師匠の不思議な日常

天の語らい地の学び 香る神々との対話 天界、龍神界の物忌み(巫女)師匠こと天卜占と弟子で審神者(さにわ)である臣の日々

天の意

2010年08月19日 | 天意の実践

天の意にそわぬものに 加護はない

   

これは、自分の言うとおりにしないものは守らない

と言うことではない。

天の意に介さないもの。

世界のことでもなんでも、起きている物事に対して、

自分には関係ない

と、無関心を決め込んでいる人は、それがそのひとの望みだから、

天の意も、無関心でいる。

ということだ。

この世界は、つながりあって、美しい調和の中に存在している。

けれども、時に不調和を奏でるものもいる。

気がきかないから、

気がまわらないから、

周囲に対して、無関心だから、

自分の音が外れていようと、リズムを崩していようと、

介さない。

好き勝手にふるまっている。好き勝手に、不協和音を

がなりたてている。

自分がそうしたいからと、不自然極まりない行動をしている。

自然とは、調和だ。美しい調和。

不自然な行動をしている時点で、不調和であり、

すでに、何かが、おかしくなっているのだが、

本人が無関心を決め込んでいるから、周囲のひとも、意に介さない。

そうして、つながりを断つ。つながりを拒む。

そうして、どんどん、孤独へとはいっていく。ひとりでいる世界。

それを望むひとに、おせっかいをしても、仕方ない。

ひとと関わりたくないというひとに、関わろうよと誘っても、

断られるだけだ。

だから、神さまは、おっしゃったのだ。

天の意それはあい。天ーあ 意ーい

愛は、調和にほかならない。

天意ー愛の在るところには、神さまのご加護が在る。

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違えるな

2010年08月16日 | 天意の実践

道に迷い、悩み、なんども、この苦しさから逃げ出したいと

眠れぬ夜をいくつも過ごしていた頃、

師匠に降りてきた神さまから告げられたのは

違えるな(たがえるな)。

と、ひと言。ひと言のみをおっしゃられた。

それは、道をまちがえるなであったり、

約束したことを守れ

であったり、迷い、道から外れそうなときの警告であったり、

と、さまざまな意味で、いろいろな時にそう、おっしゃられた。

今、おもえば、なんと、自分は守られていることだろうか

と、感謝にたえない。

今はもう、聞くことのないこのことば。

自分との約束を違えることのない自分でいられるのは、

この世界の在るがまま

宇宙の流れに乗って、生きていられているからと、

導きに感じ入って、日々を過ごしている。

自分との約束が守れないのは、本当に自分が求めているものでは

なく、なんとなく、ひとから聞いて、少しその気になったけれども、

やっぱりやめたいと思うからだ。

自分との約束は、自分という、存在の原点である。

だから、誰も、約束は知らない。けれども、強く決めていたことへは、

どんなに、遠回りをしてでも、時間がかかろうとも、約束は守られる。

そうして、ひたすらに続けていれば、整いはすすみ、自然流れ始め、

周囲も自分に協力的になる。つなかりがひろがりはじめるのだ。

あなたたちには目に見えなかったつながりというものを、

実際に目にする瞬間がやってくる。

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いのちき

2010年08月15日 | 日々の中で

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かまきりに襲われ、食べられようとしている仲間を

助けようとしているのか

懸命にそばで鳴く、蝉。

タイトルの『いのちき』とは、たぶん、大分弁になるのだろう。

生きていくこと、とか、生きているさまをあらわす。

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在るのただ中から

2010年08月14日 | 天意の実践

微笑み

ただ、それだけ

それ以外は なにもない

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ことばは いらない

話すことなど なにもない

ひとりで ふたりで 

ことばを介さなくても 伝わりあう

つなかっているのだと 体感する 一瞬のきらめき

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未熟なるもの 未熟な魂

2010年08月13日 | 天意の実践

初期の魂は「わたし」がある。

この「わたし」から、波動はおこる。荒い波動。

成熟してこそ、波動は細かく、どのレベルでも対応ができる。

情報は瞬時に届けられ、あれこれと考えをめぐらさなくても、

物事は、整えられておこるので、おこるできごとを体感する。

ただ、それだけ。

未熟なものは、荒い波動で物事を捉えるため、情報は細切れで、

足りない部分を自分で細くして思考、推測するか、足りないまま

進む。だから、抜けていて、ものにならない。

けれども、考えてほしい。

未熟なものの道は、まだ、始まったばかり。

冒険はまだはじまってもおらず、道具をあれこれ選んでいるようなものだ。

だから、あちこちと、とめどなく、思念を撒き散らす。

無駄なものが多い。

もし、自分はまだ、未熟だと素直に、そして、謙虚に受け取るなら

あなたは、既に成熟している。

そして、さらに、成長を目指している。

その成長には「わたしが」はなく、ただ、在る、それのみだ。

学ぶ 習う 聞く 

このことに終わりはない。

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