雷が近くで鳴っていた。
家から少し歩いたところにある図書館からの帰り道、小高い丘の公園に差し掛かったところで真っ黒な雲が空を覆った。
足を速めたが、人気のない公園をしばらく進んだところで大粒の雨が勢いよく落ちて来た。
自宅までは走れば数分だが、借りてきた本を濡らすわけにはいかなかった。
とっさに木の下に身を寄せるが、しばらくすると雨は葉の間からも落ちて来る。
分厚い雲で太陽の光が遮られた公園を雷の強い光が風景を明るく照らし出していた。
公園の近くにはコンビニなどの避難できそうな店はない。
ふと、公園の先に空き家を見つけた。
雨が止むまで、空き家の軒下で雨宿りすることにした。
僕は全速で走り出した。
家の門は壊れており、敷地には自由に入ることができた。
この空き家は一年ほど前にご主人が自殺し、奥さんは小さな一人息子を連れて実家へ帰ったと聞いている。家は売りに出されているそうだが、事故物件のため、なかなか買い手がつかないとの事だった。
僕は玄関の軒下へと駆け込んだ。
庭は雑草が生い茂り、ガレージのシャッターには錆びが浮いていた。
雨はすぐに止むだろう。
しばらく、その場で雨宿りをすることにした。
しかし、雨は増々強くなっていく。最近の夕立は凄まじい。大量の雨粒が屋根に当たり、豪快な音をたてていた。視界も、雨に遮られ数軒先の家がやっと見える程度だ。まだそれほど遅い時間ではないのに、分厚い雲のため、夕暮れのように暗かった。
風が出てきたのか、雨は軒下にも降り込んできていた。
その場にいても、下半身は雨にさらされるようになってきた。
もしかして家の中に入れないかと思い、ノブを回すと何と鍵は掛かっていない。
空き家とはいえ他人の家なので黙って入ることはよくないが、しばらく玄関を借りることにした。
中は薄暗く、ドアを閉めると雨音もずいぶん遠くで聞こえる感じだ。
「どなたですか?」
奥から女性の声がした。
あ、まずい、人がいた。
「空き家だと思ったものですから雨宿りをさせてもらっていました」
奥に向かって声をかける。
「すぐに出て行きます、どうもすいませんでした」
ノブに手を掛けると、再び声がした。
「どうぞお入り下さい」
「いえ、失礼します」
ドアを開けようとすると、後ろからTシャツを掴まれた。
「おじちゃん、遊ぼう」
見ると、5歳くらいの男の子がにっこり笑っていた。
いつの間にここまで来たのだろう。
奥から女性も顔を出す。
「どうぞお上がり下さい」
この家の奥さんだろう、子供と戻って来ていたのだろう。
奥さんの招くままに上り込み、リビングへ入る。
そこには以前のままだと思われる家具が置かれてあったが、細々した日用雑貨は見当たらなかった。
男の子がトランプを持ってきてくれた。
人懐っこい男の子の哀願するような顔に負けて、ソファに腰かけて3人でババ抜きを始めた。
しばらくするとドアが開き、人が入って来た。
男の子が立ち上がってドアを開け、玄関の方を見て満面の笑顔を作る。
「パパお帰りなさい」
「ただいま」
男の声がした。
男はゆっくりリビングへと歩いてくる。
この家のご主人?
どういうことだろう。
ご主人は自殺したはずである。それとも、別の家族が最近越して来たのだろうか。
男はリビングへ入って来た。
「このおじちゃんに遊んでもらってたの」男の子は笑顔のまま父親に話しかけた。
「そう、それはよかったね」男も笑顔でそう答えた。
「あなた、おかえりなさい」
「ああ」
男は奥さんに笑顔を向け、それからゆっくりと僕に顔を向けた。
「ゆっくりしていって下さい」
「い、いえ、雨宿りさせてもらっているだけです。すぐに失礼しますから」
男の子が父親に向かって言う。「パパもトランプやろうよ」
「あのう」
僕が男に話しかけると、男は笑顔のまま僕の方を見る。
「何でしょうか」
「最近、こちらへ越してこられたのですか」
「いいえ、ずっと前から住んでいますよ」
訳が判らなくなっていた。
僕の表情を見たのか、男から笑顔が消えていた。
男の子も奥さんも僕の方を不思議そうに見ている。
「あの、たしか一年ほど前に…」
思い切って僕は言った。
すると、男は少し苦笑いを浮かべてから答える。
「そうですよ、一年前に僕は自殺しました」
僕は少し顔を強張らせながら、次の言葉を言い出せずにいた。
立ち上がって、3人から少し距離を置いた。
「おっしゃっている意味がよくわかりません、自殺した方がどうしてここに…」
3人はじっとこちらを見ている。
「ま、まさか」
僕はそうつぶやくと、後ずさりしながら玄関へと近づいて行った。
男は不気味に笑いながら、平然と話す。
「そうですよ、僕は死んだ人間ですよ」
「う、うわ!」
僕は悲鳴を上げ、転がるようにリビングを出て廊下を走り、玄関から外へと飛び出していた。
雨はまだ少し降っていたが、構わずに走って門を出る。
公園の横の道路に、パトカーと救急車が止まっていた。
そういえば、さっきサイレンの音がしていた。
何があったのだろう。
公園の中には消防署の職員数人が男を担架に乗せているところだった。
その周りには何人かの警察官もいる。
少し離れたところには野次馬が数人、様子を伺っていた。
担架に乗せられている人物を見て、僕は息を飲む。
その男は僕と同じTシャツを着て同じジーンズを履いていた。
少し取り乱しながら、僕は近くに走り寄る。警官に遮断されることもなく、担架まで近づくことが出来た。
担架に乗せられた男は、半身にやけどを負っていた。
その男の顔を見て、僕は驚愕した。
男は僕自身だったからだ。
消防署員により、白い布が担架の僕に被せられ、救急車へと運び入れられた。
だが、消防署員たちも、警官たちも横に立っている僕には誰一人気付かないようだった。
ふと見ると、いつの間にか空き家の3人の家族が横に立っていた。
「あなたは雷に打たれて死んだのですよ」
ご主人がそういいながら、横の木をあごで示す。
木の幹の上から下にかけて黒い焦げ跡が残っていた。
木に落ちた雷が、雨を避けて立っていた僕にも直撃したのだ。
一瞬のことだったので、自分が死んだことにも気付かなかった。
「私もこの子も、もう死んでいるんですよ」
奥さんも僕に話しかけてきた。
「実家へこの子を連れて帰ったのですけど、心の病に罹ってしまって、この子と無理心中してしまったんです。1か月ほど前のことです」
警官たちは忙しく現場検証を続けていたが、誰も4人には気が付かない。いや、見えていないのだ。
僕も幽霊だったのか…
木から少し離れたところには、焦げた本が雨に濡れていた。
それは僕が先ほど図書館から借りてきた本だった。