まあどうにかなるさ

日記やコラム、創作、写真などをほぼ週刊でアップしています。

浮世の値段

2015-10-31 23:37:12 | 書評

司馬遼太郎の『世に棲む日日』に『浮世の値段』という章がある。
主人公の高杉晋作が、下関を開港しようとし、攘夷派から命を狙われたため、下関の芸者を連れて逃亡生活を送っていた時の話である。
晋作は芸者に訊く
「浮世の値段はいくらだと思う」
「……五両くらいかしら」
真顔で芸者は答える。自分の売られる値段と思ったのであろう。
芸者が答えた意味と晋作の質問した意味とは少し違う。
美人であれ不美人であれ、英雄であれ凡骨であれ、ひとしなみに人生とはいったいどれほどの値段かとうことであった。生きていることの楽しみはたしかに多い。しかしその裏側の苦しみもそれとほぼ同量多いであろう。その楽と苦を差引き勘定すればいくら残るか、というのが晋作のいう浮世の値段なのである。
「まあ、三銭か」
それ以上ではあるまいと晋作は思う。
何億もの人間がこの世に出てきたが、それらはことごとく死に、愚者も英雄もともに白骨になった。まったくのところ、浮世の値段はせいぜい三銭であると。

この項は司馬遼太郎の創作か実話なのかはわからないが、とても好きな話である。
そういえば世界史的にも類のない成功をおさめた秀吉も最期に意外な句を残している。
『露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢』
夢の中で夢を見ているような、はかない一生だった、と告白しているのだ。

世の中の仕事にも割にいい仕事というのはないのかもしれない。
高収入であっても、それに見合った責任なりプレッシャーなりがある。
きついノルマがある代わりに収入のいい仕事、きついノルマはないが収入はそれなりの仕事。医者やパイロットは収入はいいが命の責任がある。

浮世の値段は晋作が死んだあとのこの世も「まあ、三銭」なのかもしれない。
そんな世に棲む日日をみんな過ごしているのだ。


ネットデマに踊らされる人々

2015-10-24 21:04:57 | 社会問題

先週発売の『週刊スパ』に『図解 ネットデマに踊らされる人々』という記事が掲載されていた。
この記事でデマとして取り上げられた内容は、僕自身がネットで見て、今まで信じていた内容の記事もあった。この記事を読まなければずっと信じ続けていたかもしれなかったのだ。
ネットは誰でもコンテンツを配信できる。当然捏造も含まれる可能性は高くなる。
面白半分もあるかもしれないが、クリック数を増やし、金儲けのためにデマを流す、あるいはシェアするサイトもあると記事では警告している。

(以下記事から一部引用)
今やネットのあらゆるところにデマが蔓延している。身近なところではSNSでやたらと芸能人の美談を目にすることが増えた。例えば、『カンニング竹山が今だにコンビ名を名乗っているのは、亡くなった相方の家に給料の半分を送るため』だとか『ビートたけしがフライデー事件で干された際に、志村けんが金銭的援助をしていた』といった話だ。これらは現在、本人や関係者たちの証言によってデマであることがわかっている。しかし、それでも定期的にフェイスブックなどにこのニュースが上がり、「いいね!」を押してしまう人はあとを絶たない。
『北斗晶と川島なお美がガンになったのは福島を訪れたから』のような反原発の主張を含んだ科学的根拠に乏しい説も拡散している。
こうしたネットデマは、そもそもどこから発生するのか? ネットニュース編集者の中川淳一郎氏は、ネットに溢れるデマ情報を焚きつけることで、ページビュー数を稼ぐ『まとめサイト』の存在が背景にあると指摘する。
「わかりやすいのは、思想的に偏ったニュースをまとめて掲載するまとめサイトです。ネットでページビュー数が集まり、運営元は広告の掲載料などで金儲けができる。まとめサイトの目的は真実を報じることではなく、バカをクリックの奴隷にすることです。だからバカにウケそうなネタであれば、根拠が薄くても掲載します」
しかもここ最近、ネットには新しいデマ発生源まで台頭している。それはSNSでシェアしやすい口コミしたくなるコンテンツやニュースを提供する『パラレルメディア』だ。
パラレルメディアはまとめサイトと同じように、独自に取材しているわけではない。海外サイトの翻訳やSNSで話題になった画像や動画の二次利用がほとんど。目的はページビュー数を稼いでお金にすることである。そのため悪質なサイトだと、掲載許可をとらずに無断借用したコンテンツばかり掲載することもあるという。
『本当は髪を洗えば薄毛になり、肌水をつければどんどん肌が弱くなって、歯は磨けば磨くほど虫歯になる』などとショッキングなタイトルで人目を引く記事もデマの可能性がある。
 では、どうすればデマの拡散を防ぐことができるのか?
結局のところ自分が気をつけるしかない。やたら不安を煽る見出しやテキストに加え、内容のイメージに合いすぎる画像がセットになっていたら、注意したほうがいい。
 また、予期せぬきっかけで自分や家族がデマに巻き込まれるリスクも高まっている。今年7月に、ツイッターに1歳の女の子の写真と共に『安保反対国会前デモに連れていかれた、我が孫が熱中症で還らぬ人に』というつぶやきが投稿された。孫を失った祖父母が、国会前デモに参加した息子夫婦に怒りをぶつけたものだが、これも捏造と発覚する。夫婦が参加したのは渋谷のデモであり、そのとき撮影した娘の画像が悪用されたのだ。夫婦は弁護士を通じて肖像権の侵害を申し立て、裁判所はツイッター社にデマを投稿したアカウントの発信者情報の開示を命じた。
最近はネットデマを訴えることのハードルは下がっており、早く弁護士に相談した方がいい。デマを流す方は信念があるわけじゃないから、めんどうくさいと思ったらすぐに記事を取り下げる。『デマを拡散したら訴えられるかも』という印象をつくっていくことが抑止力になるのだ。

