腹立たしいものとなり、怒りが溢れていたりしている。
つまり、怒りほど、検討違いもはなはだしいものはないのだ。
怒りの正体とは、弱さだ。怒る人ほど弱いのだ。
だから、破壊的な行動に走る。
自分の弱さに対して、脆い。
自分の危うさをこの上もなく、怖れる。
だから、なおさら、自分の感情をコントロールすることができない。
物事に対して、向き合う勇気と言うものを、持ち合わせて
いないのだ。起きてもいないことに対しても、極端に恐れる。
そして、なにより、自分の無力さを誰よりも一番よく知っている。
そして、それを知られることを恐れる。
その自分の無力さをひとにぶつけては、おきたできごとから
目をそむけ、逃げて、逃げて、逃げ続けている。
今までだって、そうしてきたのだ、と。逃げ続けてきたんだ、と。
何かが起きている。その何かがなんなのか、知ることが
こわい。なにより、こわい。
できごとの中に在るもの。
自分のまわりでおきているできごとを目を据えて
見ることすらできない。そんな、弱いひと。
だから、かわいそうだが、それすらも、自分が長年逃げ続けた
結果、今がある。いつも、そうしてきた。
逃げずに向き合える最期のチャンスをつかむか、
また、今回も逃げるかは、本人が決めることだ。
そうして、周囲にそういう人がいたら、相手のことに
同調する必要はないが、そういうひとがいるのだと、
いうことを少し知っていれば、あなた自身、そのひとの
怒りから、身を守る術を理解できるだろう。
これからを生きるために必要なものは、
ほんの少しの勇気と、どんな時でも、笑えるこころだ。
ところで、逃げてきたことの正体とは、案外、たやすい
ことが多い。また、思い違いだったり、ただの勘違いだったり
する。
なぜなら、わたしたちとあなたで決めたこと。
手に負えないことはしないように、
重すぎる荷物を背負うようなことはないように
しているはずなのだ。
だから、ほんの少し、勇気を持てば、解決するものなのだ。
この仕組みがわかれば、こわいことなど、ありはしない。
だから、難しいような道を選んだひとほど、その道はやさしい。
誰もが行くような道は、人があふれ、歩きづらいものだ。
『今』の中で生きることとは、
「受け身の人生を送れ。」というようなものでは決してない。
今の中であふれるさまざまな情報の中から、
自分にとって、最善をよりすぐり、紡ぎだすことにほかならない。
だから、果報を寝て待つようなことはしない。
こころに浮かぶ紡いだ事象をより綿密に、丁寧に行うことなのだ。
浮かぶ事象を時系列に自分の中で配分し、今、成すべきことを
優先的に、やがては、それを当たり前におこなう。
ただ、ただ、積極的に行うこと、実践なのだ。
つながりあう事象のすべてを当たり前に執り行う。
このレベルに到達するまでは、
『信号をキャッチできる自分』のレベルまで
根気強くトレーニングするしかない。
すなおに、信号を受け取れれば、もう、あなたは、今在る生き方を
行えている。
現在、三本のブログを運営しているが、ホームページとして新たに
立ち上げた『師匠の不思議な日常の仕事場へようこそ』で
更新している記事で、現在、
師匠が過去に書いた『フィルターレベル考』を少しずつ、
加筆して掲載し始めた。
数年前のものなので、現段階にあうように加筆している。
そうして、改めて”フィルターの精度”について考えている。
かつて、”みわさん”が、ご指導の神さまにお聞きした、
「才能とはなんですか?」
の問いに
「才能とは、すなおなこと」
とおっしゃられたそうだ。
その話を聞いて、師匠が”みわさん”に
「才能の”才”という文字(漢字)の元は、”神の器”
という意なのですよ。」
と、話していた。
”神の器”なればこそ、神さまから、師匠は、
巫女は純真無垢
と、伝えられている。
三次元的にはどのようなことがおきても、身辺には神の現れが
度々おこる。
そして、どのような状態でも、降神はおこる。
神託は告げられる。
すなおとは、物事の道理をわきまえ、礼節を重んじ、
宇宙の法則をちゃんと理解できていることだと
感じている。
かつて、スピリチュアルカウンセラーの方からのご依頼に
応じたとき、
その方から、師匠の対応は、仕事でお会いしたカウンセラー
の方たちとは全然違う、と驚かれたことがある。
なんら、驚くには及ばない。
神さまからお伝えされることは、とても、現実的で、
節度をわきまえて調和に根ざしているのだ。
師匠は品性の高さもまた、フィルターレベルを決定している、
という。
人間として、上品(じょうぼん)であることはとても、大事だと。
それこそが、謙虚である佇まいそのものだ。
相手がどうであれ、あたまを下げてお願いすべき時には、
相手にあたまを下げて、こころから、お願いをする。
それが、できるか否かは、人間の品格として、とても大きい。
逆にまだ、自分がの「我」が先走っているひとは、
フィルターレベルも、品性も連動して、低い。
フィルターレベルが低いということは、
フィルターの網(め)がとても荒いのだ。
だから、さまざまな障りが存在して、網を塞いでいる。
うまくいかないと、もがき苦しんでいる。
その障りを根気強くひとつ、ひとつ取り除く作業をしていかなければ、
苦しみは減らない。物事がうまくいくことさえ、危うい。
よりよい自分への道は、はるかに遠いのだ。
今のレベルはその程度だと、あきらめれば、そこどまりだ。
それすらも、自分で決めている。
生命には終わりはなく、旅はまだ、果てしなく遠い。
今、細かいフィルターレベルのひとたちも、かつては、そうだった。
そうして、こつこつと、積み重ねて、障りを取り除き、
自分の精度をあげるべく、淡々と歩んでこられたのだ。
これは、訓練だ。毎日はトレーニングなのだ。
そう、意識して過ごせば、明るい未来が、今の中に在る。
意識しないのは、自分を大事に取り扱えないということを
認識した方がいい。
自分を大事にできないと、周囲のひとからもそれが反映して、
大事にしてはもらえない。
自分が、自ら、自分が大事な存在だと気がつく。
これがレベルを上げるための、最初の一歩だ。