簡単でないから ”こそ” 価値 ”が” あるわけじゃないけれど
価値というものに内に「簡単ではない」ってことは
含まれるんじゃないかな〜なんて思うsachiakiです。
簡単であっても価値があることはたくさんあるし、
簡単であることが価値であることも重々承知しているって
そういう前提を置きつつ。
ここのところAV新法なるものでアダルト界隈が揺れている。
ぶっちゃけこの話はとてもナイーブなので
一筋縄でいかないことが明白なので、
私はちょっと距離を取っているところです。
で、その距離を取りつつ女性側でセックス産業に身を置いている人も
知り合いにそれなりにいるので
なんていうか現場の声ちゃんと届いてねぇな〜なんてことも思いつつ、
セックス産業に関わらず、女性という立場であるだけで
ある程度の「見られるリスク」があるって話を
ちょっとだけしてみようかなって思うわけです。
これ、男性というジェンダー観のままの方だと
分かり難い感覚だと思うんですけれど、
私自身が「自分の性別がよくわからんね」ってなっていたのもあって
自分の性別をペンディング状態にしていた時は
それほど感じなかったものであるし、
「女性として見ないでください」ということを
そもそもよく口にしていたのもあって
「見られる」ことということがよく分かってなかったんですよね。
よく見かける
水着の女性の写真に違和感のあるものが写っていても
男性はそこに写っているものに気づけないってやつでもあるように
違和感よりも自分にとって大事な方に注意が向くってやつで
これは「選択的認知」ってものの一部なんだと思います。
写真にある違和感よりも当座の異性の方が大事ってことになりますね。
なので、当然女性でも異性が大事って人は
認知するものの範囲を「異性」にしている人もいると思います。
ちなみに女性は「見られる性」男性は「見る性」なんてことも言われていたぐらい
女性という性別に生まれ落ちると「人から見られること」ということを
骨の髄から感じるものなのかもしれないです。
いわゆる「女の子って4歳にもなるとおませさんになるよね」みたいなもので
まだまだ幼さの真っ盛りでありながら
大人の女性と変わらない仕草をしてくることがあります。
異性親である父親だちはそれでだいぶメロメロなようですね。
というわけで、女の子って性別で生まれて
自分から周りが望む媚態と使い分けることができる子が
猫っかぶりがうまいと言われたりするタイプになったりするのでしょうが
そうでなくてもある程度の女の子は
自分がどう見られるかということをかなり気にして育つのだと思います。
それはティーン雑誌を見ていても明らかで
女児向けの雑誌の方がどうしたら相手に好印象を残せるか
ということに熱量を割いているかを見ればわかるってものです。
最近は男の子もだいぶ早い段階から「見られる」ことに
それなりに気遣うようになっているようですが、
それでも自らの身だしなみを気にするようになるのは
異性のことを意識し出す思春期以降なのではないでしょうか。
そんなわけで、少なくとも「女の子」「男の子」というものを
当たり前に受け取っている時間が長ければ長いほど
習慣のギャップは生じやすいんじゃないかなって思います。
さて、話はだいぶ逸れていってしまいましたが、
この「見る」ということの期待やら軽蔑っていうのは大きな壁があって、
「見られるだけで汚れた気分になる」というようなものを
どれだけ感じ取ることができるかで
壁の高さや厚さが変わるんじゃないかと思います。
可愛いものや美しいものを見た時に見とれてしまう
ということは動物の本能として当然のものだと思うのですが
これが見られる側の予期していることかどうかで
だいぶニュアンスが変わってしまうってことがあるんだと思います。
私自身も自分のジェンダー、セクシャリティを女性として受け入れた時に
今までしなかった服装や、しなかったメイクなどで「らしさ」を手に入れた時に
視線を感じるということが時折あり、
それが自分の求めている場と求めている人物であれば問題ないけれど
そうでない時に見られていると感じると
ゾワッとするような感覚が分かるようになり、
それがなんなのかが分からなかったけれども、
これがいわゆる「獲物を狙う目線」と似ているということを知って
なるほどそういうことなのか、と合点しつつも
意図せず「獲物」として見てしまう心理なども興味が湧いたりです。
そしてその「どうぞ捕食してください」という気持ちでない時に
「捕まえてやるぞ」みたいなのは恐怖でしかなく、
女性が恥じらいつつも性の解放を行って
スカートを短くしてみたり、ボディラインを強調する服装をしているからって
もっとオープンになる「はずだ」という期待は
「もっと捕まえたいという気持ちを大きくさせてくれ」みたいなものでもあって
なんでそんな勝手な期待に応えないとならないの?
