認知症がすすむと幻覚を見るようになる。
「部屋に女の人がいる。」
同居する義母が、しばらく前から、そう言い始めた。
医者から幻覚のことは聞いていたけど、当然本人に幻覚という自覚はない。
友達と飲みに行ったときにその話をすると、
もしかしたら、今まで見えてなかったものが見えるようになっただけかも、と言われた。
今まで見えなかったもの・・・
例えば死んだ人とか。
誰かがさ迷っているのだろうか・・・
すーっと襖が開いて、義母が顔を出す。
「今日も女の人が来てる・・・」
認知症がすすむと幻覚を見るようになる。
「部屋に女の人がいる。」
同居する義母が、しばらく前から、そう言い始めた。
医者から幻覚のことは聞いていたけど、当然本人に幻覚という自覚はない。
友達と飲みに行ったときにその話をすると、
もしかしたら、今まで見えてなかったものが見えるようになっただけかも、と言われた。
今まで見えなかったもの・・・
例えば死んだ人とか。
誰かがさ迷っているのだろうか・・・
すーっと襖が開いて、義母が顔を出す。
「今日も女の人が来てる・・・」
夜の2時近くだっただろうか、熱帯夜のせいで、その日は寝付かれず、布団の上で何度も寝返りを打っていた。
ふと、少し開けてある廊下側の窓から、女性のうめき声のような声がかすかに聞こえてきた。しばらくの間聞こえてくるので、少し気になり、玄関から外へ出た。この時間のマンションの照明は間引きされていて、廊下は薄暗い。
声はマンションのエントランスホールから聞こえてくる。 僕の部屋は1階で、エントランスホールからは比較的近い。
三ヶ月ほど前の春、このエントランスホールで事件があった。夜中だったので、朝になるまで誰も異変に気がつかなかった。
また何かあったのだろうか?
恐る恐るホールへ歩いていくと、3人の若者の姿が見えた。自動ドアが開き、ぐったりした女性を1人が抱きかかえ、ホールへちょうど入ってくるところだった。もう1人はすでに自動ドアの内側に立っている。3人は見たところ二十歳そこそこの若者。
「どうかしましたか?」 僕は3人に声をかけた。
「連れの具合が悪くなったので送ってきました」 女性を抱きかかえた男が答えた。どうやら女性は酔い潰れているようだった。
「マンションの住人ですか?」
「この子はそうです」
女性は意識を失っているのか、目を閉じて、男性によりかかり、ときどき具合の悪そうなうめき声を発していた。 女性の顔をちらりと見る。 見覚えのある顔だった。今、いっしょに役員をしている男性の娘さんだった。マンションの行事を何度か手伝ってもらったことがある。大学生だと言っていた。
酔いつぶれた女性を2人の男友達が送ってきたのだろう。 2人の男も大学生風の格好をしている。 3人は、エレベーターに乗って、上がっていった。
このエントランスホールの自動ドアは中からは自由に開けることが出来るが、外からはICカードをセンサーに接触させなければ開くことができない。以前は、部屋の鍵を自動ドア横の鍵穴に差し込んで回すと、ドアが開いたが、今は部屋の鍵と別にICカードを持って外出しなければならず、カードを持って行くのを忘れる住民が続出した。 自動ドア横の番号キーを操作して自分の部屋を呼び出し、部屋にいる人が中から操作して、自動ドアを開けることもできたが、部屋が留守の場合は、警備会社に連絡する必要がある。酔い潰れた女性のカードがなかなか見つからず、外ホールで時間をとられたのかもしれなかった。
それからしばらくした夜、仕事の帰りに、駅で先日の女性と偶然いっしょになった。
並んで帰路を歩き、先日のことを話題にした。
「この前は大丈夫だったの?かなり酔ってたみたいだけど・・・」
「すいません、あまり覚えてなくて。起こしちゃいましたか?」
「いや、まだ起きてたから」
「もしかして、エントランスのドアを開けていただきましたか?私、あの日カードを忘れて出かけたので」
