さよなら三角 また来て四角...日本編☆第二章☆

オーストラリアから10年ぶりに帰国。特別支援教育に携わりながら
市民農園・家庭菜園に励んでいます。

ルーツを探る

2015年03月10日 12時43分49秒 | Web log
昨日、ジョナサンが「学校に来ている実習生がさ、苗字を聞いただけで
祖先の職業がわかるんだよ」って話してきました。

ま、これは常識ですね

Smithは鍛冶屋 はよく聞きます

Wrightは建設、修理関係

Schmitは祖先がドイツ系

Tailorだったら洋服屋 などなど

で、マイクの苗字を言ったら「おー、古い英語の名前だね。」と言われて
「 South Gate が訛ったものだと聞いています 」と言ったそう。
(マイクから苗字の由来を既に聞いていたので)

南口の門番か、南口付近に住んでいたか、そんな感じです。

で、Mumの苗字はどこからきたの?ときかれて、確かに宮城の県北、岩手南部に
多い苗字なんですけど、正式な由来はどうもよく分かりません。

近江国...滋賀のあたりでしょうか?その辺が発祥だと聞いていますが、滋賀
発祥なのに、東北(岩手、宮城)に多いのかよくわかりませんでした。

で、調べてみることに。

インターネットのおかげで、結構簡単に

どうして近江国発祥の一族が岩手、宮城に定住することになったのかということの
理由がわかりました。

どうも、奥州(東北地方)を治めていた奥州藤原家&平泉に逃げた義経を討伐しようと、
源頼朝が兵をあげたときに、S木四兄弟のひとり盛綱と5男義清が奥州合戦に
従軍したらしいですけど、彼らが東北に定住したとは出てきません。

ま、その他もろもろのS木一族が定住した可能性はありますけど。

でも、なんだか気になります。

で、調べたのですが、どうも奥州合戦を企てた源頼朝と関係があるらしい。

源頼朝の父親、源義朝の兄弟で源為朝(源為義の八男)という人物がいるのですが、
為朝が流刑地の伊豆で子供を儲けたようです。名前は為頼

頼朝と為頼は「いとこ同士」

で、頼朝の命令によって、為頼は側近として使えたS木四兄弟の四男高綱の
猶子となってS木の苗字を名乗ることになったらしいです。

要するにS木家とは直接的な血のつながりはなく、血統としては源家だけれど
S木家の名をなのることになったようで...

側近として使えたS木四兄弟にしたらとってもうれしいことだったと思いますね。

で、S木一族は奥州合戦に参加。勝利を収めた後に岩手南部、仙北の地域の統治を
頼朝から任されたようです。

それにしても「いい国つくろう鎌倉幕府」で有名な源頼朝さん、奥州合戦で
藤原氏を滅ぼして、征夷大将軍になり、歴史的にそこから武家政権が始まる
わけですけど

忠実な側近だっただろうS木に自分の「いとこ」を任せ、S木の苗字を名乗らせ
そして東北を統治するようにするなんて、やり方が非常に賢いなと思いますね。
将軍としての地位安泰を図るための策だったのでしょう。

一方、危険分子についてはどこまでも非情かつ残酷な人物でもあったわけで。

自分の異母兄弟の義経を自害に追い込むわけですからね。あぁ、無情。

でも、戦国時代はそんなの当たり前だったんでしょう。

小さいときに観た大河ドラマ「草然ゆる」は名作です。忘れられません。
石坂浩二と国広富之が演じた「頼朝&義経」のことをふと思い出しました。

ということで...

これが全て本当ならS木のルーツとなるんでしょうけど、どこまで本当なのやら。

ま、伝承の域を出ないものだとしても、面白いルーツ探りでした。

署名

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