『週刊スパ』ではデマになりやすいテーマをいくつか挙げているので紹介する。

● 親中、親韓のレッテル

● 原発不安を煽る

● 勝手に義憤型

● 陰謀論

● ちょっといい話

● 芸能人

ネットの記事は、出所が新聞などの素性がしっかりしている情報は比較的信用性は高いと思う。
ネットは気軽に情報をとれるがデマも多い。
そのことは憶えておいた方がよさそうである。


クラシックカーフェスティバル

2015-10-18 20:48:48 | 写真

所沢自動車学校で毎年行われているクラシックカーフェスティバル。実際に走っているクラシックカーのオーナーさんが車を持ち寄って一同に愛車を披露します。
どの車もよく手入れされていてオーナーさんの車への愛情が伝わってきます。

 


血液型性格判断

2015-10-10 23:54:44 | 雑学

性格と血液型には何の関係もないというのが心理学の定説である。
にもかかわらず血液型性格判断を信じている人は多いのは、それだけ血液型に関する情報が社会に氾濫しているからである。
人々が血液型性格判断を信じてしまう心理は心理学的に説明できる。

その一つ目がラべリング理論。
ある人物の特性は、その人の行為そのものより、周囲からのラべリング(レッテル貼り)によって形成されるようになる。血液型性格判断によってラべリングされることにより、その行動がクローズアップされ、それは本人の行動も影響を受けるようになる。

二つ目はバーナム効果(またはフリーサイズ効果) 誰にでも当てはまるあいまいで一般的な性格を表す記述を自分だけに当てはまる性格だととらえてしまう現象。
例えば、「ロマンチストな面をもっている」とか「明るく振舞っていても心では不安を感じている」などの診断は誰もが適切な判断だと思ってしまう。
こうして何となく当たっているように感じる血液型性格診断は、その後の人間の注意と注目度によってさらに強固になっていく。
人々が血液型性格診断によって「A型は几帳面だ」と思っていると、A型の人が几帳面な行動をした時ばかりに注目し、A型の人が几帳面でないな行動をしたときにはほとんど意識を向けなくなります。

さらに、記憶の方でも、A型の人が几帳面な行動をしたときばかり覚えていて、そうでない行動をしても記憶に残りにくいという現象まで起こってしまう。
人はいったん便利な物差しを手に入れるとその物差しでは計れないことには目をつむり、都合よく計れるものだけを持ち出してきて、その物差しが正確であると思いこんでしまう。


22才の別れ

2015-10-04 19:53:26 | 音楽

今でもこの歌は大好きでよく聴く。
70年代のかぐや姫の大ヒット曲、伊勢瀬正三作詞作曲。
後伊勢正三がかぐや姫から分かれて作ったグループ、『風』のデビュー曲でもある。
初めて聴いたのは中学生のころだったと思う。
その頃、22才はずいぶん先のことだと思っていたが、今となっては30年以上前になる。
実際、大学時代に交際していたカップルがこの歳で分かれることは多い。
実家のある故郷に彼氏か彼女のどちらかが就職が決まったり、新しい環境になって新しい出会いがあり、別れがあったり…
でも、この歌は17才の頃から交際していたと歌詞から読み取れる。
高校生のころから付き合っていたことになるので、実家のある郷里に帰るための別れではなさそうである。
そもそも二人は大学の通っていたかどうかも歌詞からは分からない。
でも、22才(あるいは23才くらい)という歳は大学を卒業したときの節目の歳ではある。

歌詞に
『わたしには鏡に映ったあなたの姿を見つけられずに
わたしの目の前にあった幸せにすがりついてしまった』
とある。
彼の本音が見えなくなり、新しい環境で出逢った新しい彼のプロポーズを受けてしまった彼女の悲しい気持を歌った歌詞である。
結婚を決めるまで、前の彼には新しい彼の存在を黙っていたのだろうか…
そうではなく、しばらく会っていなかったと思われる。
気持ちが離れていたわけではなく、事情があったのかもしれない。
なかなか会えないので彼の本音が判らなくなってしまったのだろうか。
今でも嫌いになったわけではなく、5年間を過ごした時間は大切に思っている。
だからこそ、ちゃんとさよならが言いたい。
言わなければいけない。
そのために彼に会いに来た。
大好きだった彼は別れてもわたしのせいで変わらずにいてほしい。
大好きだった彼が変わらずに彼のままでいてくれれば、きっと誰かが彼を好きになってくれるから…