「いや、僕が行ったときは、もうドアは開いてたよ。家の人じゃないの?」
「あの日、両親は留守だったんです。送ってくれた友達の話しだと、急に自動ドアが開いたそうです。誰かが部屋から開けてくれたんだと思います」
「僕が行ったときには3人がちょうど入って来るところだったよ」
「3人?」
「送ってきてもらったんだよね」
「2人じゃないですか?送ってくれたのは1人なんですけど」
「でも、確かにもう1人いたよ、白いパーカーを着た男が・・・」
「へんだなあ~、そんなはずないんですけど」
そのときは、彼女は酔っていたから勘違いしているのだと思った。
でも、その男の恰好は真夏にしては、ずいぶん厚着をしていた。長袖の白いパーカー・・・
どう見ても春先の服装である。
春先・・・
ふと、気になったことがあり、次の休日、マンションの、あるお宅を訪ねた。
三ヶ月ほど前に大学生の息子さんを亡くされた方だ。
もともと母子家庭だったので、今では母親が1人で暮らしている。
息子さんは夜中に帰宅したところで、くも膜下出血で倒れた。
倒れたのはエントランスホールだった。
母親は先に寝ていたので、戻らないことに気がつかなかった。
朝になり、住民に発見され、救急車で搬送されたが手遅れだった。
その時、マンションを代表して、香典を届けたが、改めて、ちゃんと線香をあげさせてほしいと言うと、中へ通してくれた。
仏壇に置かれた遺影には、あの夜に見た白いパーカーの男が写っていた。
自動ドアを開けたのは、彼だろうか。
彼はまだ、このマンションに漂っているのかもしれない・・・
「へえ、サトシもダイビングやってるんだ」
独身の頃、僕はスキューバダイビングを趣味にしていた。
母と名古屋にある母の実家へ行ったときのこと、従兄弟のサトシと話していて、彼もダイビングを楽しんでいることを知った。
サトシは五歳年下で、二十歳を少し過ぎた若者だった。
大学には行かないで働いているせいか歳の割にはしっかりしている。
母の兄、つまり僕の伯父は僕がまだ小さいときに他界している。この家では三人の子供の父親代わりを祖母が務めていた。サトシは三人兄弟の末っ子である。
子供の反抗期の相手は伯母ではなく、祖母が一手に引き受けた。タフなおばあちゃんだと思う。
それからしばらくしたある夏の終わりの日曜日、当時一人暮らしをしていた都内のアパートで、僕はベッドに横たわり、借りてきたビデオを観ていた。穏やかな昼下がり、近付いていた台風はコースを反れて日本海に抜けていた。
「気をつけてね」
突然声がした。ふと気付くと、部屋の角にサトシが立っている。ダイビングスーツに身を包み、こちらを見ていた。
驚いて起き上がり、サトシに声をかける。
「いつ来たの?」
それには答えず、サトシはにっこり笑って音もなく部屋を出て行った。
「待てよ!」
あわててあとを追う。
1Kのアパートは6畳の部屋と3畳ほどのキッチンがあるだけだ。
戸を開けてキッチンを見るが、サトシはいない。
ドアを開けてアパートの廊下へ出てみる。やはりサトシはいない。
廊下を走り、アパートの外の道へ出て、左右を見るが、もう姿は見えなかった。
「サトシ!」
そう叫んだ声で目が醒めた。
つまらない内容の映画だったからビデオを観ながら居眠りをしていたようだ。
それにしても、リアルな夢だった。サトシが身につけていたダイビングスーツのデザインもはっきり覚えている。
少し気になり、名古屋に電話を入れてみる。
出たのは伯母だった。「サトシくんは元気ですか?」そうきいみた。
今日は朝早くからダイビングへ行ったとのことだった。
僕は何となく伯母に夢にサトシが出てきたことを話した。
叔母は黙って聞いていてくれたが、やがて笑い出し、また遊びに来るようにと話してくれた。
水を飲もうと、キッチンへ行くと、床が少し濡れている。
あれ…? どうして濡れてるんだろう?