というようなものもあるというわけです。
ツイッターなどを見ていてセクシー女優さんや
比較的露出の多い女の子たちに過剰さを求めるリプなんかを見ていると
この人たちに品性はないのかな?って思ったりもします。
まぁ、それを応援と受け取って肥やしにしていける人の方が
圧倒的に強くなって爆発的な人気を得たりするので
そこは受け取る側の懐の深さ次第だとも思うんですけれど。
そしてその過剰な期待に応えたいと思う人の中には
自分の意思が薄弱な人もいるので
それらが悪魔合体すると手に負えない被害を生み出すことがあるよね
って話がしたかったのでした。
セックス産業にまつわるすべての人が意志薄弱なのでなく
それなりに流れなどもあり、自分で選んだように思えても
巧みに誘導されていて、のちに気づくこともあれば
それも踏まえて「やってきて良かった」とも思うんですけどね。
そんなことは本人にしかわからないし、
本人でさえも過去と未来では別の人物に近いものなので
必ず同じ気持ちでいるとは限らないんですけれど。
とにもかくにも。
「性」をテーマに扱うっていうことは
それだけ繊細なものの上で揺れていて
かくあるべし!なんてものはないんじゃないかなってことです。
そしてそんなことを思いながら
女の子のレタッチ仕事をしているところでした。
キレイとはなんぞや?と思いつつ作業に戻ろうと思います。
そんじゃまた。モイモイ。
価値というものに内に「簡単ではない」ってことは
含まれるんじゃないかな〜なんて思うsachiakiです。
簡単であっても価値があることはたくさんあるし、
簡単であることが価値であることも重々承知しているって
そういう前提を置きつつ。
ここのところAV新法なるものでアダルト界隈が揺れている。
ぶっちゃけこの話はとてもナイーブなので
一筋縄でいかないことが明白なので、
私はちょっと距離を取っているところです。
で、その距離を取りつつ女性側でセックス産業に身を置いている人も
知り合いにそれなりにいるので
なんていうか現場の声ちゃんと届いてねぇな〜なんてことも思いつつ、
セックス産業に関わらず、女性という立場であるだけで
ある程度の「見られるリスク」があるって話を
ちょっとだけしてみようかなって思うわけです。
これ、男性というジェンダー観のままの方だと
分かり難い感覚だと思うんですけれど、
私自身が「自分の性別がよくわからんね」ってなっていたのもあって
自分の性別をペンディング状態にしていた時は
それほど感じなかったものであるし、
「女性として見ないでください」ということを
そもそもよく口にしていたのもあって
「見られる」ことということがよく分かってなかったんですよね。
よく見かける
水着の女性の写真に違和感のあるものが写っていても
男性はそこに写っているものに気づけないってやつでもあるように
違和感よりも自分にとって大事な方に注意が向くってやつで
これは「選択的認知」ってものの一部なんだと思います。
写真にある違和感よりも当座の異性の方が大事ってことになりますね。
なので、当然女性でも異性が大事って人は
認知するものの範囲を「異性」にしている人もいると思います。
ちなみに女性は「見られる性」男性は「見る性」なんてことも言われていたぐらい
女性という性別に生まれ落ちると「人から見られること」ということを
骨の髄から感じるものなのかもしれないです。
いわゆる「女の子って4歳にもなるとおませさんになるよね」みたいなもので
まだまだ幼さの真っ盛りでありながら
大人の女性と変わらない仕草をしてくることがあります。
異性親である父親だちはそれでだいぶメロメロなようですね。
というわけで、女の子って性別で生まれて
自分から周りが望む媚態と使い分けることができる子が
猫っかぶりがうまいと言われたりするタイプになったりするのでしょうが