嫌な予感がした。
サトシの事故死を知ったのはその日の夜だった。
母からの電話だった。
サトシは名古屋から同僚と二人で、ダイビングを楽しみに能登まで行った。
思ったより波が高かったが、以前から計画していたことでもあり、少し無理をして海へ入っていった。そして波にのまれ、二人は岸から遠ざかっていった。
一人はなんとか岸へたどり着いたが、サトシは帰らぬ人となった。
遺体は名古屋の自宅に戻されてあり、棺の中で眠っていた。
「サトシが身につけていたダイビングスーツはどんなデザインでしたか?」
「それなら、部屋にあります」
伯母はそう答えて部屋を案内してくれた。
部屋に入ると、ダイビングスーツが壁に掛けられてあった。
夢の中で見たデザインと全く同じものだ。
以前来たときに見せてもらった記憶はない。
家族にお別れを言いたかっただろうに、彼は僕の所へ同じダイバーとしてわざわざ東京まで寄り道をして、注意しに来てくれたのだ。
「不思議なことがあるもんだね」
伯母は、静かにそう言った。
それからしばらくして、僕は仲間数人とキャンプへ出かけた。
山間部の清流のすぐ横に車を止め、テントを張った。
夜、バーベキューのあと、みんなは疲れもあり、テントにもぐり込んで死んだように眠った。
ふと、気がつくと、高校時代の友人の部屋にいる夢を見た。
高校の時、何度も遊びに行った部屋だ。
彼はベッドで眠っている。
部屋の隅に僕は立っていた。
先日、帰省した時に、彼もときどきキャンプへ行くと言っていた。
清流の横にテントを張って寝るのが好きだと…
「気をつけてね」
僕は彼に、そう話していた…
大きな雨音で目が覚めた。
かなり強い雨が降っている。
テントから顔を出すと、暗闇から、低い濁流の音が聞こえてくる。
車まで走って行きヘッドライトをつけると、川の水位はすぐそこまで来ていた。
みんなを大急ぎで起こし、車に乗り込み、間一髪で難を逃れた。
あと、10分遅かったら、テントは濁流にのまれていただろう。
次の日、同じ川で濁流に飲まれて命を落とした人が何人かいたことをニュースで知った。
高校時代の友人から電話があった。
夢に僕が出てきたと言う。
「不思議なことがあるもんだね」
サトシのことを考えながら、僕は友人にそう話していた。
学生時代、僕は一人暮らしをしていた。
ある冬、授業が終わったあと、友人のアパートに寄って、少しおしゃべりをしていた。
気がつくと夜の8時を過ぎていたので、おしゃべりを切り上げて自分のアパートへの帰路につく。当時は大学から歩いてさほど時間がかからない場所にアパートを借りていた。途中、晩飯を買ってから戻ろうとしたが、ふと、財布がないのに気がついた。
大学の学食で昼を食べたときは確かにあった。仕送りまで日があるし、なくすと大変だ。
今日の最後の授業で友だちに頼まれて小銭を貸したあと、机の下に置き忘れたことを思い出す。
舌打ちをして、大学へと向かう。
大学ではまだ夜間の授業が行われているらしく、一部の校舎には明りがついている。
僕は、空腹と寒さを我慢しながら、最後の授業があった教場へと足を速める。目的の教場のある校舎では授業は行われていないらしく、教場の灯りは全て消えている。
薄暗い階段を昇り、廊下を歩く。突き当りが目的の教場だ。扉が少し開いているのが見える。
ゆっくりと近づいていくと教場から、話し声がかすかに聞こえてくる。
あれ、こんな暗がりで誰かいるのだろうか?
扉の隙間から中を覗いてみる。
教場の隅に寄り添うような、男女の影がふたつ。
廊下の灯りがふたりの横顔をうっすらと照らしている。
同じ学科の中山と女子の方は大森だった。
はは~ん、ふたりは前から付き合っていると噂のある男女だった。
入っていこうかどうか、扉の外で立ち止まって少し考える。二人の邪魔はしたくない。
それでも空腹には勝てず、扉を開けて教場へ入っていった。
「よう!」
そう、声をかけると二人はこちらを向いて、少し不思議そうな顔をした。
「うわさ、ほんとうだったんだね」
それには答えないで、中山は意外なことを言った。
「財布届いた?」
「え!?」
「財布この教場に忘れただろ?」
「うん、だから取りに来たんだけど・・・」
「授業が終ったあと、財布見つけたから、ふたりで届けに行ったんだよ」
「え? そうなの?」
「いなかったからドアの新聞入れに入れておいたんだけど、気付かなかった?」
「あ~、そうなんだ!アパートにはまだ戻ってないんだよ」
中に免許が入っていたから僕の財布だと判ったそうだ。
二人は、僕に笑顔を見せる。
僕は二人に礼を言って、アパートへと向かう。
アパートへ戻ると、玄関の前に友人の石井が立っている。
近づくと、表情が固く、ニコリともしない。
「どうした?」
「今、中山と大森が病院で死んだんだ・・・」
「…?」
石井の言ってる意味が理解できない。さっき、教場で二人に会ったばかりだ。
「さっき、学校にいたよ。あのふたりが付き合ってるのは本当だったんだな」
「冗談言うなって」
「ほんとだよ!俺さっき教場で二人がいるのを見たんだよ!」
石井の表情はますます固くなっている。
「夕方、この近所の交差点で二人とも車に跳ねられて、病院へ運ばれたんだよ。お前にも知らせておこうと思って」
「え?」
「病院に運ばれてから、すぐに二人は息を引き取ったそうだよ。中山の手帳に俺の連絡先が書いてあったから、警察から電話が来たんだ」
「でも、さっきまであの二人は教場に・・・」
鍵を取り出してドアを開け、新聞受けを確認すると、財布はそこに入れられてあった。
石井はそんな僕の行動を少し不思議に眺めながら言った。
「でも、どうしてあの二人、この近くまで来たんだろ?帰りと反対方向なのに」
僕は財布を手にして、石井に見せる。
「あの二人が、この財布を届けてくれたんだよ」
石井と、二人が事故に遭った交差点へ行ってみる。
二人が倒れていた場所にチョークで人の形が二つ描かれてあった。
すでに花が供えられてある。
僕が財布を忘れなければ、あの二人は死ななくてすんだのだと考えると涙がでてきて止まらない。
石井に無理を言って、再び財布を忘れた教場へ行ってみるが、二人の幽霊はもういなくなっていた。
無事に天国へ行けただろうか?
小学校六年の冬。
クラスでニワトリの卵を孵す実験をした。箱を作って裸電球で受精卵を温める。
何日かして、今夜あたり、孵るだろうと先生が話してくれた。
卵からヒナが孵る様子が見たいと思った僕は、友達と待ち合わせて二人で夜、教室まで見に行くこにした。
うまくいけば孵る瞬間が見られるかもしれない。
ところが、友達は時間になっても待ち合わせ場所に現れない。
しばらく待ったあと、仕方なく一人で行くことにした。
当時の小学校は門も出入口も開けたまま。
でも、夜の校舎を一人教室に行く度胸がなく、用務員に事情を話していっしょに見に行ってもらうことにした。
用務員というと年配のイメージがあるが、この小学校の用務員は若い男性。
夜、見回りの途中に音楽室でピアノを弾くらしい。
薄暗い廊下を歩き、用務員室の前で止まる。
宿直しているはずなのに明かりが消えている。
ノブに手をかけるが鍵がかけられてある。
アレ? ヘンだな・・・
どうしようかと考えていると、向こうから声を掛けられた。
「こら!こんな時間に何してんねん?」
見ると、用務員のお兄さんがこちらに歩いて来る。
「ヒナが孵るとこが見られるかもしれへんから、教室に行きたいねん」
「今日孵るんか?」
「先生、今夜くらいや言うとった。怖いからついて来てーな」
二人で教室に行く。
教室の前の黒板の横に置いてある木製の箱の中を覗いてみる。一部がガラスになっていて、中が観察できるようになっている。裸電球の回りに五、六個並べられた卵にはヒビもなく、孵る様子はない。
「まだみたいやな」
そう言う用務員に、もう少しここにいたいと頼み込むと、彼は「少しだけやで」と言って、生徒の机の椅子のひとつに腰を下ろした。
彼は自転車が趣味で、今日琵琶湖へ自転車で行って来たと話してくれた。
当時、僕が住んでいたのは兵庫県伊丹市。そこから琵琶湖まではかなりある。
距離にして片道50キロというところ。
それでも一日で行って帰って来たという。
「もう遅いから帰り」
しばらくしてから、そう言われ、彼は出口まで送ってくれた。
次の日の朝、教室に入ると、箱の回りに人だかりができている。
行ってみると、箱の中の卵のひとつがほんの少しだけ割れて、中からヒナが顔を出している。
でも、ヒナはそこで生絶えていた。
チャイムが鳴って先生が入って来た。
先生が最初に発した言葉に僕は凍り付いた。
昨日の昼、この小学校の用務員が自転車ごと琵琶湖に転落し、病院へ運ばれたが、間もなく息を引き取ったという。
休み時間に、友達に昨日の夜のことを話した。
その友達はオカルトなどに詳しく、話を信じてくれるかもしれないと思ったからだ。
黙って僕の話しを聞いたあと、友達は意外なことを言った。
「道連れにされんでよかったな」
「道連れ?」
「幽霊はな、会った人を、よう道連れにして行きよんねん」
道連れ・・・
卵から出ることができずに息絶えたヒナ・・・
箱の前に行き、そっと手を合わせました。