そうでなくてもある程度の女の子は
自分がどう見られるかということをかなり気にして育つのだと思います。
それはティーン雑誌を見ていても明らかで
女児向けの雑誌の方がどうしたら相手に好印象を残せるか
ということに熱量を割いているかを見ればわかるってものです。
最近は男の子もだいぶ早い段階から「見られる」ことに
それなりに気遣うようになっているようですが、
それでも自らの身だしなみを気にするようになるのは
異性のことを意識し出す思春期以降なのではないでしょうか。
そんなわけで、少なくとも「女の子」「男の子」というものを
当たり前に受け取っている時間が長ければ長いほど
習慣のギャップは生じやすいんじゃないかなって思います。
さて、話はだいぶ逸れていってしまいましたが、
この「見る」ということの期待やら軽蔑っていうのは大きな壁があって、
「見られるだけで汚れた気分になる」というようなものを
どれだけ感じ取ることができるかで
壁の高さや厚さが変わるんじゃないかと思います。
可愛いものや美しいものを見た時に見とれてしまう
ということは動物の本能として当然のものだと思うのですが
これが見られる側の予期していることかどうかで
だいぶニュアンスが変わってしまうってことがあるんだと思います。
私自身も自分のジェンダー、セクシャリティを女性として受け入れた時に
今までしなかった服装や、しなかったメイクなどで「らしさ」を手に入れた時に
視線を感じるということが時折あり、
それが自分の求めている場と求めている人物であれば問題ないけれど
そうでない時に見られていると感じると
ゾワッとするような感覚が分かるようになり、
それがなんなのかが分からなかったけれども、
これがいわゆる「獲物を狙う目線」と似ているということを知って
なるほどそういうことなのか、と合点しつつも
意図せず「獲物」として見てしまう心理なども興味が湧いたりです。
そしてその「どうぞ捕食してください」という気持ちでない時に
「捕まえてやるぞ」みたいなのは恐怖でしかなく、
女性が恥じらいつつも性の解放を行って
スカートを短くしてみたり、ボディラインを強調する服装をしているからって
もっとオープンになる「はずだ」という期待は
「もっと捕まえたいという気持ちを大きくさせてくれ」みたいなものでもあって
なんでそんな勝手な期待に応えないとならないの?
というようなものもあるというわけです。
ツイッターなどを見ていてセクシー女優さんや
比較的露出の多い女の子たちに過剰さを求めるリプなんかを見ていると
この人たちに品性はないのかな?って思ったりもします。
まぁ、それを応援と受け取って肥やしにしていける人の方が
圧倒的に強くなって爆発的な人気を得たりするので
そこは受け取る側の懐の深さ次第だとも思うんですけれど。
そしてその過剰な期待に応えたいと思う人の中には
自分の意思が薄弱な人もいるので
それらが悪魔合体すると手に負えない被害を生み出すことがあるよね
って話がしたかったのでした。
セックス産業にまつわるすべての人が意志薄弱なのでなく
それなりに流れなどもあり、自分で選んだように思えても
巧みに誘導されていて、のちに気づくこともあれば
それも踏まえて「やってきて良かった」とも思うんですけどね。
そんなことは本人にしかわからないし、
本人でさえも過去と未来では別の人物に近いものなので
必ず同じ気持ちでいるとは限らないんですけれど。
とにもかくにも。
「性」をテーマに扱うっていうことは
それだけ繊細なものの上で揺れていて
かくあるべし!なんてものはないんじゃないかなってことです。
そしてそんなことを思いながら
女の子のレタッチ仕事をしているところでした。
キレイとはなんぞや?と思いつつ作業に戻ろうと思います。
そんじゃまた。モイモイ。